5

 上役からの言いつけがあって、あすの昼までに竜宮界へもどっていなければならないと亀がしきりに訴えるから、朝はやくに海へむかって、それまでに結論をだすことになった。


 夜ふけ、まずはじめに亀が酔いつぶれ、うつむき無言の白鳥さんも、うでがどうして透けたのか、たぶん理解がおよばぬままに、坐りこんだまま疲れはてて泥のねむりへとしずんでいった。


 亀のうるさいいびきのあいま、うつむき夢みる白鳥さんの、さざなみのような心地よい寝息がかすかに聞こえていた。


 昨夜に懲りて、冷房はいれなかった。タイマーをセットして、扇風機をまわした。


 灯かりを消して床につくと、亀がぼそりと寝言をしゃべった。


「かおるは生まれ変わるんだ……むにゅむにゅ……」


 そんなことを言われても、いまひとつ実感がわかなかった。


 とにかくねむかった。ねむりたくなかった。ひたすらまぶたが重たくて、意識がうすれて朦朧した。せっかくそばにいることができるというのに、おかしなわたしは、どうしてか気を失いかけていた。


 まだなにか亀がぶつぶつ呟いていたが、とうとつに暗幕がたれてフッと消えた。




 ねむりが浅かったのかもしれなかった。


 まどろむまぶたのすきまから、白鳥さんがかすんで見える。


 窓ぎわサッシにもたれかかって、やわらかな月の光をあびながらじっと川すじをながめている。


「かおるさん――」


 わたしの気配を察してか、白鳥さんはささやいた。


 ぼんやりあたまが靄がかり、うなずくことすらできないが、とくに気にとめるふうもなく白鳥さんはつづけていた。


「かおるさん、オレはね、むかしブラックホールってあだ名つけられてたことがあるんだ。小学から中学にかけてだったかな。なに考えてるかよくわからないから暗黒のブラックホール。みんなオレをうらやんでそんなあだ名をつけたんじゃないと思うけど、言われるとなんとなくうれしかった。オレがニンマリよろこぶから、気味わるがるやつもいた。べつにいじめられたりはしなかった。人畜無害だったからね。だれちゃんとだれそれは仲がわるいとか、相性がよくないとか、そういう現実の学級生活には興味がもてなかった。星ばかりながめていたからね、妙なやつだっておもしろがられていたんだと思う。ちょうどかおるさんが海をながめるのとおなじかな。星をながめて本を読んで、相対論とか量子論とか、なんとなく理解できたような気分になって、そうしてようやく、ブラックホールってよばれてなんとなくうれしくなってた気持ちの謎が、なんとはなしにとけてきたんだ。


 ブラックホールは重力が強すぎて物質はおろか光すら吸いこんでとじこめてしまう暗黒の天体だって言われてるけど、それはとうぜんブラックホールの外から観察した場合の客観であって、光の粒子とか物質の原子とか、そういう吸いこまれる側がひとしく体験するところの現象ではないんだ。吸いこまれる光や物質は、ブラックホールの潮汐力があまりに強すぎるから、安定することができずに次々と崩壊してゆく。物質は崩れて分子から原子にくだけ、原子核がつぶれて素粒子になり、質量が無限大に近いから時空のゆがみも無限大にちかくなって、崩れた素粒子はもちろん時間とか空間までも、ぜんぶがとけだしていっしょくたにまとまって、なんだかよくわからない不可解な、オレたちのことばでは記述不可能な、それとしか言いようのないそれになってしまうんだ――」


 もともと、できがわるいのだ。あまたがぼやけていなくても、いちど聞いたくらいでは、いったいなんのことやらか、意味などわからなかっただろう。それなのに、ことばがくっきり鮮明に、仔細もらさず聞きとれた。まるで水を吸いとるスポンジだった。一滴たりとも洩らさなかった。


 それにつけても、亀をふくめずふたりっきりで、せっかく話せるチャンスなのに、おかしなわたしは、ただただひたすらねむかった。白鳥さんに見つめられたままねむりにおちてゆける……そう思うと笑みがこぼれた。こぼれおちているのがハッキリわかった。


