第9話 凪義の過去

 凪義が黒縁くろへりれんと出会ったのは、二人が小学校に入学した時のことである。あの頃はまだ蓮の髪は黒く、瞳も茶色であった。

 忘れもしない……桜の花びらはもうほとんど散ってしまっていたあの入学式。凪義は膝を押さえて痛がっている男児を見かけた。自分と同じ、新一年生だ。


「ど、どうした?」

「そこで転んじゃって……膝が痛いよぉ……」

「わかった、僕が何とかする」


 渡り廊下の段差につまづいて転んだ同級生――蓮の手を引いて、凪義は大人に助けを求めた。しばらくして蓮の母親が現れたので、凪義は事情を説明した。母は教員に話しかけて、息子を保健室に連れて行った。


 それが、二人の出会いである。


 それから二人は無二の親友として、麗しい友情を育んだ。控えめでおとなしい蓮とは対照的に、凪義は少女のような顔立ちに似合わず壮士であった。血の気は多いが情に厚く、蓮が誰かに傷つけられれば猛然と嚇怒かくどして見せた。

 そんな二人の友情は、小学五年生に上がった年に終わりを告げた。警察官である凪義の父が、母の地元である葉栗鼠島の駐在所に転勤となり、葦切家は一家で島移住になった。


「夏になったら蓮に会いに行くよ。また一緒に多摩川で生き物を探しに行こう」


 凪義はそう約束したが、その約束は果たされなかった。あまりにも突然すぎる、蓮の死……その訃報が、二人を永久に引き裂いた……


 はずだった。


 その翌年の夏――凪義はまだ小さい弟と妹を連れて海で遊んでいた。凪義は生まれ育った東京青梅の山紫水明にも親しんでいたが、この南国の美しい自然もとても気に入っていた。この島こそが自分の第二の故郷だ……と感じるほどに、島に親しみを抱いていたのである。

 

 浮き輪をした二人を引っ張って、凪義は岸を遠ざかっていた……その時、まるでクジラのように大きなサメが現れた。その異常な体格のサメは、凪義の弟、次いで妹を一口で食べてしまった。本当に、一瞬の出来事であった。凪義は叫び声すらあげられなかった。

 サメの出現によって、海水浴場は騒然となった。当然、凪義も必死で岸まで泳いだ。何かに足を掴まれ、海中に引きずり込まれてしまった。サメではない何かが、凪義を引っぱったのだ。

 海底にいたのは、白い肌をした少年であった。男の瞳は赤く、縦長の細い瞳孔はまるで夜行性の蛇のようだ。


「蓮……?」


 少年の姿に、凪義は見覚えがある。黒縁蓮……不幸にも分かたれてしまった、かつての友だ。記憶の中の蓮は赤い瞳などしていないし、銀の髪でもない。けれどもその顔は、蓮以外にありえなかった。


「ボクと一緒においでよ」


 音声を聞いたわけではない。頭の中に、蓮の声が響いた。そして銀髪の少年が、白い手を伸ばしてくる。その手を、凪義はとっさに振り払った。彼の手を取ってはだめだ……本能でそう判断したのだ。


 凪義の意識は、そこで途切れた。


 ……そこからどうやって砂浜に戻ったのか、凪義には記憶がない。だが、気づいた時には砂浜で突っ伏していた。その時、もう空は暗くなりかけていた。

 目覚めた凪義は、砂浜を駆け回って両親を探した。が、何処にもいない。更衣室で服を着た後、持っていたスマホで電話をかけたが繋がらなかった。

 一人ぼっちの凪義は、祖父の経営する旅館に戻るために夜道を歩いていた。この時凪義の頭を支配していたのは、ただ恐怖と絶望のみであった。よしんば両親と再会できたとて、弟と妹はもう戻ってこない。どうにかなりそうだった。これは夢だ、悪い夢なのだ……そう思いたかった。


 ――その時、凪義は妙な匂いを嗅ぎ取った。誘われるままに脇道へ入ると、道の左手にある林から、人が出てきた。


「お、お父さん!」


 背格好と来ている服は、凪義の父そのものであった。だが、出てきた父はくぐもったようなうめき声を発するのみで、凪義の呼びかけに答えようとはしなかった。

 お父さんが苦しんでいる……そう思った凪義が近づいた、街灯に照らされた顔は、確かに父のものであった。父は首を掻きむしりながら苦しんでいる。様子がおかしいことは明らかだ。


「う、ああああああ」

「お父さん!?」


 叫び声を上げながら、父の頭部がぐにゃりと変質していく。飴細工のようにぐにゃぐにゃと曲がった父の頭は、やがてサメの頭部のような形になった。


「ぐるるる……」


 サメ頭と化した父は、獣のように喉を鳴らしながら迫ってくる。凪義は後ずさったが、石につまづいて転んでしまった。尻もちをついた凪義を前にして、サメ頭が大口を開ける。

 大口が凪義の目の前に迫ってきたその時、凪義は素早く足元にあったものを掴んだ。

 それは、赤い色をした小型のチェーンソーだった。以前、映画で見た通りに、凪義はスターターロープを引っ張ってみた。唸り声をあげながら、チェーンソーの回転刃が回り出す。

 

 ――あれは、お父さんじゃない!


