3
亀は、寝たふりをきめこんでいた。
安っぽい玩具の甲羅になっていた。
濡れふきんで床をていねいに拭きながら、亀がああして寝ていては、ひとりで喚きながら部屋をめちゃくちゃに荒らしたと思われたって、どうにも弁解のしようがないではないかと思った。
ついさっき、亀を、神さまなんて言ってしまったけど、みごとなまでの鬼ではないかと、みずからを反省して、ふてぶてしい亀の面を、心のなかで蹴りつけてやった。こんど首をのばしたら、もぐら叩きよろしく、思いきりぶん殴るつもりだった。
「かおる――」
母さんがよんだ。
こっちを見ずに、黙々と床を拭いている。
「ねえ、お父さんの法要、どうするの?」
おそるおそる訊いてきた。
「もうじきよ。再来週」
忘れるはずがなかった。
3回忌だった。
わかっていても、行く気にはなれなかった。
過去と故人を懐かしむ、まぶしい光の告げさすおめでたい法要なんて、ただひたすら白々しいだけだった。光に満ちみちる白々しい現実なんて、亀がしゃべるのとおなじくらい、うさんくさかった。
あの日の朝、喧嘩したのがさいごだった。母さんにくちごたえしたじぶんをいさめた父さんに、うるさい死んでしまえと言った。死んでしまえと言ったらほんとうに父さんは死んでしまった。父さんはどこへ流されてしまったのだろう。海のずっとむこうへだろうか。いまごろどこにいるのだろうか。わたしをどう思っているのだろうか。父さんが死んでしまったことをうそだと思いたかった。死んでしまえなんて言ったことをあやまりたかった。あやまりたいけれど父さんはもうどこにもいなかった。
父さんはやさしかった。いつだってわたしをいちばんに想ってくれていた。それなのに、あの日、わたしはそれを忘れていた。もっといっしょにいたかった。ずっといっしょにいたかった。会いたかった。会ってゆるしてほしかったけれど、ゆるしてもらうことすらできなくなった。じぶんには父さんに会う資格がなかったが、亀と旅立つかもしれないいまとなっては、すべては杞憂なのかもしれなかった。
母さんの問いかけに、あいまいにかぶりをふった。
すると母さんは手をやすめて、安堵の息をかるく洩らして、
「かおる」
と呼んだ。膝をながめていた。スカートが、ドレッシングや汁物でよごれている。
「ごめんね、かおる」
やんわり叱られると思ったから、意外だった。
「ごめんね、かおる」
どうやらようすがおかしいと思われているようだった。
おかしく思われてもしかたなかったが、母さんとは、心かよわせたかった。
じぶんで話しても、ムダなのはわかっていた。真相は、亀に語らせようと思った。
おもむろに立ちあがって、亀をつかみとった。そうして甲羅をなんども叩いて、
「散らかしたのは、こいつなの」
と言った。
「いま寝てるけど、この亀しゃべるの」
言わせるつもりが、けっきょくじぶんでしゃべっていた。
とつぜんのことに、母さんは目を見開いている。
「ほんとなんだから」
膝をついたまま、母さんは困りはてて、目を伏し気味にした。
「ほんとなんだから。喰い意地はった、この亀のしわざなんだから。しゃべるんだから」
こんどは完全に目を伏せていた。全身に煙る困惑から、無言の痛みがにじんでいる。
焦ってしゃべればしゃべるほど、みずから泥沼にはまってゆくようだった。わかっていたけど、母さんには話さなければならなかった。もう、ほとんどやけくそだった。
「この亀、異次元からやって来たの。昼間、海で会ったの。あたしに憑いてきたの」
ぜんぶ言った。言いきってしまっていた。
憐れみの眼差しで、母さんはゆっくり立ちあがって歩みより、手にもつ甲羅をうけとって、静かにクッションにもどしてやった。そうして、そっと背なかに腕をまわして、やさしく肩をだきよせてくれた。
「ごめんね、かおる――」
亀のことは、あきらめた。
亀がしゃべらないことには、気がふれた疑いを晴らせそうになかったけど、あるいは亀がしゃべってみたところで、さしたる効果はなかったかもしれない。おんな手ひとりで母さんは、あの日から今日までずっと、現実の、ねばっこい脂の海のごとき人間世界をわたりあるいてきたのだ。おかしな亀のコトバなんて、ぜんぶきれいに撥ねのけたってとうぜんだった。
それだけに、いちばん手っとりばやいのは、うやむやにしてしまうことだった。