「かおるさん、オレはね、それを知りたかった。さがしてみたかったんだ――」


 もっともっと、たくさんの話を聞いていたかったけど……




 オトコを家に泊めるだなんて、以前のじぶんには考えられないことだった。


 朝陽がさしこむ食卓でも、海へむかう車のなかでも、白鳥さんはうつむいていた。昨夜のことはおくびにもださず、サイドシートでなにかを考え巡らしていた。対照的に、亀は終始ご機嫌だった。


「異界にこれほど長居したことはなかったからな、じつに有意義だった。機会があったら、またぜひ来てみたいものだ」


 亀のことはどうでもよかった。白鳥さんが青ざめているから気になって気になってしようがない。


「酔いました?」


 と訊いてみる。


 白鳥さんは首をふる。


「トイレですか?」


 こんどはうなずく。もうしわけなさそうに白鳥さんは伏目ぎみにしている。


 道ばたに車をよせて、左へまわってドアをあけて白鳥さんに肩をかした、というか、肩をささえた。


「まったく、かおるがいい迷惑だ」


 亀がぼやいていた。


「ごめんね、かおるさん……」


 気にするなと言っても、気になるに決まっていた。だまってうなずいた。


 道路から見えなくなるまで土手をくだって、白鳥さんのかたわらにしゃがみこんだ。


「ごめん、ホントにごめん……」


 動悸が強く打っていた。ふるえる指でジッパーをおろし、白鳥さんの性器をつまみとった。そうして眼をつむって引きだした。オトコのひとの用のたしかたなんてくわしく知るはずがなかった。


「これでいいですか?」


 そう訊くと、つまんだ性器がびくびくふるえだした。ふるえるたびに、すこしずつふくらんで固くなった。気まずくなって、そのまま性器をつまんでいた。すると勢いよくほとばしる音が聞こえた。温かな水しぶきが手にかかった。ころあいをはからって目をあけると、つまんだ性器はたくましく反りかえって怒っていた。昨夜の亀の頭より立派だった。


「ごめん、落ちつくまで、もうちょっとだけ……」


 どうしたらよいのかわからなかった。立ちあがって背をむけて、そのまま待つしかなかった。


「なにしてる、はやくしろッ」


 亀だった。


 ふりかえると、亀が窓をあけて身をのりだしていた。


「こんなとこで油うってる暇なんかないんだぞ。はやくしろッ」


 車を見あげて性器をあらため、あきらめたように白鳥さんは歩きだした。


「おいッなんだッ、みっともないぞッこっち来るなッ、ちゃんとしまってこいッ」


 白鳥さんをよびとめて、恥ずかしくて顔から火がふきでそうなのを必死にこらえて、慣れたふうをよそおって性器をにぎりとり、苦労して押しこんでジッパーをしめた。


 とうぜんのごとく、車中コトバはすくなくなった。


 よほど図太い神経をもっているのだろう。ついさっき怒鳴ったばかりなのに、亀はすこやかにねむっていた。かたわらの白鳥さんは窮屈そうに前屈みになり、あいかわらず股間をふくらませていた。うでをなくした無力感、そこにオトコとしての恥ずかしさ口惜しさまでながれこんでいっしょくたになって、古い木造家屋みたいな頼りない顔つきになっていた。


 しゃべろうにも、どうきりだしたらよいものかうまく判断がつかなかった。きのうまでの白鳥さんとは、あきらかに雰囲気がちがっていた。雲のような飄飄さがその影をひそめていた。うでのこともあったけれど、氷山の一角、わたしはようやく白鳥さんの、芯に肉づく考え想い、その片鱗をうかがいしることができたのかもしれないとも思った。そしてそう思うそれだけで、わたしの胸のずっと奥のほう、錆うく空虚な内燃機関が、緩やかな音をたてて滑らかに火を浮かしうごきはじめるように感じるのだった。


