3

 緩やかな坂が続いていた。男が先頭をあるいているはずだった。熱く呼気する気配があった。全面の彎曲する構造の頑強さがこれまでの水路とは比較にならないらしく、僕たちの暗闇を探る足音や熱く乱れる息遣いが、なにか橇でも乗ったように滑らかに、長いトンネル内を螺旋を描いて絡み合って遠退いて行った。僕が歩みを止めても音は響いて滑り来るから男は確実にそこにいるはずだった。そう思ってなにも考えないよう努めたが、この手を繋ぐヒナコのうでが、実はあのただのうでなのではあるまいかという疑念がむくむく首を擡げるたび、僕は立ち止まっては不安の輪郭を踏み潰すべく、ヒナコをぐいッと引き寄せて、うでの付根がちゃんと柔らかな胴体へと接続されているかどうか実感を得るべく執拗に手探るのだった。

 恐くてしようがなかったが、僕たち兄妹がとんでもない状況下に置かれているのだという認識はうすれてきていた。暗闇から突然に襲い来る危険から逃れるために全身が強ばって緊張しているせいかもしれないし、立ち止まらずにひたすら移動しているせいかもしれなかった。手足が疲労して重かったが、眠気はなく、意識はすこぶる鋭利だった。しかし透明静寂な闇が相手では、その鋭利さはなんら奏効しなかった。水を斬れない刃物といっしょだった。僕はその意識の鋭利さと闇の対蹠が、またしても人生の比喩のように思えてきてかぶりを振った。そんなことを考えてもただ虚しくなるだけだったが、考えずにはおれなかったのだった。

 時間が進み往くほどに、ドブの腐臭に代わってビニールの熔けるような黒い煙りが臭ってきた。周囲はまったき黒闇だが、肺臓が煤で充填されるような重量感のある黒っぽい臭いだった。その臭いを吸い込むと、噎せ返して目から涙が滲みでた。そしてその臭いを滋養にするかのように、僕の目の奥に坐る神経の茎らしき太い束が、みるみるうちに肥大してのたうちまわるかのようだった。それは竜が尾を曳き撃つように鈍く強く疼いた。まぶたの上から眼球を柔らかく押していると、こちらを振り向いたらしい男がボソリと言った。

 ――臭いでわかる。まるで煉獄だ。

 声の響きがずいぶん遠い。十数メートル先から話しているようだ。

 ――穴のでぐちが近い。その子に目隠ししてやれ。見る必要ねえもんまで見ることねえからな。

 僕は頷いてヒナコのスカートの裾をしゃにむになって噛み切った。くちに含むたび、へどろの味が唾液に滲んでじんわり舌へと染みでたが、贅沢ばかりも言ってられなかった。ヒナコはまるで抵抗しなかった。為されるままにすべてを任していた。そんなヒナコの両目を端布でしっかり覆って結び着けながら男に訊いた。

 ――外ですか? 出られるんですか?

 ――外じゃねえ。地下鉄の駅構内だな。燃え跡だ。たくさん焦げてやがる。

 確かに分子構造を彷彿とさせる化学的な悪臭に、髪の毛とか脂肪とかの燃えるような独特の臭気も嗅ぎ分けられた。僕はヒナコのうでを引き、罪過にでも肩入れするように、強く鼓動を絞りながら男の声のほうへと近づいた。

 昇るほどに立ち込める煙りが濃さを増した。熱風が頬を撫でつけた。目の奥で竜がのたうつ嫌な臭いだった。僕はスカートを捲り上げてヒナコの鼻とくちを覆った。耳を澄ますまでもなく炎の爆ぜる音が聞えた。すでに最盛期を過ぎたらしく控えめな爆発だった。ほどなく穴から出られたが、黒っぽい煙りがひどくて視界が開けなかった。しかし男は風の流れを巧みに読んで最善と思われる道順を躊躇せず択んだ。僕は男のあとを附かず離れず歩いた。ときどき枕木に躓いてつんのめるヒナコをしっかと抱き、うすらぐ煙りの切れ間から仄暗い構内をざっと見廻し、その波のように揺らぐ明かりが小さな炎の余波であるのに気づいた。

 いくつかの路線が連絡し合うターミナルのようだったが、それがどこの駅なのか、地理に関する僕の乏しい知識では解明できなかった。天井と側壁のところどころが崩れ落ちて、案内板は割れ裂け熔けて煤やら灰をかぶっていた。ベンチも転がり溶解して飴のようにぐにゃりと曲がっていた。僕たちの進む足下では、箍の外れる歪な軌道へと、爆風で噴き飛んで引っ掛かったらしい鞄やら金属片やら帽子やら眼鏡やらが燃え焦げ煤けて散乱していた。男はそれら漂流物から燃焼のていどの浅い鞄類をてきとうに拾い上げて中身を物色していた。