うやむやというと印象がわるいけど、解かなくてもいい誤解だってあるだろうと思ったのだ。
「すこし疲れてたの」
そう言って、ほほえんでみる。
「疲れてて、むしゃくしゃしてたの」
つかのまこっちをじっと見つめ、母さんは注意ぶかく慎重にうなずいた。
やっとのことでの首肯だけど、その重たげなうなずきは、了解の、「わかった」の意味ではないような気がした。話を聞き流すための、とりあえずの相槌のように思えた。
坐ってやすんで待ってなさいと、エプロンつけてやさしく言うと、母さんは買ってきたゴーヤーとお豆腐とタマゴを冷蔵庫からとりだして、夕飯のおかずをつくりはじめた。豆腐をフキンでくるんで熨のして、入念に卵をときはじめていた。
リモコンをとってテレビを消して、そうしてうっとり母さんをながめながら、甲羅を押しのけてクッションに坐ろうとした。
するとどうだろう、あろうことか、亀が起きていた。
首をちぢこめうす目をあけて、母さんのようすをうかがっていた。
あまりの不逞に、罵倒のことばがでそうになった。
言えなかったのは、流し台に立つ母さんの、なつかしい横顔が見えるからだった。黒く艶のある髪の毛がしなやかに揺れているからだった。手早くて小気味よい庖丁の音が部屋じゅうでおどっているし、ふんわり雲間にうかぶような、品のよいシャンプーの香りがただよってくる。あの母さんが、すぐそばに身近にいるのがたしかだった。かたわらにこの亀がいるのとおなじくらいたしかな現実なのだった。
亀がこっちをちらと見る。感じわるいイヤな目つきだ。甲羅をかかえて、亀のおでこをつついてやる。気持ちいいのか痛いのか、びくびくあたまをふるわせる。しゃばればこっちのものだけど、亀もなかなか曲者で、息ひとつ洩らさない。悪事を白状させるべく、手強い甲羅と格闘すると、母さんが背なかごしに、
「どうかしたの?」
と訊いてきた。
甲羅を置いて、ふりかえる。
「なんでもない」
そう言ってみる。まどろむふりをしてみせる。
母さんはあいまいにつぶやいていた。そうして困惑をひた隠して、また調理台にむきなおるのだった。
「すこしねむりなさい……心配ないからね……」
亀は首をひっこめて、じっと母さんのほうを見つめていた。母さんはフライパンをあおってゴーヤーを炒めていた。亀はちいさな鼻の穴を、小刻みにひくひくうごかしていた。
たしかに亀の反応どおり、隠し味にお味噌をつかう、なつかしい母さんの手料理だった。まねするわけではないけれど、亀みたいに目をつむって、こうばしい匂いを嗅いでると、うしろから母さんの呻き声があがった。バタンと倒れる音がした。
ふりむきざまに見えたのは、ふてぶてしい亀の面だった。
亀のやつが、うつ伏せる母さんのうえに乗っかっているのだった。
とびあがって行って亀のあたまをひっぱたくと、
「うまそうだからすこし味見させてくれって言ったらな、失神して勝手に倒れたんだ」
なんて言いわけする。
「あたりまえでしょッ」
「あたりまえなもんか。これしきで倒れるようじゃ、かおるの母親は、かおるの抱える悩み苦しみをたぶん想像できてないな。親とはいえ、しょせんは他人だ。ま、とは言っても、かおるがかおるの母親のかなしみの深さをまだよくわかっていないのとおんなじ意味でだがな」
言われて一瞬たじろぐが、亀はときどき真もつく。そんな気がした。
ともかく、手足頭はださぬよう、亀にきつく言いつけた。
退屈だの疲れるだの、亀はぐでぐで文句をたれて、やっとのことでクッションにもどった。
意識をとりもどすと、母さんはぼんやりとこっちを見あげて、
「ごめんね……あたしちょっと疲れてるみたい……」
そう言って、かるくかぶりをふる。
だまってほほえみうなずくしかない。
「疲れるとさ、ふだん見えないものが、ふいに見えたりするもんだよ」
じぶんで言うのも奇妙だった。ほんとにわたしは疲れているのかもしれない──つかのまそうも感じたけれど、じぶんへの言いわけを、じぶんで真摯に聞いているように思えてきて、わたしはかぶりをふってそっと母さんを抱きよせた。
「そうねぇ……」
と母さんは感慨ぶかそうに相槌をうっている。そうして、
「なんだかねぇ……」
と言って、亀の甲羅をながめている。
またしゃべるのではないかと思って気が気ではなかったけど、亀はちゃんと言いつけをまもった。どこからどうながめても、キッチュなオモチャの甲羅だった。
