2

 サイドシートへひょこんと跳んで、かおるの生業はなんなんだとか、恋人はちゃんといるのかとか、近所の世話焼きおばさんみたいに、いろいろしつこく訊いてきた。てきとうに返事することだってできた。亀がまた怒ったところでこわくもなんともなかったし、亀に身のうえを相談してもしようがないだろうとも思っていたのに、それなのに、ハンドルをにぎって海をながめ、いちいちまじめにこたえているじぶんがいた。


 学校は中退したけど、パソコンがらみの会社に就職できた。資格をいくつか取得していたことが役だったのだ。適性検査の結果、コールセンターという電話受附にまわされた。わたしはそこで、現実というものをはじめて知った。


 だれかが被害をこうむったという事実。それにもうしわけなさそうに同情するのがコツだった。先輩から教わったのかもしれないし、じぶんで編みだしたのかもしれなかった。もちろんあいても人間だからひとすじなわではいかないときもあった。それだから、わたしが受話器をにぎるたびに、あいてに同情するというわたしのスキルはより巧妙で精巧に磨かれていった。


 ひたすらあやまった。


 そのときに解決できなければ、いったん電話をきってから問題を整理し、予想される原因とその解決策をしらべた。そしてあとから電話をかけなおした。じぶんがうけた電話は、じぶんで解決しなければならない規則になっていたからだった。うまく解決できなければ深夜まで続くこともよくあった。毎日がくりかえしだった。わかる人間に代われと言われてもわたしが対応しなければならなかった。


「おまえのその指のはらにできたたこ、そのころの名残りか?」


 亀はわたしの中指をじっと見ている。中指のはらはぷっくりふくらんでいる。


「それ、吐きだこだろ?」


 わたしはうなずいていた。うなずくつもりなんてなかったのに、うなずいていた。


「つらかったのか?」


 わたしはあいまいにくびをふった。つらかったのかもしれなかったし、苦しかったのかもしれなかった。でもつらいとも苦しいとも感じなかった。ただわたしは必死だった。たぶんわたしは、じぶんが必要であることを感じたかった。わたしがなにものであるのかなんてどうでもよかった。わたしがそこにちゃんといること──そのたしかな手ごたえを確認したかったのかもしれなかった。


「それだけでかい吐きだこだ。ずいぶん長い期間、喰っては吐いてをくりかえしてたんだろ? 本来、喰うとは生存に必要な栄養分を摂取するための絶対的行為だ。それは生物の原理原則だ。喰うとは生きることだ。生きるとは喰うことだ。それなのにせっかく喰ったモノをわざわざみずから吐きだすとはな。人間ってヤツはホントおもしろいな。おそろしく興味ぶかい」


 こんどは亀がうなずいている。付け足すべきコトバはない。亀の話は真正だった。


「しかしな、かおる、だれも否定しちゃいなかったと思うぞ、おまえの存在を」


 亀はそう言いつづけるが、ほとんど興味はなさそうだ。あくびをついている。


「気づいてたんだろ?」


 亀が訊く。早く結論だしたいのか、いっきかせいにたたみかけてくる。


「電話かけてくる連中はさ、じぶんが不利益をこうむったという事実、そいつをだれかに聞いてほしかったんじゃないか? 認めてほしかったんじゃないか?」


 気のないふうに話してくるが、的をしっかり射ぬいてくる。それだから、思わずうなずきかえしてしまう。


「技術的な問題はもちろん、そういう荒ぶる感情もふくめて、かおるはすべてをうけいれて、じゅうぶんにすくってやってたと思うぞ。たいしたもんだ。だからおまえは、じぶんなんていう陳腐さにしがみつくな。そんな連中みたいにじぶんにこだわるな。妙な幻想をいだくな。連中はかおるの存在を否定なんかしちゃいなかった。かおるという存在すら知らなかったんだからな。俺が言ってる意味、わかるよな?」


 このわたしに、見知らぬだれかへ与えうるなにかが秘められているとは思えなかった。だれかの気持ちをすくったおぼえもなかった。だいたいからして、じぶんになにかをすくえるなんて思えなかった。そんな器量があるとは思えないし、だれかをなにかをすくうという気分だって、なんとなく嘘っぽかった。


