4

 ときおり打ち上げ花火がひゅるひゅる発火しては嬌声がのぼっていた。


 宵っ張りのアブラ蝉が、ずっと遠くのほうで鳴いていた。


 食器を洗って寝床にはいると、風のながれがすうっと消えた。カーテンのすそが微動だにしなかった。蚊とり線香の煙が、細いまっすぐな線をえがいている。


 汗ばんだので、寝巻をぬいだ。がまんならずに、窓をしめた。そうして冷房をつけた。


 亀はかたわらでねむっているようだった。固い甲羅が太腿にあたっていた。ひんやりして心地よかった。


 天井は影だらけだった。影が濃すぎて闇だった。この闇も、あの影みたいにふくらむのだろうかと思った。ふくらみのなかに、いったいなにがあるのだろうと思った。わたしの望むものがあるのだろうかと思った。缶ビールの中味がなくなったのは手品だったとしても、あの球形の淡い影は、およそ理解できる範囲をこえているように思えた。


 亀が寝返りというか寝回転した。そうして屁をひった。


 やはり狡猾な悪鬼というよりは、まぬけな神さまという感じだった。竜宮界からやってきた、すっとんきょうな神さまだった。おかしな影のふくらみが日常茶飯事にありきたりに展開する、そんな不思議な竜宮界を想うと、胸がおどって高鳴った。こんなにも心はずむのは、ずいぶんとひさしいことだった。


 影がふくらみをもつということは、ひょっとすると、影の集合である闇からは、いろんなモノゴトをとりだせるのではないだろうかと思った。とりだせるだけではない。闇のふくらみにわけいって、時間とか空間とか次元とか、思うがままに自由に行き来することができるのではないかと思った。胸がつまって苦しくなった。恋するような気分だった。母さんや白鳥さんを想いうかべると、善意と好意を裏切るような、うしろめたい気持ちにも駆られた。


 あくびをついて、のびをした。


 まぶたが重くてずるずる落ちる。カフカの世界の門扉のように、鈍くて重くて頑強だった。あらがおうにもあらがえなかった。


 夢をみていたようだった。


 ドラマすらない、いきなりのクライマックスだった。


 白鳥さんに接吻されて、白鳥さんに愛撫されて、白鳥さんに抱かれていた。


 淡く夢だとわかっても、心地よさに押しながされて、すべてをゆだねてしまっていた。


 白鳥さんのカタマリが、熱くゆっくりと、まるで時間でも遡るように、粘つく襞をかきわけて、奥深くまではいってくるのがわかった。クラゲみたいな透けた体に、ほんのり赤く魂が色づくような、温かな充実感にくるまれていた。


 それだけに、夢からさめても、陶酔した。しばらくうっとり、とろけていた。


 股座が、モゾモゾうごいていた。うごくと気持ちよくなった。


 夢の余韻にひたりながら、暗がりをまさぐって、枕もとのスタンドを点けた。


 見れば、タオルケットが、もりあがっていた。股のあたりが、ふくらんでいる。


 はぎとってみると、亀だった。


 小刻みに、間断なくふるえるものだから、色っぽくため息がもれてしまう。


 ふにゃふにゃ手足をくねらせながら、なんとか上体をおこして、下着からねじこんでいる亀の首根っこをつまみとった。


 糸ひく頭をひきぬいて、乱れた息をととのえた。


 吸っては戻して吸うたびに、わたしの胸がふくらんだ。


 おいしい夢でもみたのだろう。亀は寝ぼけまなこで、涎までたらしていた。


 濡れた頭はてらてら光って、首には青すじがうかびあがっている。


「なんのつもり?」


 恥ずかしくて口惜しくて、つよくは難詰できなかった。


 亀はというと、こっちの気持ちはおかまいなしに、しごく平然と言ってのけた。


「冷房が寒くてな。かおるのココが、あったかくてちょうどよかった」


 タオルケットで乳房をかくして、亀の頭をひっぱたいた。


「ヘンタイッ」


 シッポをつまんで窓をあけ、ベランダへ放り投げた。サッシをぴしゃりと閉めるなり、鍵を二重にかけてみた。


 亀だと思って、侮った。まったくもって、不覚だった。


 ちゃんと寝巻を着て、腰紐をしっかり結んで、用心に用心をかさねて寝た。


 さすがにこんどは襲われなかったが、朝になって眼ざめると、蒲団のすみっこに、ひょっこり亀はもどっていた。どうやら懲りたらしく、行儀よく甲羅におさまっていた。窓の鍵はしまっていた。缶をあけずに中味を飲んだ、影のふくらむ妖しい術を、じっさいに応用してみせたのだろう。