 ――とりあえず喰いもんだ。兄ちゃんも探せ。

 すぐ傍へ持ち主がごろんと倒れていないのが幸いだった。僕は女物の鞄とスポーツバックに狙いを定め、ケータイ電話三台――うち一台はラジオが受信できる型、食べかけのカロリーメイト一箱、ビニール袋入りの女性用下着と生理用品、テニスラケットや運動靴、タオルや着替一式などを手に入れた。男はすでに煙りのうすい風上へと辿り着いて坐り込み、漁ってきた物品をぜんぶ地面に広げて、手にとって難しげに検めていた。

 僕は男の背後に廻りヒナコを着替えさせた。抱かかえる猫の屍骸から腐った血液が滴っているのだとばかり思っていたが、その白い太腿を汚すのはヒナコ自身の血液との混交だった。熟し過ぎた南国の果実のような、汁気のある臓物をそっと摘んでビニール袋へ収めて、ちょうど屍骸を下から包みこむようにして把手をきつく縛った。袋の底へはすぐに黄濁する汁がねっとりと溜まった。新鮮なTシャツとショーツに着替えさせたかったが、むずかって猫を離さないから無理だった。タオルでヒナコの体じゅうの汚れをきれいに拭いて、僕では扱いが難しい生理用品を下着といっしょに着用させた。運動靴のサイズもちょうどよく、それも履き替えさせた。

 そのように僕が奮闘する傍らを、男はまっすぐを凝視して通って行った。鋼鉄のパイプを堅く握り締め、すぐ戻る――そう言い残した通り、煙りの向こうへと消えるなり強く力み唸る烈しい打撃の音がひとしきり沸き立って、やがてしんと鎮まると、雲間から浮上するようにそのすがたを現した。その間わずか数分で、男は手に入れたボトル飲料を僕へと二本も抛り投げてよこした。潰れた自販機を完全に破壊してきたのだ。

 ――水のほうでちゃんと体を拭いてやれ。屍骸は寝時を狙ってあのうでと交換するんだ。

 男は男のリュックを顎でしゃくってみせた。そこにうでが横たえてあった。僕は頷いて律儀にも辞儀までしているじぶんの可笑しさに気づいた。ポケットの硬いふくらみは、ケータイたちのしわざだった。電波さえ届けばラジオが受信できるはずだった。それはこの暗闇へすくなからぬ光明をもたらすはずだった。僕はボトルを置いて急いで取りだした。男もそれまでにない僕の敏捷さに、不意を突かれたように振り向いた。

 ――なんだそれ? ケータイか? 興味なさそうに男は訊いてきた。

 ――ラジオが入るやつです。拾ったんです。僕は息を弾ませる。

 ――なに? それで聞けるのか? 男は声を上擦らせた。

 落としてあった電源は入り、チューナーも正常に機能したが、ラジオが受信できているのかどうか、その肝心要がわからなかった。画面にチャンネルと周波数が映っているが、イヤフォンがないから聞くことができないのかもしれなかった。スピーカーから音を出力できるんじゃないかと男はしつこく主張したが、僕は使い方を知らないし、言い出した男に至っては、ケータイに触れるのさえはじめだった。男は僕が指し示す鞄を漁ってイヤフォンを探し回り、僕は僕で悪戯な機能にさんざん弄ばれた挙げ句、そのワイン色の憎らしい機械は突如として沈黙した。画面が暗転した。充電が切れたのだった。

 男の見せる落胆はひどいものだったが、収穫ならあった。ラジオにばかり気をとられたが、画面上に時刻が表示されていたのだった。たしか二十一時三十五分とあった。機能に狂いがなければ僕たちは九時間ていど当て所なく地中をさ迷っていたことになる。あるいはまる一日が経って三十三時間か。その夜の到来を示す数字を見て、僕は半日に亘る活動をつかのま省み、脳に疲労が滲むのを覚えた。全身が温かな泥のような倦怠感にゆっくりと沈んでいっているのがわかった。

 ――喰って休もう。菓子パンがあった。そら、喰えよ。

 男の投げるパンすら捕えられなかった。眠気はピークに達していたが、パンを拾って壁際へ移動して僕たち兄妹は獣の仔のように身を寄せ合い丸まった。僕はなんとか袋を引き裂いてヒナコにパンと飲みものを渡し、温かくて心地よい眠りの沼底へとのめり込んでいったのだが、ほどなくして――といっても眠りがあまりにも深すぎてどのくらい時間が経過していたのか見当がつかないのだったが――左右に烈しく揺すぶられて、有無を言わさぬ豪腕でもって温かな泥沼の深みから引き戻された。

 ――おいッ起きろッ。ようすがおかしい。

 男は僕のうでをとり引き起こした。

 ――煙りが逃げていかねえんだ。向こうのほうの、俺らが登ってきた穴の傍にあるトンネルのほうに流れていかねえ。こっち側のトンネルがどっか崩れて空気の流れが遮断されたか、向こうのほうの、あっち側のトンネルに設置される排煙の機械みてえなのがイカレちまったか。どっちにしても、もうここは危ねえ。長居できねえ。逃げるぞ。

 ヒナコはすでに起きていた。あいかわらず猫の屍骸を抱いていた。僕は立ち上がってヒナコの手をとり、胸元あらわに擦り下がる肩紐をもどしてやった。そうして頬や額にくっついている土や埃を払い落としてやった。

 ――避難路はどこなんだろう?