「電話からなんて聞こえるんだ?」


 亀の視線が額にささる。いったい心を読めるのだろうか。亀は臆せずキッパリ言う。


「電話が一日中鳴るようになったんだろ? ほんとうは鳴ってないのに鳴るようになったんだろ? こんなご時世に携帯電話機を持たないでいるのもそれなんだろ? 鳴らない電話からなんて声が聞こえるようになった? かおるにはなんて聞こえるんだ?」


 じっとこっちを見つめるから、ぐらぐら目線がゆらいでしまう。あいまいにくびをふってしまう。


 電話はずっと鳴っていた。家に帰るなり鳴ることもあったし風呂からあがって寛ごうとするそのときに鳴ることもあった。寝る前に鳴ることもあったし、寝ているときに鳴り響くこともあった。出ないでいると音はどんどん大きくなった。布団をかぶっても鳴ったし、耳をふさいでも音は響いてきた。太い金属の棒がやわらかく撓るような音が幾重にも波動になって部屋じゅうの建具や壁やわたしの頭蓋骨を執拗に震わせた。電話を床に叩きつけてもコードを引きちぎってもつづいた。


「望みを欲張るのはいいことだ。大きければ大きいほどいい。しかしな、かおる、その望んだところの重みでもって圧し潰れるなよ……ぜんぶを背負いこもうとするなよ……おまえもしょせん……ただの人間なんだ……」


 尻切れトンボにそう言うが、他意などまったくないのだろう。宵に浜辺へ波打つような、すこやかな寝息がしずかに気持ちよく聞こえてきて、亀といっしょであるかぎり、わるいことなんて、なにひとつ起こらない気がしてくる。


 望み――亀はそう言った。いったいどういうことなのだろうと思う。わたしはなにを望んでいたのだろう。なにかを望むこと、それがどうして欲張りなことなのだろう。おまえも所詮はただの人間だ――そう言った。亀は次元を行き来できるから、だれかとへだたる距離なども、まったく度外視できるのだろうか。いくら考えたって、ただの人間のわたしには解けそうになかった。たしかにハッキリわかるのは、まどろむ亀をながめるうちに、胸に蔵する想いの丈を、ひっしにつたえたがっているじぶんがいるのを感じることだった。


 ふと、磯の匂いをかぎたくなったのだった。


 暦が夏へと取って代わる、葉桜の繁るころ。とうとつに思いついて荷造りをはじめ、この海辺の町へと引っ越してきたのだった。岬があればどこでもよかった。なつかしい潮風を感じることができる――それだけでじゅうぶんだった。すべてをリセットしたかったのかもしれなかった。やりなおしたかったのかもしれなかった。見知らぬ土地と環境で、このわたしというものを、はじめからつくりなおしたかったのかもしれなかった。


 小鳥がさえずる木漏れ日の朝、公園そばのご近所に、こうばしく煙っているお店をぐうぜん見つけたのだった。足しげく通ううちに、コーヒーが好きになった。器具をそろえて仕事をまねて、見よう見まねで淹れるようになった。お湯の温度とか、粉を蒸らす湯量とか時間とか、抽出にかんする要素をおおむね均一にそろえても、それでも毎回かならず仕上がりの味はことなった。


 おもしろかった。


 南の風がふいてくると、胸いっぱいが噎せかえるくらい、緑がぬるく匂ってたった。若葉の光のざわめきとか、虫やら落ち葉の蒸れ朽ちて、温気をかもす土の匂いとか、めざめる季節の想いたちが、胸の奥まで甘酸っぱく染みわたるようになった。それは、心地よい痛みにも似た感覚だった。みずみずしい風のかたまりが、半袖シャツのわたしの肌へとやわらかくのめりこんでくるのだった。