すすめてみたけど、呑まなかった。母さんは、缶入りのウーロン茶を冷蔵庫からとりだしていた。缶筒のふちを指のはらでしきりに撫でさすっている。癖なのだ。
しゃべるのは、小川美容院がらみのことばかりだった。話しだしたら、とまらなかった。いつどこでだれさんが、なにをどうしたという類の、どこにでもある、よもやま話だった。不思議と退屈しなかった。ことばが不足していたのかもしれなかった。スポンジが水でも吸うように、渇いた体の奥のほうまで、母さんのことばが温かく染みこんでくるのだった。
だいすきな冷酒をオチョコであおりつつ、ゴーヤーチャンプルーを食べた。そうしてときおり相槌をうち、手酌してはオチョコをかたむけた。
うなずこうがうなろうが、わたしの目を見てうっすら笑んで、母さんはひたすら話しつづけた。コトバが膿んでいたのだろう。あとからあとから、とめどなくあふれだしてくる。
亀は完全に首をひっこめて、母さんのとなりで、ねむったふりをしていた。
「あら――」
話の途中で、母さんが言う。
怪訝そうに母さんは、ウーロン茶のプルタブをおこしている。そうして缶をふっている。
「不良品かしら。中味がすくない」
缶をうけとり、ふってみる。ほとんど中味はからっぽで、ぴしゃぴしゃひもじい音がする。
冷蔵庫をあけてみると、もう一缶も、おなじありさまだった。
「このメーカーぜんぜんダメね。あした電話で苦情いれとくわ」
とっさにくちからでたのだろうが、母さんは、すでにわたしの前職をすっかり忘れているようだった。
苦情をいれるほうには実質的な損害もあるわけだし、それ相応の、ぬきさしならぬ負の感情がともなったりもするのだろうけど、受けるほうは至ってしらふ、態のいいサンドバックよろしく、運がわるいと、咎とがなき怒りの鉄拳を、それこそ嵐のように打ちこまれるのだ。
「ひとつだけならまだしも、ふたつもよ」
母さんはまだ怒っている。
ごくごくまれな機械工程上の欠陥なんて、これだけ自動化が進んでいる社会なのだから、悪質な人為的ミスとくらべたらカワイイものだろうとも思ったが、あら探しでもするみたいに缶の上下を仔細にながめて、なんだかんだ言って母さんは憤っていた。見ようによっては、うれしそうでもあった。
ひとしきり文句がでると、母さんはすっきり爽やかに時計をあらためて、
「あした組合の会合があるのよ」
そう言ってケータイをとりだしてタクシー会社に電話をかけて、気忙しくトイレに立った。
母さんは、避難先の組合の連絡役をまかされているようだった。いそがしいのが生きがいみたいなひとだった。母さんからいそがしさをうばったら、すぐにもちぢんでとけてしまうのではないかと、こっちが不安をおぼえるくらい、とにかく仕事が好きだった。好きなふりをしていないとやっていけないのかもしれなかった。好きだと思いこまなければすぐにも参ってしまうのかもしれなかった。
帰りしな、そういえば電源がきれていて繋がらなかったからなにかあったときすぐに連絡がとれるようにちゃんと電話をつないでおきなさいと言った。そうして、まだなにか言いたそうに母さんはじっと瞳をのぞきこんで、そっと肩に手をあてて、物憂そうに口もとをほころばせた。
「しっかりやすんで、静養しなさい」
やさしく肩をなでるから、もちろんですと、うなずいた。うなずくしかない。
「こんどいっしょに診てもらいに行きましょうね。いいセンセイ、さがしておくから」
やっぱりおかしく思われているのだった。亀がしゃべると言った手まえ、笑顔で見送るほかにない。
疲れた感じで手をふって、母さんはタクシーに乗って帰っていった。
「あれでよかッ、──たのか?」
ふりかえると、亀だった。
クッションにしずみこんでいたはずの亀が、テーブルにのっかって、ゴーヤーを食べている。
「電話の、ことも知らんようだしな。もう母親の、ほうから会いに来る、ことはないぞ」
おいしいゴーヤーを、亀はまずそうに苦そうに咀嚼している。
「なんでわかるの?」
来ることを的中させて、こんどは来ないことを予想してみせたのだ。
いまさらながら、いったいこの亀はなんなのだろうと、扉をしめながら疑問に思った。
「わかるもなにも、俺は竜宮ッ、──界から来たわけだからな」
