5

 暗い天井に燈るケータイの光源がぐるぐる螺旋を描いて回転していた。僕はなんども胃袋からカンパンの溶解物を吐き戻していたようだったが、たぶん男に脇を抱えられていたのだろう、意識が白濁していた。置かれた状況がまるで判然としなかった。ただひたすら寒いのは憶えているが、じぶんがどうやってそこまで辿り着いたのか、その前後の記憶はぷっつり途絶えていた。たしか電車がぐるぐる廻っているその最中、僕は逆転する風景のなかで声の主を見たはずだった。捩れて歪む車輌の左のほう、窓枠の上方で、焼け爛れる女性らしきが僕をしっかり捉えていた。その暗がりで光る無言の目が、救いを乞うようにじっと僕を見つめていたのだった。いや、見つめていたのは僕の目だったのだ。

 声を出そうとして反吐を噴いたのはどうやら僕のようだった。鼻からくちから止めどなく溢れだしてくるが、まぶたを閉じればたしかに楽で、視野が回転しなければ天地も逆転しないから、これはたぶんまぼろしなのだ――僕はじぶんにそう言い聞かせているのだった。こんな酷い状況下へ埋もれながら一個の脆い人間がいのちをとりとめていられるはずがないわけだし、もしかりに生き延びていたとしても、みながぶじで地下から確実に逃げ遂せる方法など僕にはかいもく見当がつかなかった。

 それだから吐気をこらえて祈る想いで男を見つめていたのだった。あたかも生きてそこへ存在するかのようにふるまうその女性らしきの淡い面影に、僕は慄き打ち震え、聞こえぬはずの声まで聞こえるのだった。

 ――俺たちにできるのは、俺たちが生き残ることだ。

 男はそう話していたようだった。

 ――俺たちは是が非でも生き残らなけりゃならねえ。たくさんを見殺しにしてでも、それでも俺たちには生き残らなけりゃならねえ義務がある。俺はそう思う。

 歪み廻る視界のなかに、ほんのつかのま、男のまなざしの真剣さを捉えることができた。僕にはそれが意外に思えたが、しかし僕みずからが死の危険に瀕しているのだという意識の欠如を、まるで他人ごとのように認めている僕がいるのだった。僕とヒナコがこの地下に埋もれて死んだとして、ほんとうに母さんが悲しんでくれるのかどうか、ぐらぐら懐疑が大きく揺れるし、おなじ意味でもって母さんが死んだとして、僕が深い欠落感を覚えるかどうか、定かではなかった。みずからの死の現実よりも、それに附随するであろう信義や意味のほうが遥かに重要に思えるのはなぜなのか。

 煎じ詰めればどうしてじぶんが地下にいるのか、現実にいるのか、それすらもわからなくなってくるのはどういうわけなのか、じぶんにはわからなかった。暗闇が存在するのは知っていた。知ってはいたが、こんなにも間近にあるとは夢にも思わなかった。いつか必ず暗闇に帰るということ。じぶんが死ぬということ。ぼんやりとではあるけれど、それはあたまでは理解してきたつもりだった。ほんの数刻前までは、自他の分別つかぬ死が、燃え盛る炎のように向こう岸でもってパチパチにぎやかに爆ぜていたのだ。立ち昇る炎も煙りもぜんぶがみずからの血と肉なのだ。

 しかしそれら焼け焦げ爛れる他人の死は、僕の眼前を通り過ぎてしまうと、晩秋に吹く木枯しのように冷ややかなものへと変わった。冷たく頬を撫ではするが、骨身にまでは凍みないのだ。死は何人にも等しく訪れるはずだった。来訪予定をあらかじめ告げ知らすこともあれば、とつぜんにやって来て物物しく扉を叩くこともあるはずだった。返事を待たずに押し入ることだってあるはずだった。あいてはじぶんを殺す気でやって来るのだ。僕がよくわからないところの死を齎すのだ。いまさら騒ぎ立てたって無駄なのはわかっていた。わかっていればこそ、死とは折合い調停をつけたかったが、そこに至るための肝心要の方法がわからなかった。

白濁する意識の泥濘へと温かく沈みながら、僕はそんなことを思っていた。一瞬ヒナコを忘れていたことに気づいた。つかのまみずからに感けていたことを意外に思っているじぶん、それが意外だった。当たり前だが、ヒナコは僕ではないのだ。地底にいるという現実──この状況そのものが僕なのだ。この沈黙する長い暗渠そのものが僕じしんなのだ。みずから降りて迷い込み、みずからの複雑さ空虚さを彷徨い歩いているのだ。深い暗渠は僕でありながらヒナコでもあった。どうしてか僕を介抱するこの男でもあった。