 ――この奥だ。男は僕たちの背後を顎でしゃくった。

 それは地下鉄トンネルのいりぐちだった。男が「こっち側のトンネル」と呼んだのはこれのことなのだろう。さっきは眠くてわからなかったが、どうやら僕たちは構内のいちばん端にいるようだった。男は僕が寝ているあいだ周辺を調査したらしく、大体の構造を把握していた。

 ――だが駄目だ。登ればいずれ煙りに捲かれる。

 ――どうして?

 ――煙りも登るんだ。なんならちょっと覗いてきてみろ。途中、死体がごろごろ転がってるはずだ。

 ――でも避難路なんで安全だと思うけど。

 ――馬鹿め。だれが安全って決めた? これから避難すんのは俺らなんだぞ。役人じゃねえ。俺ら自身なんだ。これは俺らの現実なんだ。ちっとはじぶんの目で確かめて、じぶんで考えて判断しろ。

 男の意見はもっともだが、僕は避難路でない場所を通ることのほうがより危険であると思った。

 ――造りが丈夫だと思います、避難路のほうが。

 僕が言い終わるなり男はコトバに力を込めて勢いよく言い放った。

 ――いいか、時間がねえんだ、よく聞けよ。避難路で死んでる連中は煙りに殺られたんだ。ここで火災が起きたときお前みてえな奴らが避難路にたくさんが駆けこんだが、排煙する機械がなんらかの事情ですぐに作動しなくて、それでもくもく昇る煙りに燻されて窒息したんだ。言ってみりゃ避難路全体が煙突だ。地上にまっすぐ繋がるからな。いままでは小康状態だったが、火勢がまえより強まってる。けっこう煙りが出てきてる。だから俺らは向こうの、あっち側のトンネルに抜ける。俺が言ってる意味わかるよな? 造りの強弱が問題じゃねえんだ。

 ――それならここでじっとしてるほうが安全なんじゃ?

 ――じゃあ、ここで煙りに捲かれんのをお前は待つのか?

 ――ここは駅だし、助けが来るかもしれないから。

 ――呆れたやつだ。かれこれ半日も経ってんだぜ。ここは冬の八甲田じゃねえ、助けが来れんならもうとっくに着いてるはずだろ? 来れねえのは事情(わけ)があるからだ。通信とか情報が断絶してんのかもしんねえし、地上(まち)そのものが壊滅しちまったのかもしんねえ。俺らみてえな状況に陥ってる連中が何十万何百万っていんのかもしんねえ。そう考えんのが自然だろ? まあもっとも、その連中の大半はとっくに死んじまってんだろうし、俺らもそいつらの仲間入りしそうになってんだがな。とにかく俺はもう行くぜ。死にてえんなら勝手に死ね。ただしその子は俺が連れてく。

 リュックを拾うなり男はヒナコのうでを引いた。ヒナコと手を繋ぐ僕もとうぜん引き摺られる。指がぬめってするりと滑り、僕だけが取り残されそうになる。落伍する僕の重みがぬけるから、ヒナコを引く手は軽いはずだが、男は前方の黒闇を凝視して躊躇なく前進する。

 語勢の強さはもちろん、男の決断の早さにも僕は心底から感嘆した。どうしてこの男と出逢わなかったら、僕たち兄妹はいまもなお暗闇に揺れる影の鮮鋭に脅えていたか、煙りに捲かれて燻製にでも仕上がっていたかもしれなかった。そう考えると、先へ先へと邁進するこの粗野な男の背中すら逞しく美しく見えてくるが、あのとろんとする細く重たげな目つきだけは、僕はどうしても好かなかった。あの目でじっと見られると、油断ならぬぞと心がにわかに警笛を鳴らして緊張するのだった。僕はそれを責め苦として感じ、男にすまなく思った。それだから言った、――すいません、と。

 すると男は振り向きもせず応えた。

 ――生憎と俺はコトバなんか信じちゃいねえんだ。すまねえって思うんなら態度で示せ。目に見える形で。

 僕は黙ってあとを追った。もちろんヒナコから離れてはならなかったからだ。しだいに濃くなる煙りに遮られて手を繋ぐヒナコの体すら見え難くなってきたが、猫を包むビニールの擦れる音がしきりに前方で騒がしく鳴っているから、僕は相対的なじぶんの位置をつぶさに確認できるのだった。そしてそうしなければ、僕はあるいて附いて行けないくらい足が重くなっていた。あるいは靴みずからがヘドロを含んでその重みを増したのかもしれなかった。立ち込める煙りは例によって化学的な嫌な感じに臭っていた。その臭いが僕の感覚を乱しているのかもしれなかった。

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