亀は飲みこみゲップして、満足そうに大儀に言う。
また、次元が高いだの低いだのと、わけのわからない話がはじまるのだろうかと思った。
退屈しそうだったので、冷蔵庫から缶ビールをとってきて、クッションに坐った。
「いいか、かおる。俺はおまえがあさって、最終的にどういう決断をくだすのか知ることができる。深海魚が知らん銀河をおまえら人間が知ってるのとおなじ意味で、おまえら人間が知らん世界を俺は知ってるんだ」
要するに、じぶんはスゴイと、そう言いたいのだろうか。高慢ちきな、いやな亀だ。
亀の話も理があるが、深海魚が銀河について知らないのとおんなじで、人間だって、深海についてほとんど知ってはいない。住む世界じたいが異なるし、それよりもなによりも、知ることを、知っているということを、どうしてそんなにも問題にするだろうと思った。深海魚は海の奥底で生きる。暗黒を熟知する。それでよいではないかと思う。それいがいになにを望んでいるだろうか。
こっちの疑問は露ほど知らず、亀はうっとり話しつづける。
「しかし俺はな、かおるの意志を尊重する。こう見えても義理堅いんだ。約束は守る。かおるの未来はぜったいのぞかん。感謝しろ」
返すことばなんてなかった。
いちいち腹をたてたことが、無意味な消耗であるように思えてきた。
めんどうくさいのでうなずくと、亀は得意げに鼻を鳴らした。ご満悦のようすだった。
「まあ、未来をのぞくなんて言っても、かおるには信じられんだろうがな。しかたあるまい。かおるの、人間としての限界だからな」
よかれと思ってしたことが、とんだ亀をたすけてしまったものだった。
苦々しさを噛みながら、缶ビールのプルタブに指をかける。
すると亀が力んで言う。
「待て、かおる。その缶ビールをよこしてみろ。よく振って、中味がはいってるのをたしかめて、俺によこせ」
ムッとした。さんざん呑み喰い散らかして、図々しいにも、ほどがある。
「あげないよ」
見せ喰いならぬ、見せ呑みしてやろうと思った。
こんどこそプルタブおこそうとすると、
「封をきらずに、その缶ビールを飲んでみせる」
そう亀は得意げに言う。
「穴もあけんし、缶にもふれん。しかし飲んでみせる。よこせ」
亀がしゃべることじたいヘンだから、指一本ふれずに缶ビールを飲むなんて言われても、いまさら不思議には感じなかった。ただただひたすらおかしな亀だと、いまさらながらに思いかえすだけだった。
立ちあがって、重みのある缶をよくふって、亀のまえにそっと置いた。
すると亀は、まえあしで缶の位置をずらした。不具合があるらしく、なんども調整しなおした。
「照明をくれ。影の輪郭をもっと濃くしたい。流し台の電燈でいい。点けてくれ」
亀は、いつになく真剣だった。
釣られて、
「はぁ」
とこたえていた。
電燈をつけても、影の姿見は淡くぼやけていたが、亀は満足そうにうなずいて、両のまえあしで影をなではじめた。
すると、影がモッコリふくらんだ。亀はにゅるりと首をのばし、おぼろな球形の影のなかにあたまをつっこんだ。突っこむと、亀のあたまも淡くにじんで、とけて消えてなくなった。首なしの亀になったのだ。
部屋じゅう空気がふるえだしていて苦しそうにわなないていた。なにかこう、球形の影を中心にして見えない波動が幾重にもひろがるような、太い金属棒がやわらかく撓っているような、奇妙な低い耳鳴りがしつこく絶え間なく頭の内側から響いてきて、しだいに気分がわるくなって、かるく目がくらんだ。
目のまえが暗んでいるまに、亀はあたまをぬいていた。つかのまの出来事だった。影はいつのまにか平らにもどっていた。亀の頭は泡まみれだった。泡はしゅわしゅわ弾けていた。ビールの匂いがただよっている。
「缶をもってみろ」
まえあしで頭の泡をなぜながら、亀が言う。
口のわるさは、慣れてきた。言われたとおり、もってみる。
はたして缶は、からっぽだった。穴ひとつ、あいてない。
「中味はぜんぶ、俺の腹んなかだ」
亀はゲップした。眼もとがうっすら赤らんでいる。
「詳細は秘密だがな、おなじ要領で未来ものぞけるんだ」
せっかくだから、拍手した。あばきようのない、みごとな手品だ。
亀もまんざらではないらしく、いくぶん誇らしげだった。
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