 そのたびに、かすかな予感がよぎっていった。わたしにさいごにふれた手が、指が、もうどこにも存在しないことを、わたしは認めたくなかった。わたしへのモノの頼みかたとか、あたまを掻くしぐさとか、ほんのちょっとしたことが諍いさかいの原因になった。諍いになるまえに、意思の疎通をみずからこばむことだってあった。


 ふりかえってみるに、たぶんわたしはじぶんのことしか考えられなくなっていたのだろうと思う。いやなところが見えたって、ずっといっしょにいたかったら、そのアダには目をつぶって、がまんできたにちがいない。わたしはどうしてあんな気持ちになったのだろう。なにが気に喰わなかったのだろう。


 わたしは亀に、言うとはなしに、


「見とめてほしかったのかもしれない――」


 そうくちにはだしてみるが、なにを見とめてほしかったのか、なにを見とめたかったのか、つらつら考えはじめると、だんだんにわからなくなってくるのが率直な感想だった。じぶんの想いも考えも、ぜんぶを聞いてほしかった。見とめてほしかった。それがムリであるのなら、このわたしという存在を、まっこうから否定してほしかったのかもしれないとも思えてくるのだった。


 訊いてきたくせに、亀はねむっていた。首と手足をひっこめている。


 癖のある亀だから、芝居をうっているのかもしれないとも思って、


「寝てやがる」


 と言ってみる。


 亀は、ピクリともうごかなかった。腹肉をつっついても反応がない。あたまを甲羅へひっこめて、熟睡しているようだった。ひとの想いも考えも、高次元の亀になぞ、どうでもよいささいな事象なのかもしれなかった。


 窓をあけると髪がなびいた。


 もどるところなんてなかった。行くべき場所もみあたらなかった。


 ほとんど自失の態のうち、夕凪にまぶしく燃える海岸線をつたい、沈黙がうずたか

く積もるアパートにたどりついているのだった。


 陽はすっかり暮れていた。


 甲羅をもって車のドアをしめると、


「着いたのか?」


 とねむたげに亀が訊いた。寝ぼけまなこをのぞかせて、にょっきりあたまをつきだしている。


「そうみたい」


 嫌みをこめて、言ってみた。




 階段そばの石塀に、白鳥さんが坐っていた。


 顔をあげると手をふって、


「ちょっと寄っちゃった」


 と笑顔がまぶしい。


「そう」


 とうなずきだまっていると、


「すぐそばまで来てたから」


 なんて弁解でもするみたいだ。妙にそわそわして落ちつきがない。


 タウン情報誌をつくっている白鳥さんは、会社の規模がちいさいからか、とにかく年じゅう暇なしで、来る日も来る日も町のあちこちを駆けまわっていた。ごくごくまれに、海外へとびだすこともあるようだったけど、基本的には国内取材──この町がおもな担当だった。


 それだから、たまに近くを車でとおると、こうして思いついたふうをよそおって会いに来てくれるのだった。


 甲羅にあたまをひっこめて、亀が声をひそめて、


「友人か?」


 と訊いてくる。 


 即答に窮する。


「たぶん」


 とだけこたえておく。


 たしかに仕事がいまほど忙しくなかったころ、白鳥さんはお店によくコーヒーを飲みに来てくれた。近所のスーパーのなかにある、小さなカウンター席の喫茶店だ。


 注文をうけたり、品物をだしたりするときに、きょうは風があっていいねとか、波があっていいねとか、ぎっしり書きこまれた手帳にさらにこまかく書きこみながら、屈託なく話しかけてくれた。


 サーフィンするんですかと訊くと、時間なくてぜんぜんできないんだとこたえ、釣りとかはと訊くと、あんまりと言い、そうしてモカの甘い香りにうっとりしながら、せっせと書きものに集中する。


 なにを書きこんでいるのか気になって、どうして記者をなさっているのですかと訊いたことがある。


 ペンをやすめてあたまを掻いて、遠くを見る眼でしばし考えこんでいた。まずいことを質問してしまったのだろうかと不安がっていると、臆面なくとてもまじめに、


「世界を知りたい」


 そう白鳥さんはこたえたのだった。


「歴史を知りたいんだ。見えないけれど、歴史にふれてみたいんだ。古生代デボン紀、カンブリアの海。原始社会、エルサレム。歴史を旅することは時間のながれを溯ることでもあるからね、なぁんてね」