 術の虜になってはいたが、すっかり亀には幻滅した。


 亀を無視して、朝ごはんをこしらえた。


 シシャモを焼いて、シジミの味噌汁を用意した。


 シシャモを食べると、亀が起きた。


 また食べると、亀が言った。


「俺にもくれ。腹がへってかなわん」


 人間をはずかしめておきながら、よくも言えたものだった。


「昨夜のことならあやまる。とにかく腹がへった。俺にもくれ」


 性には興味ないようだった。


 ホッとした反面、すこしさびしくもあった。


 亀相手に、すこしさびしくなっているじぶんが、なんだか意外だった。


 亀はせっせと歩いてきた。椅子まで来たので、抱きあげた。


 亀にシシャモを、一匹あげた。


 亀はシシャモを、べちゃべちゃ食べた。


 いつのまにか、亀をかわいく感じてしまっていた。そんな不埒なじぶんに気づいて、亀の頭をひっぱたいた。


 亀は怒って、


「なんだよ、なにすんだよ」


 といきりたった。


「罰よ。夜の」


 亀はなにも言わなかった。


 まずそうに、ししゃもを食べつづけた。




 部屋を荒らさぬようにきつく言いつけて、9時まえに部屋をでた。


 玄関先までやってくると、亀はまったく気のないふうに、


「きょうでこの世界も見納めだな」


 なんて台詞をはく。そうして事務的にまえあしをふる。


 どういう風の吹きまわしか、「行ってらっしゃい」のあいさつをしているつもりなのだろう。うれしいわけではなかったが、釣られていっしょに手をふった。


 ずっと旅立ちのことを考えていた。はたらきながら自省していた。


 旅にでたいなんて思ったことはいちどもなかったが、出会った亀に諭されて、どうやらじぶんがどこかへ行きたがっているらしいことが判明してきた。じぶんの気持ちを亀に告げ知らされるなんて、なんだか不甲斐ない気がしないでもなかったが、亀のコトバはただのキッカケであって、現にこうして亀の話す竜宮界とやらに行ってみたいと思っているじぶんがちゃんといるわけだから、やはりずっとずっとむかしから、海を感じる胎児のころから、不可知な世界へあこがれつづけてきたのだと言えるのだろうとも思う。


 それにしても影がふくらむだなんて、おもしろくておかしかった。仕事中、ランプの精でも呼びだすみたいに、カップと淡いその影を、なんどもなんどもこすってみた。むくむくもわもわふくれたら、いったいどうしてやろうかと、期待ばかりふくらましていた。


 あたらしいパートのおばさんが、怪訝そうにこっちをながめていた。


 たぶん知らないのだと思って笑いながら見あげると、潮でも引くようにたじろいだ。頬とくちもと引き攣って、ほほ笑みながら目をそらすのだ。モノの影がふくらむなんて、どう考えたって尋常ではないのだろう。それだからこそ、影がふくらむその事実は、ほかのだれでもないこのわたし、亀と出会った人間が、たしかに引きうけるべき現実なのだろうと思った。


 いずれにしても、亀をたすけたいまとなっては、もうあともどりできなかった。


 もうずいぶんと遠くまで来てしまっているのだった。亀が見えるし、影がふくらむのだ。亀と話すということは、そういうことなのかもしれなかった。やはり旅立つほかないのではと、決意と呼ぶほどでもなく、あいまいに思いながら影をなでさすっているのだった。




 店をでると、いきなり会った。白鳥さんが、待っていた。


 夢で抱きよせ入ったくせに、屈託なく笑っている。


 恥ずかしくて、眼を伏せてしまう。


「きょう、お邪魔していいかな?」


 亀がいるけど、うなずいた。すみやかに、力強くうなずいた。


 白鳥さんはほほえんで、車のドアをあけてくれた。


 こわばる体がさらに固まる。シートベルトでくくりつけられたお地蔵さんのように、ぎこちなくシートに身をゆだねる。ウインカーがはねる音──。ギアがセカンドで噛みあう音──。鼓動が高鳴る。強く打つ。となりに坐る白鳥さんを、赤道直下の日差しみたいに熱く感じる。沈黙をぬりこめるべく話しかけようと思うけど、なにを話したらよいかわからない。毎度のことだ。あれこれ悩んで腐るうち、家までたどり着いている。ホッと胸をなでおろす反面、残念にも思う。話すべきは亀ではなく、となりに坐る白鳥さんなのだから。


