第二話 別れと出会い-1
高校3年からの転校。けれど何もトラブルは生まれなかった。それほど人目を引かない。外国人はそこかしこに溢れている。単純に羨ましがられた。
「モテるだろう!」
「あの、おつき合いしてください」
誰も疎まない。夢のような毎日。必要以上に絡みあわず、互いに距離感を持った浅い友人関係はジェイに解放感をもたらした。
母に勧められて入ったバスケット部は性に合っていた。初めてのクラブ活動。目立とうが目立つまいがそんなことがたいして問題になることも無い。
「筋がいい」
「本当に初めて?」
顧問や先輩、同級生の感嘆の声に高揚感を覚えた。全身を使って汗を流す楽しさに溺れていくのは早かった。
「ハリーはバスケの選手だったのよ。あなたも今の内に楽しんで。すぐに受験シーズンになってしまうから」
体力を使い果たして帰ってくると勉強に打ち込んだ。受験に落ちるわけには行かない、母を喜ばせたい。
夜中。勉強中、疲れきって小さなテーブルに突っ伏していると、ふぁさりと毛布がかけられた。気がついて振り向くと痩せた母の背中。
東京の暮らしは、援助のない母子家庭には厳しかった。ハリーに愛されてあまり世の中を知らずにきた母は、ジェイには告げずに必死に働いていた。
夢から覚めるようにジェイは現実を見た。母に仕事を辞めてくれと頼んだ。公立でも多少の奨学金は出る。手続きは全部一人でやった。バスケはやめてバイトもすぐに決めた。母には代えられない。
勉強なら何とかなる。互いに相手を思うがゆえに、庇い合うことに必死な母子だった。
そして、母が仕事先で倒れた。
過労だった。入院が必要だと言われ両手で顔を覆う母。
「いいチャンスじゃないか。ゆっくり休みなよ。こんなことでもないと母さんたっぷり眠れないだろ? 家は大丈夫だよ。豪邸じゃないから掃除も楽だしね」
いつもの様に明るい声で笑うジェイに、母は涙をこぼしながら微笑んだ。
母が不安な時にいつもするように頬にキスをする。『ハリーを思い出す』、そう言われてから続けている二人だけのスキンシップ。少しでも母の気持ちを楽にしてやりたかった。
ジェイは病院に頼んで時間外での母の世話を許された。学校、バイト、家事。母の世話。母の心配を余所にジェイは楽しかった。ここでは素直でいられる、感情を表に出していい。思ったことを口にしていい。
母はそんなジェイを見ているだけで幸せだった。ハリーによく似た笑い声、眼差し。
(東京に来て本当に良かった)
心からそう思う。
「母さん、行ってくるね! いい? あれこれしちゃだめだよ、帰ってきてから俺がやるから!」
「分かった、分かった。いいから行ってらっしゃい」
退院した母に無理をさせたくなくて、毎朝同じことを言う。けれどジェイは知っている、きっとこの後動くだろう。下手するとパートにも行きかねない。早く帰りたい。学校に行く途中で、すでにそう思っていた。
学校が終われば6時から0時までバイト。自分が稼げば母も楽になる。若いからいくらでも無茶ができた。
以前の高校の担任が言っていた通り、大学は一発で決まった。受けられる奨学金はみな受けた。いくつもバイトを掛け持ちし、入退院を繰り返す母に笑顔を向け続けた。その笑顔は無理に作ったものではなかったから、母も安心して受け入れた。
友人は夜の仕事を紹介したけれど、曲がった道に進むことはしなかった。知れば母が悲しむ。
だが。
大学の卒業を母は待てなかった。
「母さん、母さん! 置いて行かないで、母さん!!」
最期まで手を握れたのがせめてもの救いだった。父の時には海を隔てていた。
疲れ果て、苦労し続けたのに母は優しい笑顔を残してくれた。
「ジェイ、あなたにも愛する人が出来る。愛してくれる人が出来る。忘れないで、あなたは独りじゃない」
会話が成り立った最期の言葉。
祖父母には罵倒された。
「お前が殺した!」
遺体はあっという間に引き取られ、葬式の参列も許されなかった。ジェイは遠く、駅から僅かに見える弔問客を眺めていた。日が暮れて、朝を駅の外で迎えた。
――独りで生きていけるよ、母さん。
ジェイから快活な笑い声は消えた。
そこにいるのは、人生に打ちのめされた青年。キラキラと輝いていた美しい魂は、固く、固く、殻に閉じ込められた。
「君がTR大を一発で合格しトップで卒業したという奇跡の男か」
ここも決まらないだろう。そう思った。企業が自分のような者を嫌うことを初めて知った。名だたる企業は全滅。残った道は研究職。大学院に入る余裕などもう無い。ジェイは頑なに就職活動に時間を割いた。
母があれほど信じて期待してくれた将来を『しかない』という選択肢の中に押し込める気は無かった。
「そんな大学を優秀な成績で卒業したんだ、もっといい就職先があるだろう」
面接で何度も言われた言葉。ハーフであること。身寄りのないこと。身元保証人の無いこと。全てが不利だ。そして、知り合いが教えてくれた。
「いい大学をいい成績で卒業した人間を部下に持つって嫌がられるんだよ。いつもバカにされてるような気になるんだろう」
あんなに必死に頑張った成果がこれ。母が支えてくれた成果が、これ。ここが採らなければそれでもいい。何が何でもどこかに潜り込んで両親の誇れる自分になってやる。
「だめならはっきり言ってください。返事待ちで無駄な時間を過ごしたくありません」
厳しい目を向ける面接官が口を開こうとした時に、一番端の若い男性が声を出した。
「君は面白い男だね。仕事、キツくても構わないかな?」
「何でもやります、まともな達成感を得られるなら」
安く売る気は無かった、自分を。両親はそんな自分を望んじゃいない。
「
他の面接官が声を荒げた。
「いいじゃないですか、反骨精神は大歓迎ですよ。開発部としては叩かれるのを苦にしない新人が欲しいんですから」
そして、採用はあっさり決まった。
「君の歓迎会をするから金曜の夜は空けといてくれ」
「イヤです」
即答だった。まさかそう返るとは思わず、課長はジェイを見上げた。
「なんでだ?」
「仕事がしたいです、そのために入社したんだから」
河野は吹き出した。
「今時、君みたいなのがいるんだねぇ。会社にとっちゃ有り難いだろうけど」
表情の変わらないジェイを見て真面目な目つきになった。
「業務命令だ。歓迎会には出るんだ。そこでチームの連中を観察しろ。後で報告書にして出してくれ。以上だ」
業務。なら、仕方ない。
「あ、場所はホテルだ。それなりの格好をしてきてくれ。着替えとして持ってくるといい。仕事が終わったらみんなも着替えるから」
話は終わった、そんな顔で資料に目を落とした。背中を向けたジェイが2、3歩歩いて止まった。そのまま立ち尽くしているのに河野は気づいた。
「ジェローム?」
声をかけられてハッとしたようだ。
「どうした?」
「あの……」
ジェイが言い澱むのを河野は初めて聞いた。
「なんだ?」
「これじゃ……だめですか? 一応スーツだし」
「構わないが。それしか無いのか?」
頷くジェイはまるで途方に暮れたようだった。
「構わないよ。でも社会人だからね、これからは何着か用意した方がいい。顧客相手のパーティだってあるんだから」
「はい……」
消え入りそうな声で呟くような返事をして歩き始めた背中に、河野は呼びかけた。
「悪いが今日は残業だ。残ってくれ」
「分かりました」
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