 ふざけているのか本気なのか、つくづく妙なひとだった。


 歴史とか虚構とか、話の内容が複雑でなんのことかよくわからない。


 わたしの場合は世界というと、メルカトル図をじょうずに継ぎはぎした、あのまんまるの青い地球が映像的なイメージとしてまっさきに浮かびあがってくるけど、たぶん白鳥さんはもっと広漠とした、コトバではうまく説明しつくせないことを言いあらわそうとしていたのではないかと思う。


 たくさんのひとに出会って知らない土地のいろんな話を聞いてみたいとか、社会のしくみとその矛盾についてあれこれ考えてみたいとか、そういう現実はひとまずさておいて、わたしが海をながめるのに近い感覚で世界について知りたいと言っているのではないかと思ったけど、じっさいどう考えているのか、そのひょうひょうとした態度や雰囲気から推し測るのは困難だった。もちろん突っこんで訊いてみたことならあったけど、毎回、あいまいに笑ってごまかされた。袋小路のほほ笑みは、白鳥さんの常套手段なのだ。


 とにかくいつもそんなふうだった。


 会話はどこかちぐはぐだった。


 噛みあわないのではなかった。がっしり噛みあうのをおそれているふうでもあった。


 意味深で気がかりな夢を、どうしても思いだせずにいる消化不良のもどかしさにも似ていた。


 白鳥さんといっしょにいると、その忘れた夢をなんとか思いだそうとして、伝えようとして、気持ちばかりが空回りしてしまうのだった。白鳥さんはほほ笑んで、わたしはカラカラ回るのだった。


 甲羅をかかえて鍵をあけて、部屋にとおして窓をあけた。


 海につながる川すじから、風が涼しく吹きあげて舞いこんでくる。


 コンロに火をかけ湯をわかし、瓶から豆をとりだして、そうしてがりがりミルで回して挽いた。じっくり濃いめに淹れていると、手もちぶさたに白鳥さんは、甲羅をいじっては突っつきまわしていた。いつ怒りだすともしれず、愉快な反面、冷やひやした。


 コーヒーを差しだすと、香りたつ湯気にうっとり鼻をひくつかせて、白鳥さんは、まじめな顔つきのまま目礼した。


 そうして、


「こいつ、ホンモノ?」


 と訊いてきた。訝しげに首をかしげている。


 たしかに甲羅の風合いは、精巧な模造品のようでもあった。見れば見るほど、玩具の塗料がぬられたような、安っぽくて現実味の乏しい、ただのオモチャになりさがった。


 成り行きがあるとはいえ、亀もここに居候をするわけだから、すこしくらいは気をきかせて、にょっきり頭をのばしてだして、景気よく鳴いてくれたっていいだろうにと思った。


「まだ寝てるみたい」


 コーヒーをすすって、不満そうに言ってみた。


「寝てるのか」


 おなじようにすすりながら、白鳥さんはさして残念でもなさそうに言う。


「寝たふりかもしんない。知恵があるから、こいつ」


「知恵か――」


 どこかよそよそしい、うわのそらの返事だった。


 川べりの道を子どもたちの一群がにぎやかに駆けていった。


 遠くでカラスが鳴いていた。


 亀はなかなか起きなかった。起きないことに、苛だった。厚かましさに、ムッとした。ひっくり返して、甲羅をくるくる回してやった。それでも亀は、ねむっていた。


 すこしムキになりながら、腰をうかしてうでまでかまえ、くるくる激しく回していると、


「こんど水族館に行かない?」


 と白鳥さんが言った。


 とうとつだった。


「つぎの日曜」


 にわかには信じられなかった。こっちを見つめる白鳥さんに、たしかに誘われ訊かれているが、このわたしが言い寄られるなんて、とうてい考えおよびがつかない。わるい夢でもみているようだ。