 窓をあけて潮風をあびながら半島を海岸沿いに南下して、おととい亀を釣りあげた浜辺へともどってきた。左うでで亀をかかえて、ほとんど付き随うように注意ぶかく白鳥さんを見守りながらテトラポットをとびわたった。波しぶきが舞っていた。ウミネコたちが鳴いていた。太陽は中天にさしかかり、わたしたちを痛いくらい照りつけていた。亀をたすけたのはほんの二日前だけど、もうずいぶんむかしのことのような気がした。


「で、どうするんだ?」


 置くなり亀がそう言った。


 行こうとは決めていたけど、「行く」と言うのがためらわれた。ためらっているうちに、じぶんが行きたかったのか行きたくなかったのか、だんだんわからなくなってきた。わからないというこたえが嘘いつわりない正直な気持ちだった。しかしわからないというこたえは亀がもとめるこたえではないはずだった。わからないというこたえは、たぶん「行く」というこたえに翻訳される、そう契約した。高慢ちきなこの亀が、わざわざ出張ってやってきて、手ぶらでかえるはずがなかった。亀のまえでわからないとこたえるのは、「行く」とこたえるのと同等だった。ふりだしにもどってきたわけではなかった。


 行ったがさいご、もう二度ともどってこれないのだ。行きたいわけではなかった。かといって行きたくないわけでもなかった。淡い球形の影をあやつる術を、じっくりと気がすむまで習ってみたかった。この世界のすべてのヒトが生きものが、どうして死にゆく滅びゆく定めにあるのか、その謎をといてみたかった。そうやって理由をいろいろこしらえてきたけれども、ただひと言、「ごめん」と父さんにあやまりたいだけなのかもしれなかった。しかしこの世界においては、消えるモノは消えることによってそのモノじたいが意味をうしなう。つまりじぶんが消えると同時に謎がとけるのでは意味をなさないし、じぶんが消えるのでは父さんにあやまれないのだ。だから行くわけにはいかなかった。


「どうする?」


 亀が訊いた。


「まさかわからんなんて言うんじゃないだろうな?」


 苛だっていた。


 風がやみ、浪はないでいた。ウミネコたちが消えていた。


 熱くまぶしい光みちみちる豊穣な沈黙が、えんえんこんこん海へと広がるかのように感じられた。それは、澄んだ光の屈折する、遥かなカンブリアの海なのかもしれなかった。海の浪すべてに沈黙がとけだしていたころの、黎明原初の風景なのかもしれなかった。


「じぶんで決められんのなら俺が決めるぞ」


 そのときだった。


 白鳥さんがまえへすすみでた。


「オレが行く。オレを連れてってくれ」


 亀もこっちもコトバに詰まる。


「たのむ。オレを連れてってくれ」


 亀がうさんくさそうに白鳥さんを見あげる。


「うでか? うでをとりもどしたいのか?」


 白鳥さんは深くうなずいた。


「うでもそうだが、腕時計がさきだ。母の形見なんだ」


 亀は笑った。ナンセンスだと首をふった。


 いい意味でもわるい意味でも、見えるモノふれるモノにとらわれてしまう人間心理の強固な機能が、亀には理解できないようだったし、理解したくもないようだった。


「ただの腕時計だろ、バカらしい」


 白鳥さんも引きさがらなかった。


「たいせつなんだ」


 亀は嘲笑った。いいかげんにしてくれ、そう言いたげだった。


「おまえにとってたいせつなのは腕時計か? そこにいる、かおるじゃないのか?」


 ハッとした。


 亀が視線をこっちになげる。


 白鳥さんもこっちを見る。黒く力強い瞳だ。


「かおるはな、おまえのことを想ってるんだぞ。おまえに抱かれる夢までみてるんだぞ」


 白鳥さんはじっとこっちを見つめていた。怒っているのではないかと思えるくらい真剣な澄んだまなざしだった。あの夢をのぞかれているのではないかと思えてきて恥ずかしくて眼をそらしそうになったけど、またここで逃げだしたら、こんどこそほんとうに亀としか話せなくなってしまうのではないかと思えてきて、白鳥さんを、真正面から見つめかえした。


