4

 トンネルへと入る際、めめりりィィィという苦しげな軋み音が聞こえ、僕はつかのま天井を仰ぎ見た。はじめ我が目を疑った。ぐにゃりと圧し折れるコンクリの中柱へと、なおも天井全面が容赦なく熨しかかっていた。垂れ下がる電光板はその責務である発着案内すらできぬままに荒れるホームの床面とのあいだで虚しく板挟みに遭っていた。そうして片頬がぶん殴られたようにぺしゃんこにひしゃげていた。そしてそのひしゃげた電光板の隙間から、うすく粘膜に被われる地底生物のような血塗れのうでが、窮地から這い逃げるべく試みていた。そしてそのうでの付根の女性はというと、すでに潰れて死んでいた。

 トンネル内部はまたしても暗かったが、こんどはケータイのカメラ照明があった。その青じろい貧弱な光線は、深淵の縁を覗かせる黒闇へと向かって放たれたが、それらはもれなく吸いこまれて、なんらも照らすことなく消えるのだった。予期した通りではあった。慰めていどのささやかな代物だった。しかしながら前方視野の確保は困難でも足下のみならその光量で充分すぎた。僕は男からケータイを渡されて、最後尾から三人の歩みを淡くおぼろに浮き上がらせた。位置と角度を幾通りか吟味して、僕は男とヒナコが最もあるきやすく感じられるであろう状態に脇を締めて肘をしっかり固定した。

 繰り返される靴音。煙に捲かれる息遣い。がさがさビニールが擦れる音。果てしない暗闇から、来るはずもない電車が眩しくライトを照射しながら警笛鳴らして到来するのを僕はわずかながら期待した。軌道上をあるいていれば、いずれ電車とすれちがうのではないかと、ふとした折りに思うのだった。足が重いせいもあった。膝や踝が振り子の留め具のように感じられた。振り子の先にくっつくのは鉄球の重しだった。それが僕の足だった。男とヒナコ、ふたりの小気味よく撥ねるバネのような歩みが見えるからこそ、僕は余計にそう感じるのかもしれなかった。

 ――だいぶ、進みましたよね。もう隣駅へ着く頃だろうと思い、僕は言った。

 ――疲れたか? 歩を緩めず男が訊いてきた。

 微熱があるのかもしれなかったが、僕はくちを緘して言わなかった。置き去りにされるような気がしたからだ。男なら躊躇なくそれをしそうだし、そんな男の冷酷さを直接に確認するのが恐ろしくもあった。握り直して手首に触れると、ヒナコの膚がひんやり感じられて気持ちよかった。しずかに撫で擦りながら、この鈍く光る金属の軌道はもっと冷たいかもしれないと僕は思った。そしてそれに片足で踏み上ると、男がとつぜんに立ち止まった。

 ――脱線してやがる。男は呟いた。

 男の隣へ僕も踏み出した。果してそれは電車だった。車輌は烈しく捩れながら横転していた。煙りに捲かれて二輌先までしか見えないが、ところどころで焔が小さく揺らめいていて、全身の塗装が燃え爛れているのがわかった。

 ――ちょっと覗いて来てくれ。男が言った。

 ――え? 僕は意味がわからなかった。

 ――やれやれ。怪我しちまったぜ。なんか鋭いのを思いきし踏ん付けちまったようだ。

 男はしゃがみ込んで左靴を脱ぎ、ケータイの照明で足裏を照らした。血で汚れる土踏まずがぽっかり黒く穿たれてあった。その穴めがけて男は唾を垂らし、噛み殺すように短く呻いた。その表情の歪みは僕まで歯を喰い縛ってこぶしを固く握るくらい苦悶に満ちていた。

 ――ぼんやり見られたってッ、治るわけじゃッ、ねえんだッ。

 男の吐息は荒かった。苦痛に皺よる額から玉の汗が噴いては垂れ落ちていた。頸すじや胸もとまで筋肉が強張って黒く濡れ光っていた。喰い縛る歯茎から熱い蒸気が噴きだすかのようだった。男には僕たちを検める余裕すらなかった。傷がとにかく深いというなによりの証左だった。男は呼吸のリズムを調えるべく、ときおり強く短く息を吐いていた。