 そんなわたしの気も知らず、亀はしっかり待っていた。玄関先のマットのうえで、くびを長くのばしている。


「ただいま」


 とあいさつする。


 亀はやけにおとなしい。


 改悛したと思いこみ、よしと頭をなでてやる。


 亀は不機嫌そうに、


「もううごいてもいいのか?」


 と訊いてくる。


 これにはあきれた。


 ずっとうごかずいたらしい。


「いいよ」


 そううなずくと、くたびれただのつまらないだとの亀は不平不満をたらたら垂れて、


「とにかく腹がへった。なんかくれ」


 と言ってくる。歩く足へとまつわりつく。


「かわいい亀だね」


 車を停めてきた白鳥さんが、人懐こい猫みたいだと言って笑った。


 しゃべってしまえ、と思った。


 亀がしゃべればこっちの勝ちだ、そう思った。


 すると、どういうわけか亀がしゃべった。


 しょっぱなから、暴言を吐いた。


「カワイイだと? このキザ野郎、ふざけるなよ、俺を家畜なんかといっしょにするな」


 ふりむきざまに、言ってのけた。


 白鳥さんは、呆けていた。目をしばたたいていた。


「なんだキザ野郎、文句あるか」


 白鳥さんが、こっちを見る。不安そうに、首をかしげる。


 迷わずほほえみかえしてあげる。たいして意味なく、うなずいてみる。


 白鳥さんは、はじめぎこちなく笑った。


 つぎに困ったふうに笑った。


 そしてさいごには、わけがわからなくなったらしく、とりあえず笑ってみせていた。


 こんなにも笑われて、亀の自尊心がだまっていられるはずもなかった。


「おいキザ野郎――。おまえ、すごく失礼だぞ」


 亀はしかめ面で言った。額や首にあおすじがうかんでいる。


 ひとしきり亀をながめると、白鳥さんは苦笑いしてこっちを見た。半ば途方に暮れながら、瞳が助けをもとめている。


「こいつ、きのう回してあそんだ亀。おしゃべりでしょ?」


 亀を横目で一瞥すると、白鳥さんは壊れた機械みたいにうなずいた。


 ちらちら見られて苛だつらしく、亀はますます語気をあらげる。


「かおる、このキザ野郎をさっさと家にあげろ。そして飯だ」


 一介の居候が、いったいじぶんの部屋にいるみたいに亀は言う。まるで封建社会の家長のようだ。


 亀と白鳥さんは、テーブルへ斜向かいに坐った。


 白鳥さんはふだんどおり、終始うつむき気味だった。それだから、亀の気迫にまかされてしまっているように見えてしまう。


 気まずい沈黙へ背をむけて、焼豚と長ネギをゴマ油で炒めた。


 亀にはビールを、白鳥さんにはウーロン茶をお酌する。


 ビールを飲む亀を、白鳥さんはじっと見つめていた。奇蹟をまのあたりにしたような、おどろきともよろこびともつかぬ奥行のある顔つきだ。


 亀も見られて気になるようで、


「かおる、俺たちの馴れ初めをこのキザ野郎におしえてやれ。かるく混乱してるぞ」


 そう亀が言うのももっともだった。


 亀にはずかしめられたことだけははぶいて、残りぜんぶを白鳥さんにおしえた。


 亀はこっちを見なかった。白鳥さんはだまって聞いた。グラスを手のひらで包んで、液体に透けるむこう側をじっと見つめていた。


 説明し終わると、


「つまり」


 と白鳥さんは言った。また亀をちらと見た。


「つまりこちらの亀のかたは、かおるさんを竜宮界へと導くために、海のむこうの異次元からわざわざ出張ってきた、というわけか」


 確認するというよりも、疑り深いじぶん自身につよく言い聞かせているような感じだった。見ようによってはなにかたくらみがあるような、くちのわるい亀をこてんぱんに論駁してやるための足がかりをさぐっているような、そんな余裕すらただよっているようにも見えた。顎に指をそえて、白鳥さんは低く唸って、そうしてやっとのことで口をひらいた。


「かおるさん、さっき、深海魚が知らない銀河をオレたち人間が知ってるのとおなじ意味で、オレたち人間が知らない世界をこちらの亀のかたが知ってるって、そう言ったよね?」


 白鳥さんは一気に言った。淀みなく、すらすらと言ってのけた。


「かおるさん、考えてみて。魚が銀河へとびだすとき、たしかに銀河を体験する。でもね、その体験したところの銀河がなんなのかわからないまま、魚はすぐに死んじゃうんだ。エラ呼吸できなくて、ウロコがやぶれてちぎれとぶんだ。魚はただの魚だから、銀河では生きられないわけさ。魚が魚にとって未知であるところの銀河を知るには、スペースシャトルみたいな強靭な皮膚粘膜と、真空状態にも耐えうる特殊な心肺機能を獲得しなくちゃならないんだ。それは海を泳ぐ魚ではなくて、銀河を泳ぐ魚になるってことなんだ。いわゆる魚ではなくなるわけさ」