 じぶんとは、たぶん僕のことではないのだろうと思った。ヒナコでも男でもないのだ。おそらくは暗渠から抜け出そうとする意志。慄きながらも生き延びるべくもがく意志。それがじぶんなのかもしれなかった。それだから、男は僕を抱えているのかもしれなかったし、怪我した左の足を庇って、苦し紛れにビッコを曳いているのかもしれなかった。いまさらだが、僕らが互いの名前を知らずにきたのはそういう理由がおのずから働いていたからではないのか。僕が僕じしんが死ぬ光景をうまく想像できないのも、それが僕じしんであったかもしれない他人の死の現実がじょうずに理解できないのも、おそらくはじぶんというやつが、僕でも他人でもないところに普遍するからなのではないか。僕でも他人でもあるところに存在するからなのではないか。

男はその両腕で僕の体を、そして傍らにヒナコを従えていた。均衡を保てるはずもなく、ぐらぐら体感が大きく揺らいでいた。踏み段を下りるような鈍くて柔らかい振動が去来するたび、噛み締めている歯の隙間から熱く湿った息が荒荒しく洩れてきていた。それは僕の頬を生臭くなんども舐めては撫でていた。汗で蒸れるシャツの下の、しなやかに躍動する胸板の奥では、重みのある心音が寸分の狂いもなく太く強く打たれていた。その意志の漲る律動が、この瓦礫と沈黙の底にあって、いったいどれほど力強くありがたく感じられただろう。

 緩慢に歩みを進めながら男はしゃべっていた。僕に話しかけているのかヒナコにささやいているのか判然としなかった。ひとり呟いているのかもしれなかったし、あるいはそれは、僕が途切れる意識の合間にみる夢幻の光景であるのかもしれなかった。この世に確実なものがあるとは思えなかった。そんなふうに男は呟いていたのかもしれなかったし、あるいは僕がそう思っているのかもしれなかった。人類史上かつてなく精巧かつ重厚な鉄筋鉄骨コンクリ文明が、これほど脆くたやすく崩れ消える日をいったいだれが想像できただろう。

流れ落ちる水しぶきが灼熱する砂塵であることに気づいたのはずいぶん時が経ってからのことだった。配管が破裂したのではなかった。地上の重みを支えきれずに天井のいちぶが崩落しているのだった。男は肩からリュックを下ろし、壁へ凭れて肩で息をついていた。額に滲む汗の粒が、とめどなく垂れては噴きだし光っていた。喰い縛る歯並びから鉄の棘のような吐息を荒荒しく洩らしていた。拳を固めて気張っていた。天井の完全な崩落。男はそれを二のうでに担ぎ、たったひとりで喰い止めるべく苦悶しているかのようだった。

 じっくり見ると、頬がこけて目が落ち窪んでいるのがわかった。疲労がすくいがたく蓄積しているのは一目瞭然だった。僕はリュックから手拭いをひっぱり出して額から頸すじへと滴る男の汗をぬぐいとった。拭いても拭いてもキリがなかった。男の汗腺がその機能を制御できなくなっているのは明らかだった。ボトルを取って男のくちに充てる僕。シャツを肌蹴さして絞っては拭く僕。男はいつになく真剣に目配せしていた。僕がその視線に気づくと、男はヒナコを横目に見て顎でしゃくるのだった。その瞳は黒く、溢れんばかりに力が漲っていた。僕に行けと促しているのだった。僕はくびを横にふる。すると男の目に怒りが閃く。さっさと行けと僕を睨む。

 ふたたび僕はくびを横にふった。僕はヒナコを抱きながら男の傍らに腰をおろした。死ぬのならいっしょだし、生きるならいっしょだ。地下で起きたことすべてが僕であった。それに僕も男とおなじく体じゅうが言うことを聞かなくなってきていた。べったりと湿った手拭いには、男の汗のほかにも僕の体の臭いが染みこんでいた。僕の体も悪寒に震え、暗いはずの視界が奇妙にあかるく白濁していたのだ。

 こんなふうにじぶんが死んでゆくなんて夢にも思わなかった。

こんなふうにじぶんが瓦礫に埋もれてゆくなんて夢にも思わなかった。

こんなふうに僕たちに終りが来るなんて夢にも思わなかった。

僕は轟音のただなかにあった。断続的に細かな砂粒が降っていた。それは暗渠に降りてからの経験から判断すると、あの圧倒的な強度と量感を誇ったコンクリが崩落する前兆だった。僕が見上げる暗闇の先では、そのみずからの質量に耐え切れない天井が、いよいよもって大きく撓んで崩れようとしているのだ。僕はヒナコのからだを抱きよせた。あたまを覆って撫でさすった。しかし僕にできるのはそこまでだった。

 僕は朦朧とする意識のひもを、虚脱する肉体につなぎとめることにのみ全力を傾注した。そうやって救いを待つしか手はなかった。僕にはもはや、ヒナコの温もりしか感じることができなかった。それでじゅうぶんだった。

ただ耳元にやさしく風がふいていた。清々しい緑色の風だった。蝶が舞っていた。カモメが群れて鳴いていた。まぶしい光がさしていた。そこは海が見える公園だった。母さんが笑って、ヒナコも笑っていた。ほんとうは僕はそこにいるはずだったのだ。

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終り あきまり @akj

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