──頼むから電車のほうをッ、偵察してきてくれよッ。

 痛みを捩じ伏せるべく男は全身を小刻みに震わせながらケータイを差し出した。受けとるケータイを通してその震えが伝わってきた。僕に選択する余地はなかった。ヒナコをよろしくと頼み、照明をかざして恐る恐る傾いた電車へと近づいた。もっとも危惧するのは爆発だった。いちど炎を噴いたようだったが、いちど噴いているからもう大丈夫だ思える安心感から、更なる不安が芽吹いてはふくらむのだった。爆発がいちどで終わりだとする根拠なんてどこにもないのだ。

 はじめわからなかった。わからないからこそ僕はぐんぐん接近することができた。それだから間近で見たときは声すら失った。熔けた窓枠から垂れるのは縫ぐるみではなく幼い子どもだった。脱出を試みたのではなく上から熨される重みでもって食み出しているのだった。死体の折り重なる厚みが横たわる車輛の底へと集積していた。そこから子どもが食み出て窓枠へと襟首が引っ掛かって吊り下がり、沈黙する周囲を静止画にして確かにゆっくりと回転しているのだった。子どもの手足が浅く焦げてケロイド状にじゅくじゅく爛れていた。生皮をぬめりと剥がしたような白っぽい赤身が惜しみなく晒されていた。どの死体もそうであり例外は一切なかった。

 ――死体が乗ってんのかッ。男が僕の背後へ怒鳴った。痛みで苛立っているのだ。

 僕が返事せずにいると、男はますますもって怒った。

 ――カメラで撮って来いッ。撮れるだけ撮れッ。その窓んとこのもだッ。いいなッ。

 頼むのでなく命令しているのは明らかだった。となると囚われのヒナコは人質だったが、僕はなぜか知らないが、男がヒナコに乱暴を働くとは思えなかった。それどころか危難の折り身を呈してヒナコを護ってくれるのではないだろうかと勝手な想い込みを深めていた。いずれにしても、死んでしまったひとたちを撮ってなんに使うのか、その意図するところを測りかねたが、おそらくは僕を睨んでいるであろうあの剣呑なとろんとした目つきを想うと、遡及する気力すら萎えてくるのだった。

 車輛の横転火災という、その僕たちを度外視する状況のまったき理不尽さは、このカメラのフレームへと切り出された子どものように、寡黙にただ延延ぶら下がることによってのみ事態の深刻さを物語るはずだった。そしてその物語の一部に、僕たち三人はいつ加わるとも知れなかった。僕たちが地中から脱出するであろう希望は、彼ら犠牲者の未来でもあった。彼らは僕たちで、僕はその子どもでもあった。詰まるところ、そこで死ぬ人間すべてが僕でもあった。

 すべてのことがじぶん自身へと撥ね返るからこそ、僕は沈鬱になり考えるのを止めてしまいたくなるのだが、僕は僕自身からは逃げられなかった。至るところ遍在する死は、この僕へも着実に迫っていた。ヒナコの身にも男の身にも着着と迫っていた。だれもじぶんからは逃れられない現実を、僕は彼らの醸す力強い沈黙から悟ることができた。生皮だけでは許されず、過去も未来も剥された彼らの無言の叫びが、僕は聞くに耐えなかった。彼らはじぶんがなにものかなぞ頓着せず、生き延びるべく悪夢から叫んでいるのだった。

 ――とにかく撮れ。考えるな。俺らにどうこうできる問題じゃあねえんだ。

 たしかに男の言う通りだった。仮に生存者がいたとしても、死体の積み重なりから動いて僕たちに無事を告げ知らせる行為は熾烈を極めるだろうし、幸いに僕たちが気づいたとしても、灼熱する車輌へと乗り込んで行って救い上げる余力は残り乏しかった。僕は僕の手足を動かすので精一杯だったし、男は足裏を負傷していた。ヒナコに至っては緘黙自閉の態だった。一刻も早く脱出して地上の救助隊へと地下ここを告げ知らせるしか皆が助かるであろう方法はなかった。それはわかっていた。

 ――撮ったら行くぞッ。手を貸してくれッ。

 僕が振り向きうなずいた、そのときだった。またしても背後から呟くような声が聞こえた。男はヒナコの肩を抱き寄せていたがそれを咎めている猶予はなかった。僕は振り返り見廻したが、目に映る死体の数のあまりの夥しさにその声がどこから洩れてくるのか判断がつかなかった。