 白鳥さんは凛々しく胸をはっていた。湛えられたほほえみには、決意が色濃くにじんでいた。


 やっとはじまったばかりなのに、そう思った。そこにくっきり映るのは、まるで別れの情景のようだった。


「かおるさん─」


 白鳥さんが言う。わたしはくびをよこにふる。瞳で強くうったえる。


「かおるさん、もどってくるよ、かならず。オレにはもどる意志があるんだ――」


 抱きしめてほしかったけど、抱きしめるためのうでが白鳥さんにはなかった。


 亀はこんどは茶化さなかった。急かしたりもしなかった。


「行くぞ」


 亀はまえあしで甲羅をたたき、さっさと乗れと合図した。


 白鳥さんは靴をぬいで、つぶれてしまうのではあるまいかと心配そうに、ゆっくりとつまさきから体重をかけて甲羅にのっかった。すると吸いつくように足裏から貼りつくのだった。亀は平気そうだった。白鳥さんはわたしを見つめ、やさしくうっすらほほえんだ。行ってくるよ──そうつぶやいたように聞こえた。


 行かせたくなかった。もうだれも行かせてはならなかった。この招かれざる珍客を、現実へとひきとめておかなければならなかった。うまく手懐けなければならなかった。そうでなければわたしたちは、あの白鳥さんのうでのように、雲散霧消と化してしまう。


 亀はうしろあしをふんばって、きらめく水平線をながめたまま、


「かおる、また会えるのをたのしみにしてるぞ」


 と言った。


 待ってとうでをさしだしたその次の瞬間、亀はふんばりを解いて強靭なバネのように弾けていた。旋風が舞って髪が乱れて、ふりかえれば、波が切り裂けうねっていた。亀も白鳥さんも、すでに見えなくなっていた。


 ウミネコたちが空にもどっていた。浪しぶきがテトラポットに弾けていた。行儀よく脱いである皮靴のみが、白鳥さんの存在を痕跡としてきざみ残していた。


 追いかけなければならないとは思ったが、追いかけてはならなかった。追いかけて行ったら、海を泳ぐ魚が銀河を泳ぐ魚になるのとおなじ意味で、じぶんはこのじぶんではなくなっているのだった。とうぜん白鳥さんもじぶんの知る白鳥さんではなくなっているのだ。


 それだから待つしかなかった。


 まぶしく光の充溢する海の彼方をながめながら待つしかなかった。




 その部屋は、夜の暗がりへと潜水していた。気泡がたちのぼるその深海で、わたしは白鳥さんの皮靴ばかりをながめていた。


 このくたびれた靴に白鳥さんのいろんな物語がきざまれている――そう思うと、なぜかしら不思議な気持ちにくるまれた。深い深い海の奥底でじっと耳を澄ましていると、せわしなく駆けまわる白鳥さんの足音が、遥かな地上から聞こえてくるようだった。モカの香りが甘くひろがるときのあのほほえみだって感じられるし、夜空を見あげる白い端整な横顔だって想いうかんでくる。


 そこは光のとどかない、水の世界だった。皮靴に、影なんてなかった。ただ皮靴らしき物体が、波すら絶えた沈黙の海で停止するだけだった。けれどもそれでじゅうぶんだった。白鳥さんの皮靴らしき存在を感じる、それだけで、わたしは想いが満ち足りてあふれだしてくるのだった。いなくなってしまったようには思えなかった。なくなってしまったようには思えなかった。そう、このわたしみたいに海へと潜っているだけなのだ、そう思えてくるのだった。


 あの浜辺へと、亀を手懐けひきつれる白鳥さんがもどっているように思えてきて、気がつけば、靴をかかえて沈黙の世界からとびだして、階段をかけおりていた。息をきらして海をめざしているわたしがいるのだった。

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あきまり @akj

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