 凪義は瞬時ためらったものの、すぐに意を決した。迫りくるサメ頭怪人の脇腹を狙って、横薙ぎにチェーンソーを振るった。回転刃が血管を断ち、肉を抉り、怪人の着ている紺のポロシャツを赤く染めていく。

 だが、怪人もやられているばかりではなかった。大きな手で凪義のこめかみを鷲掴みにし、そのまま物凄い力で頭を持ち上げた。凪義の足は地を離れ、チェーンソーも取り落としてしまった。

 そして空いていた左手が、凪義の首を掴んだ。ぎりぎりと首を絞められた凪義は、かっ、はっ、というかすかな声を漏らしながら、怪人の左手を掴んで剝がそうとした。しかし怪人の力は強く、どうあっても離してくれそうにない。


 ――僕も、死ぬのか。


 酸欠からか、凪義の意識がだんだんとぼやけてきた……その時だった。急に、怪人は凪義の頭と首から手を離した。

 地面に着地した凪義が見たもの……それは、怪人の胸を貫く、長い刀であった。誰かが、後ろから怪人を突き刺したのだ。

 突き刺された怪人の体はみるみるうちに崩れ、白い灰のようになった。後には着ていた服と、山盛りの灰だけが残された。


「小僧、ついてこい」


 下手人は、父よりもずっと年上と思われる、白髪頭の老爺であった。老齢にもかかわらず筋骨逞しいこの老人は、ほとんど拉致同然に凪義を車に乗せ、その後船に乗り換えて網底島あみぞこじままで連れて行った。

 この老爺こそ、凪義の師匠となる、頬白ほほじろ八千丞やちすけであった。八千丞は島に着くや否や、凪義の目を見て言った。


「小僧、しゅを受けたな」

「呪……?」


 八千丞は、凪義にサメと術師について教えた。

 術師は、しゅをかけた相手をサメに変えることができる。呪によって人間からサメに変えられた者は、普通のサメが持ちえないような特殊能力を発揮する。この術師はそのサメを使って、人間たちを襲うのだ。しかし完全にサメに変わるまでには時間がかかり、サメへの変化の途中で鮫人間になるのだという。

 海底で見た、蓮そっくりの少年……彼がその術師なのだろうか。確証はないが、凪義にはそうとしか思えなかった。


「お前を襲ったあの怪人はお前の父親か」

「……その通りです」


 信じたくはなかったが……認めざるを得なかった。


「そうか、お前の父親も鮫人間に変えられたか。言いたくはないが、お前もだ」


 凪義は目を白黒させながら、この老爺の話を聞いていた。少し間を置いて、八千丞はサメ化を防ぐための方法を凪義に教えた。その方法というのは、術師によって生み出されたサメの血を、定期的に摂取することであった。

 いずれ自分も父のように、人ならざる怪物になって、他の人を襲うようになる……考えたくもなかった。そんなことになるぐらいなら、今すぐ首をくくってしまいたい。


「本当なら、鮫人間の首はすぐ跳ねてやるところだが……小僧、お前は二つの内の一つ、どちらかを選べる」


 八千丞は、凪義に二者択一を迫った。完全に鮫人間と化す前に首を差し出すか、それともサメに対する自警団「サメ狩り隊」に入隊し、訓練を積んで敵討ちをするか……


 ――敵を討ちたい。


 凪義は死ぬことより、生きて復讐に己を捧げることを選んだ。その日から、過酷な鍛錬の日々が始まった。

 

 サメ狩り隊士の殆どは、身内をサメに殺された者たちであった。そのため、彼らのサメに対する怨恨は相当深いものがある。凪義もまたその例に漏れず、自分の家族を奪ったサメへの憎しみを原動力に、過酷な訓練に励んだ。


 そうして、三年ほどが過ぎた。凪義が十五歳を迎えた年の夏である。


「葦切凪義、お前を正式な隊士と認める」


 八千丞は、低く落ち着いた声で凪義に言い渡した。それから二日後、早速凪義はチェーンソーを手に、網底島の南岸で一頭のサメを討伐した。初陣の相手は、砂に潜り、地中から跳び出して人を襲う「砂鮫サンド・シャーク」であった。

 それから、凪義は復讐を原動力に、鬼神の如く戦った。見たこともない不思議な能力を持ったサメたち、その全てをことごとく切り伏せてきた。元が人間であろうと、ためらいの情をもつ凪義ではない。


 そうして二年の歳月が過ぎた。によって術師が葉栗鼠島にいることを掴んだ凪義は、仲間を引き連れて島へと向かったのであった。

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