 ――どうしたッ? 男もおどろき訊いた。

 ――いま声がしたような気が……。僕はなおも全体を見渡しながら言った。

 ――こんな酷え状況で生きてられるわけねえだろ。気のせいだ。

 しかし声は確かに聞こえてきていた。こんどこそ、あの亜熱帯で植生するようなうでのときとはちがって、かすかな、ほんとうにかすかな囁きが聴かれるのだった。

 ――撮ったら用はねえ。行くぞ。

 すでに手当てが済んだらしく、男は踵を踏み潰して靴を穿き直していた。瓦礫から手頃な長さのパイプ棒を拾っては杖代わりにして、そうして僕になんの断りもなくヒナコの手を引いて歩きだしていた。しかし僕は声が気になった。たぶんヒナコの身は男が護ってくれるだろう――心胆なくそう思い、僕は声の響く方角へ耳を傾けていた。手負いでもいい、こんな状況下だからこそ仲間がいるのではないかと思ったが、それは真正な僕の気持ちではなかった。僕は仲間を助けるのではなかった。僕は僕じしんを助けようとしているのではないかと思った。もちろんその僕はこの僕ではなかったが、あたまに閃く感じとしては、僕は僕を助けるのだという強い自負があった。それはかつて経験したことのない不思議な想いだった。その想いが、この僕を導くのだった。

 僕が踵を返すなり男は舌打ちした。

 ――つくづくお人好しな兄ちゃんだ。

 構わず僕は燃え残る電車の方へと進んだ。

 ――待てよ。俺らは早く地下から出なくちゃなんねえんだ。わかるよな?

 振り返ると厚い煙りの雲間から男とヒナコと猫袋が浮き出して来るのが見えた。

 ――助けなくちゃ。僕はきっぱり言った。

 ――仮に生存者がいたとして、だ。その手負いの仲間がなんの役に立つ? お前、この子を引っ張って、その手負いも背負ってくって言うのか? そんなのあ、共倒れすんのが目に見えてるぜ。仮に瀕死の人間が埋もれてたとしてもだ、俺らが早く脱出できれば、地下で埋もれてるやつが助かる公算だって高まる。てめえが恐がってる場合じゃねえんだよ。学校いかずにカーテン締めて、ろくすっぽ陽にあたらねえでチンポばっか扱いてたんじゃ駄目なんだ。そうだろ兄ちゃん。チンポはてめえが弄るんじゃなくて、アソコに突っ込むためにくっついてんだからな。外さ出て、いい塩梅に濡れるあったかいのをしっかり探さなくちゃならねえ。生き延びなくちゃならねえ。

 冗談なのか本気なのか、その顔つきからはわからなかった。男は繋いだ右手を離さずにヒナコを抱き寄せるようにしていた。しかし背後から呟きがかすかに聞こえて来ると、男はふっと顔色を変えたが、それを僕に気取られまいとして平静を装うとするのだった。

 ――確かに此処にじっと留まってれば安全だがな、そうもいかねえ。水も食糧も薬もねえし、助けが来る見込みだってうすい。兄ちゃんがじぶんの足で動くのにちょうどいい機会かもな。いいか、死んじまったらぜんぶお終いなんだ。ゼロなんだ。

 掠れ声は僕のすぐ背後から洩れてくるようだった。こんどは男も気づいたらしく、それ以上なにも言ってこなかった。僕は駆け寄りケータイをかざして扉を照明で燈した。鉄の棒を拾ってドアーの隙間に捻じ込んで開けようとしたが固く締まっていた。ちからいっぱい叩きつけてもビクともせず、逆にその反動でもって僕のうでのほうが弾かれて、骨が芯からびりびり痺れて疼くのだった。

 再三に渡って試みたが、とつぜんに目眩がして視野が暗み、どうしてか悪寒が走った。すると体じゅうから冷や汗が吹きだしてきていた。目の前で傾く電車がぐらぐら上下に揺れていたのかもしれないし、あるいは手足が勝手に震えだして、膝やら頸が崩れはじめているのかもしれなかった。僕はその場にまっすぐ立っていることができなかった。尻もちをついていた。しかし諦めたくなかった。なおも扉へと打撃を加えていたが、その手に戻る反動の弱さからして、力が入らず、おそらくは棒の先端でもって気休めていどに突っついていたのだろう

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