第2話 隊士・天竺真帆

 凪義なぎは東京へ向かう連絡船のトイレで、朝食べたものを嘔吐していた。


「はぁ……はぁ……」


 ――胃が、植物性のものを受けつけなくなっている。


 美しい黒の長髪を持つこの少年は、秀麗な顔を苦悶に歪めて息を切らしていた。その顔面は蒼白で、眉根には深くしわが寄っている。


 「……サメに近づいている」


 サメは肉食の生き物だ。野菜や穀物のような植物性の食物をだんだん受けつけなくなっているということは、自分のサメ化が進んでいることを意味する。

 鮫肌が現れなくなったことで、すっかり解決したのだと思い込んでいた。だが、実態はそうではなかった。自分の身にかけられたサメ化のしゅは、まだ消えていないということである。


 ――もう自分は、人間には戻れない。


 凪義は憔悴しながら、過去のことを回想した。


***


 葦切凪義十六歳。凪義がサメと戦い始めて、一年が過ぎた頃である。網底島の南岸を襲った「稲妻鮫サンダー・シャーク」との戦いを終えた凪義の目の前に、蓮は現れた。銀の髪に赤い瞳、古風な装いという姿で……


「あーあ……キミは自分のを殺してしまったんだね」

「お前は……蓮なのか」


 まだ、確証は持てなかった。心なしか少し背は伸びた気がするが、顔立ちは蓮そっくりだ。けれどもやはり、銀の髪と赤い瞳というのが、どうにも蓮とは結びつかない。


「そうだよ。ボクは黒縁蓮だ。覚えていてくれて嬉しいよ」

「蓮、まさかとは思うが……この奇妙なサメはお前がけしかけたのか」


 凪義は先ほど仕留めた稲妻鮫サンダー・シャークの目にチェーンソーの刃を突き立てながら問いただした。海底で蓮と出会ってから、自分は鮫人間に変えられた。だから八千丞のいう術師というのは、蓮のことなのではないか……凪義はそう考えている。考えてはいるが、確たる証拠があるわけではない。


「そうだ、といったら、キミはボクを恨むかい? キミだってサメになりかけなのに」


 信じたくなかった。蓮はかつての友で、決して化け物ザメの仲間などではない……そう思いたかった。


「ああ、そうだ、キミの母さんがどこに行ったか、教えてあげよう」


 その時、凪義ははっとした。鮫人間となって八千丞に討たれた父とは違い、母の行方はようとして知れずじまいだ。連絡を取っていた葉栗鼠島の祖父曰く、行方不明のまま捜索が打ち切られてしまったのだという。

 凪義はほとんど、母の生存を諦めていた。諦めていたけれど、生きていてはくれまいか、と心の奥底で願っていたのも事実である。

 蓮は口角を吊り上げ、嫌味な笑いを浮かべながら、そのを明らかにした。


「キミの弟や妹と同じだよ。サメの餌にのさ」

「何だと」


 凪義はほとんど反射的に飛びかかった。回転刃を始動しないまま、チェーンソーで切りかかったのだ。だが蓮はひらりと刃を避け、お返しとばかりに手刀で背中を強打してきた。

 手刀を食らった凪義は痛みを耐えつつ、振り向きざまにチェーンソーを振るった。蓮は横薙ぎに振るわれたそれを、やはり軽い身のこなしでかわした。

 凪義の記憶の中にいる蓮は、まるでこんな風ではなかった。弱々しくて、いつも泣きべそをかいていた。気弱だけれど、それは荒っぽいことを好まない優しさゆえのことだ。


「小癪な方法でサメ化を止めているようだね。大方あのジジイの入れ知恵なんだろうけど」


 凪義と距離を取った蓮は、挑発的にけらけらと笑った。稲妻鮫サンダー・シャークとの戦いを終えたばかりの凪義はすっかり疲労していて、今の蓮と対等に戦うなどは望むべくもなかった。

 彼の言葉が正しければ……蓮は家族を奪ったかたきだ。絶対に、許すわけにはいかない。自分がサメ狩りになったのは、復讐のためなのだから……


「なぜ僕の家族を殺した」

「別に、理由なんかないよ。サメたちは常に腹を空かせてるんだ。キミのお父さんを鮫人間にしたのだって、大した理由はない。たまたま駒として手頃そうだったからさ」


 蓮はけろりと言い放った。二人が仲良くしていた頃、蓮とは家族ぐるみの付き合いだった。凪義の家族も、蓮にとって顔を見知った相手であるはずだ。それをサメの餌にしたり、鮫人間に変えたりするのだから、目の前の男に人としての情はもう残っていないのだろう。凪義にとって、蓮はもはや友などではない。

 疲れ切った体に鞭打って、凪義は再び切りかかった。蓮は、敵だ。もう、迷いはなかった。

 だが、チェーンソーの刃は空を切った。刃を避けた蓮は、体勢を崩してよろめいた凪義の脇腹に回し蹴りを見舞った。凪義の華奢な体は砂浜に倒れ、深緑の詰襟に白い砂がまとわりついた。


「そんなにボクの首が欲しいなら……葉栗鼠島で待ってるよ」


 蓮の体が、もくもくと立ち込める白い霧のようなものに包まれた。しばらく立ち込めていた霧が晴れると、蓮の姿はすっかり消えていた。


***


 残暑の居直る九月中旬、相変わらずの汗ばむ陽気であった。生暖かい風に吹かれながら、凪義とドナルドは青梅駅の改札を出た。

 この二人は新設されたサメ狩り青梅支部の救援に呼ばれ、海から遠く離れた東京都の青梅駅に足を運んでいた。二人の肩には大きな黒い肩掛けカバンがかけられているが、この中には得物が入っている。流石にサメと戦うための武器をむき出しで持ち運ぶことはできないからだ。


「……くしゅん!」


 凪義はさっきから、何度か鼻をかんでいた。本土に上陸してから、何かと凪義は鼻をかむことが多くなっている。そのくしゃみが予想外にかわいらしいものであったため、ドナルドは普段の怖い凪義とのギャップを感じて必死に笑いをこらえていた。


「……もしかして花粉症pollen allergyデスか……?」

「分からない。杉花粉にはよく反応していたが……」


 実は、このことは凪義にとって大いに懸念事項となりえるものである。というのも、彼の持つ卓越した嗅覚が鈍ってしまい、索敵に支障を来すからだ。


 駅前ロータリーに出ると、その向こうでツインテールをした少女が手を振っていた。


「葦切凪義さんとドナルド・マコさんですか? 私、青梅おうめ支部の天竺てんじく真帆まほといいます! よろしくお願いします!」


 やけにはつらつとした、まるで真夏のひまわりのような声であった。凪義はこういった手合いをあまり得意としていない。それはドナルドも同じであったようだ。凪義は少しばかり表情を渋くし、ドナルドは凪義の後ろに半身を隠して縮こまっていた。

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