 どう返事したらよいかわからず、そのまま甲羅をまわしつづけた。まわしながら、うだったうつろな脳味噌で、きょうは木曜だから、日曜はおそらく三日後くらいになるのだろうなと、予定のない週末の天気でも気にかけるみたいに、ぼんやりあいまいに思っていた。


 日曜には、亀といっしょに旅立っていて、この部屋のこの椅子に、もうわたしは腰かけていないかもしれなかった。じぶんがいない世界について想うのは、すごく気楽ではある反面、案外さびしいものだった。さびしさを感じると、ほんのすこし、切なくなった。


「予定、どう?」


 白鳥さんが、訊いてくる。じっとこっちを、見つめている。


 返事に困って、うなずいた。頬が火照って、うつむいた。


 おそるおそる見あげると、白鳥さんはほほえんでいた。おいしそうにコーヒーをすすっている。


 せっかくのお誘いですがと言い直して、亀と遠くへ出かける旨を白鳥さんに話してみたかったが、目尻に皺をよせてエクボまでつくっているので、なんとなく言いづらくなってしまって、肝心かなめがうやむやになってしまうのだった。


 白鳥さんはお母さまの形見の品だという古めかしい腕時計をあらためた。そうしてカップをあおって立ちあがった。


 甲羅はまだ回っていた。


「ちょっと長居しちゃった」


 二〇分しかたってない。長居どころか、短かすぎる。


「また連絡するね。日曜日、考えてみて」


 皮靴をはいて、帰っていった。


 ドアが閉まって、しずかになった。階段をふむ足音が、すこしずつ遠のいていった。やがて車がうなって走りさり、壁の時計のきざむ音しか聞こえなくなるのだった。


「なにが不満なんだ?」


 亀だった。


「なんで俺を呼んだ?」


 亀は首をのばしていた。ひっくり返ったままなので、のばした手足がだらけている。


「呼ぶのはかおるの勝手だが、まだ迷いがあったんじゃないのか?」


 呼んだおぼえなんかなかった。迷いなんてなかった。


 ただ休み毎、海をながめに行っていただけだった。


「かおるの母親も今晩くる。おそらく、会うのは最期になるだろうな」


 母親へ、辞世の句でもおくっておけと、そう言っているのだろうか。


 亀は、あくびをついていた。


 傾き沈んだ太陽が、大きくふくらみにじんでいる。空の雲いちめんが暗く赤らんでいる。


 風はすっかり歇んでいて、川面は艶なくよどんでいて、その深淵がのぞくような暗い水のながれのむこう側、しだいに深まる宵闇では、ぼんやり黒く家並みがうきだしはじめていた。どこかの家の小窓らしきが、沈みゆく太陽のさいごの光のまたたきを、ほんのつかのま、鏡のようにまぶしく反射していた。


 しずかだった。クラクションひとつ鳴らなかった。犬いっぴきすら吠えなかった。


 それだから、ずっと遠い夏の日の、プール帰りの午後のように、時間が無限へ連なり溶けるような、あたたかなけだるさにくるまれていった。いっしょだから、不安なんてなかったのかもしれなかった。満ち足りていたのかもしれなかった。亀によりそいまどろみながら、ぬかるむソファの底なしへと、ゆっくりとのめりこんでゆくのだった。


「ねぇ、神さまなの?」


 たずねるつもりなんてなかった。なんとなく、訊いていたのだった。


 太腿のうえで、亀は気持ちよさそうにまどろんでいる。


「安易だな……おまえら人間の考えそうなことだ……」


「安易?」


「都合がわるくなると神さまだ……そういうの、安易だよ……神さまだって思いたいんならそう思えばいいが、しかしな、かおる……俺は亀だ、ただの亀なんだ、なんにも期待するな……」