 こっちをずっと見ていたが、あきらかに亀を意識した発言だった。


 うんちくたれる亀だから、だまっていられるはずがない。


 キッと瞳を見開いて、白鳥さんを、睨めつけた。


「よおキザ野郎。おまえいったい、なにが言いたい?」


 舌鋒するどく亀は言う。白鳥さんを凝視する。じぶんだって長広舌をたれるくせに、やけに苛ついている。まるで電気でしびれるようだ。ふれればこっちも感電する、厄介きわまりない憤りだ。


 いっぽうの白鳥さんはというと、そんな亀の苛立ちとは打ってかわって、いつもどおりの冷静さだ。いくぶんねむたげな目つきでもって、まっすぐに亀を見つめている。亀はきらいじゃないけれど、のぼり調子の白鳥さんを、心ひそかに応援したくなってくる。えらぶる亀の鼻っぱしら、そいつをポッキリ折りとって、めっためったにとっちめてやってほしい。


「つまりだ」


 白鳥さんがウーロン茶を飲む。瞳が黒くて力強い。大いなる反撃の予感がただよっている。にらむ亀をものともせずに、白鳥さんはものごしやわらかく話しだす。


「深海魚は深海しか知らないってことさ。深海でなくちゃ生きていけないんだ。高いとか低いとか、劣ってるとか優れてるとか、そういうことではないのさ。ルールのちがう野球とサッカー、どっちがスポーツとして優れてる? どっちが球技としてレベルが低い? そんなもの、くらべようがないんだ。世界をかたどる枠組じたいがまったくちがうんだ。人間だっておんなじさ。人間はこの世界でなくちゃ生きていけない。この世界にいるからこそ、人間として生きられる。かりにだれか人間がその竜宮界とやらで生きることができたとしても、すでにそのひとは人間ではなくなっているのさ。霊かもしれないし、化物かもしれない。もしかしたら神さまかもしれない。そういう霊とか化物とか神さまがうじゃうじゃいるところに、かおるさんはこちらの亀といっしょに向かおうとしてるんだ。海のむこうの竜宮界に辿りついたら、こちらの亀がただの亀でないのとおなじ意味で、かおるさんはただの人間ではなくなる。かおるさんは、かおるさんですらなくなる。いまのかおるさんからはおよそかけ離れた、不可解なかおるさんになってしまうんだ」


 白鳥さんこそ不可解で、つかみどころがなかったが、たったいまの理路整然とした話を聞いて、彼のヒトとナリをおぼろげながらつかめた気がした。つかめたように錯覚して、すこし愛着ふかまった。亀の世界へ行かなくても、いろんな不思議と出会えそうな、そんな気がした。ハッキリ決めたはずなのに、一瞬おおきく心ゆらいだ。


 白鳥さんはうつむいて、ウーロン茶の缶をいじっていた。まだなにか考えている。


「おいキザ野郎――」


 亀が呼ぶ。焼豚を食べて、両のまえあしでもって器用にじょうずにグラスをつかんで、あおるようにビールを呑む。そうしてただでさえわるい眼つきをさらに険しくして、切りつけるように鋭く言う。


「きれいごとばかり並べやがって、いちいちムカつくんだよ。かおるはな、人間であることに執着しないんだ。たったいま聞いただろ、昼間の職場での影の話を。おまえらの世界で言うところの影のなかに、豊かな世界がひっそり隠れてるっていうのに、愚かにもそれを知ろうともしない。ないと勝手に決めつけて、知りたがる人間をうとんじさえするのが世の大半だ。いいか、キザ野郎、かおるには資格があるんだ。すべてを知る資格がな」


 亀はまえあしで食卓のモノの影をなでまわした。モノの影はみるみるふくらみ、生きものみたいに温かそうな、淡い暗い球形にうかびあがった。軟らかな泥でもいじくるように、亀は影をこねくりまわしていた。いつからか厭な感じの耳鳴りが低く長く轟いていて、しだいに気分がわるくなった。