 あたまをさすると、亀はまた眠りへとおちていった。老獪さの消えた、あどけない寝顔だった。


 亀の額をなでながら、壱万年も生きるとなると、些細なことにいちいち傷つき悩んでいたのでは、苦しくて、亀なんかやってられないのだろうなと思った。




 来るというから待ったけど、20時すぎても来なかった。


 考えてみれば、ヘンだった。母さんから、連絡なんてこなかった。


 それなのに、期待して待っていた。妙なものだった。来ると言われ、来るものだと思いこんでいた。亀にすっかり、踊らされた。


 当の亀は、腹がへりすぎて気を失いそうだと怒って、じぶんだけ食事をすましていた。


 こちらから電話するのはためらわれた。待ち焦がれているみたいで気がひけた。よけいな心配をかけたくなかったし、それよりもなによりも、母さんには、ほんのすこしでもいいから体をやすめてほしかった。


 それだから、サラダとチーズを冷蔵庫へしまって、パンをラップで包んでおいた。


 浴室へ行って、汗をながした。火照った肌がひりひり痛んだ。鏡台に立って見ると、首すじから胸もとまで、みごとにまっかに灼けていた。体を拭くのも難儀したけど、気分はまったくわるくなかった。むしろ、その痛みが心地よいくらいだった。


 なまぬるい夜風が、白いレースのカーテンを揺らしていた。


 ドアの隙間からソファが見える。


 亀は、テレビを観ているようだった。


 甲羅の重みで、やわらかくクッションにしずみこんでいる。


「ねえ、ほんとに母さん来るの?」


 たまりかねて訊いてみるが、亀は返事をよこさない。海が由来のくせをして、ブルーウェーブのファンではない。マリーンズでもない。どうやらジャイアンツがひいきらしい。二死満塁。九回裏の攻撃に、すっかり心酔みいっている。四失点のビハインド。あいてチームを揶揄やゆしてわらい、くち汚く罵っている。だれにむかってか説教までたれている。


「チャンスはそうそうおとずれないが、そのめったにないキッカケをモノにしたやつが、けっきょくはさいごに勝つことになる。野球においても人生においてもそうだ。しかし勝負の本質とは、とつぜんにめぐってきたチャンスをバットの芯にとらえるかどうかにあるんじゃない。かんじんかなめは技術じゃない。拳をかためて脇までしめて、飛んでくるボールをとらえるすがたをイメージしながら全力で振りぬけるかどうか、それこそが重要なんだ──」


 いったいまるで、酔っぱらいのようだ。


 うさぎと亀とか、つると亀、どちらの亀も誠実なのに、うちの亀だけやさぐれだった。天上天下唯我独尊。あたまに閃くこのコトバ、おそらくはこの亀のために創造準備されたのだろう。


「おい、あたしの声、聞こえてるんだろう?」


 それでも亀は、こたえない。


「こいつめ、なんとか言ってみろ」


 お仕置に、甲羅をくるくる回してやりたかった。


 ドライヤーで髪をかわかし、寝巻にからだをくるみながらつかつか部屋へはいってゆくと、流し台のまえに、母さんがいた。


 どうやったのか知らないが、亀が鍵を開けたのだ。


 母さんは、困惑しながらほほえんでいた。部屋を見渡し、戸惑っていた。


 冷蔵庫の食べものが、床のあちこちで喰い散らかっている。


 戸棚のなかも抽斗も、泥棒でもはいったみたいにめちゃくちゃになっている。


 まちがいなく亀の仕業だった。好きほうだい散らかしたのだ。


 それを証拠に甲羅の縁が、てらてら照って光っていた。ドレッシングのオリーブ油だった。冷蔵庫を荒らしたとき、器をひっくり返したのだろう。いかなる術をつかったか、かいもく見当つかないが、のろまな亀のくせをして、冷蔵庫だけではもの足りず、天井にほど近い戸棚まであけていた。


 甲羅を睨んでやったけど、詳しい事情がわからずに、母さんはうろたえていた。 


 なにか言わなければならないと思った。


 とっさに、


嗚呼ああ、来てたんだ──」


 そう言っていた。会うのはずいぶんひさしぶりなのに、どうにも不自然、ヘンだった。ともすれば、眼がすうっと涼しげに床面をおよいでしまうのだった。


 母さんは、瞳を愁いの色にそめて、なにも言わずに片づけだした。


 親子して、気まずいままに、掃除した。

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