「罠さ」


 不快そうに眉をひそめ、白鳥さんは断言する。


「罠にきまってる。聞けば体よく語ってるが、この亀は悪霊さ。ひとを過つ悪霊なのさ」


「おい、その寝惚けまなこしっかりあけて、よく見ろ。俺は亀だ。亀以上でも以下でもない、ただの亀だ。わかるか?」


「かおるさん、騙されちゃいけない」


「騙すだと? おとなしく聞いてやってりゃいい気になりやがって。いいかキザ野郎、かおるという個体が消えてなくなるわけじゃないんだ。住む世界を変える、それだけなんだ。わかるか?」


「詭弁だ」


「詭弁はどっちだ。おまえこそ偽善家だ」


 こっちを見つつ、ふたりは激しく言いあった。行くか行かぬかはやく決めろと、こたえを強く迫ってくるようだった。いつやむともしれぬまま、淡い影の球体はしつこいくらい唸っていて、聞いているうちに、とりあえず行くか行かぬかのどちらかを択んで気持ちのブレはあとから修正すればよいのではないかと、そんなふうに思えてきた。


「よく考えろよ、かおる」


 亀が言った。言って顎の部分あたりをしゃくってみせた。


「いいか、キザ野郎。かおるはな、世界をかたちづくる枠組だとか、存在の不可解さだとか、そんなこと思い煩ってるわけじゃないんだ。おまえだって気づいてるんだろ? かおるの母親にはむずかしかったようだが、おまえにはちゃあんと俺が見えてるんだ。俺はまぼろしなんかじゃない。この影のふくらみだってそうだ。ぜんぶ現実なんだ。かおるみたいに素直になれ。悪あがきはよせよ」


「うるさい、こんなものッ」


 そう言って、白鳥さんはふわふわ浮かぶ淡い球形の影をやわらかく手にとった。


「やめておけ。ひどいめに遭うぞ」


 亀の投げ捨てるような忠告を無視して、白鳥さんは影をひきちぎろうとした。激しくかきむしっていたが、淡いだけあってつかみどころはまったくなかった。むしろうにもまるでむしれず、あがけばあがくほど、逆に影へとひきこまれていった。そうしていつのまにか両腕が肩まで深くのめりこんでいた。


「かおるさん、ひっぱってくれないかな?」


 とれなくなって、そう言った。わからぬ事態をうけいれようと、おどろきと困惑とをひた隠している。


「やめておけ。かおると言えど、まだ影は扱えん。こんなヤツ放っておけ」


 放っておけるわけがなかった。脇をかかえて思いっきり引っぱった。影の引きは、なかなかに強力だった。運動会のつなひきの要領で、体をうしろへ傾けて、力いっぱい引っぱった。息までとめて烈しく力んで、そうして白鳥さんといっしょに吹き飛んだ。どうにか抜けたようだったが、起きあがって見てみると、白鳥さんのうでは肩からきれいに消えてなくなっていた。


「バカなやつめ」


 亀が言った。


 あおむけに倒れたまま、白鳥さんは忽然と消えた左右の肩をながめ呆然としていた。


 よく見ると、両のうでは消えてなくなったのではなく、うっすら透けているのだった。色を失っているのだった。その重みのない透けたうでをいくらうごかしても、白鳥さんはモノにふれることができずにいた。ウーロン茶の缶をにぎりとるべく努めていたが、なんらの手ごたえもなくすりぬけてしまっていた。どうやらその透明な手や指では、なにもつかむことはできないようだった。


「こわがるから呑まれるんだ。おまえとかおるのちがいはそこだ」


 おこった出来事があまりにも突飛すぎたらしく、白鳥さんは飄々とさえしていた。そっと抱きおこし、椅子まで連れそい坐らせた。


亀は忌々しげに淡い球形の影をなでつけてもとの平らな影にもどしていた。


 ふたりともなにも言わないので、


「うではどうなるの?」


 そう訊いてみた。


 亀はまったく興味がなさそうだった。


「見てのとおりだ。そのうち完全に消える。欲しけりゃ取り戻すしかあるまい」


「どこから?」


「さあな」


 言いたいことはぜんぶすっかりぶつけあったのか、たがいを嘲笑するわけでもなく、口唇かんで口惜しがるわけでもなく、お酌すると大人っぽくしんみりと、亀も白鳥さんもちびりちびり呑みはじめた。光が閃いて雷鳴が轟いていた。涼しげな雨脚が、にわかに気忙しく通りすぎていった。雨垂れが聞こえて、蝉が鳴いていた。ひんやり夜気が涼しかった。


「けっこういけるな、この肴」


 頬をうっすら赤らめて、だれに言うわけでもなく、焼豚を咀嚼しながら亀がしゃべっていた。


 ストローさしてビールを飲んで、白鳥さんもときおり困ったふうにほほえんでいた。

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