孤崎さんとの15日

里岡依蕗

孤崎さんとの15日





「つまり、ここから繋がっているわけで、すごい重要なんですよ。いいですか?」


 周りの仲間は、プロジェクトマッピングで分かりやすくまとめられた内容をメモし、なるほど、とうなづいている。

 どうやら俺には理解力がないようで、馬の耳に念仏、全く分からない。


 「ここは試験に出しますからね、ちゃんと各自まとめといてくださいよ? はい、続いて…」


 しまった、全く聞いてなかった。これ以上単位を落としたら後半きつくなるのに…


「お困りですか? よかったら……写しますか? 」


 隣から声がした。横を向くとクリーム色のカーディガン、栗色の髪を揺らした女子がいた。さっきまで誰もいなかったはずなのに。


 「私、まとめるの得意なんですよ、良かったら使ってください」


「あ、ありがとう……ございます」


 ニコッと笑った彼女は、また念仏で理解不能な講義をサラサラとまとめ始めた。


 達筆な字で綺麗に並んだ文字、きちんと定規で引かれた線、蛍光ペンで引かれた重要事項。すごい、あんなにノンストップで唱え続ける念仏はこんな事を言っていたのか。


 「そうして……あぁ、もう時間ですね、今日はここまでにします。復習して備えておいてください」


 まとめられたルーズリーフを眺めていたら、あっという間に終わってしまった。しまった、返さないといけないのに、何も写してない。


 「す、すいません、何も写してなくて……あの、後で自分で写すんで写真撮ってもいいですか」

「あぁ、いいですよ、持って帰ってください」

「へ?」

 変な声が出た。

「その代わり、次の講義の時に返してくださいね?私もないと困りますから」


 ふふっと笑った彼女は、緑の楓の葉が舞うクリアファイルに大切にルーズリーフを挟み、そっと手渡してきた。

 「私、孤崎こさきっていいます。あなたは?」

「お……自分、狸塚まみづかって言います。動物の狸に塚って書いて……変な名前ですよね、ハハハ……」

 「いえ、私もキツネさんに山へんの崎ですから。お互い珍しい名前ですね」


 それでは私は次があるので、よろしくお願いしますね、と言い残して孤崎さんは教室を出て行った。微かに金木犀の匂いがした。


 その日、帰りつくや否や、迷惑かけてはいけないと、必死にルーズリーフにまとめられたメモをノートに写した。息子が珍しく机に向かう姿に、親は心配していた。まるで狐につままれたようだ、と。




 「先週はありがとうございました、助かりました」

 講義前に先週と同じ席に座り、テキストを読み耽り復習に励む孤崎さんは、あぁ、先週の!と手を振って迎えてくれた。


 「どうでした? 分かりにくかったらすみません」

 「いえいえ、分かりやすくて助かりました! あの念仏がそんな内容だったなんて分からなかったので、ありがたかったです。ありがとうございました! 」

「ねんぶつ……? 」

「あぁ、気にしないでください! 自分には分からなくて馬の耳になんちゃらだったんですよ」


 慌てる俺を見てか、ふふっと目を細めた孤崎さん。今日も金木犀の匂いがあたりに漂っている。


 「そのなんちゃらが、念仏、なんですけどね」

 「あ、そうなんですか? 」


 面白いですね狸塚さんって、と微笑む彼女の目はややつり目で、オレンジのラメがキラキラしていた。


 「あ、すいません、これ、ありがとうございました」

 借りていた楓のファイルを返却した。指先が少し触れた。柔らかくて暖かかった。


 「ありがとうございます。お役に立ててよかったです! ……今日も、隣に座っていいでしょうか? 分からなければまたお渡しします」


 「あぁ、えっと、そんなに迷惑かけるわけにも」

 「いいんですよ、私が助けたいんです。いいですよね? 」


 はい、しか言えなかった。気弱な俺には拒否権もなかった。



 それから毎回講義の日、孤崎さんは必ず早く教室にいて、俺を横に座るよう目で合図する。そして、やはり念仏にしか聞こえない呪文をささっとまとめて、帰りに楓ファイルに入れて渡してくる。

 その講義以外に何を履修してるのか、どこの学部なのか、下の名前がなんなのか。孤崎さんは自分の話を一切しない。ただ、講義内容をまとめて、理解力がない俺にも分かるように噛み砕いて書いたファイルを渡して、颯爽と次の授業に向かって行く。


 なんだか申し訳ない。俺は何も孤崎さんにしていない。




 「あの、先週もありがとうございました」

 「はい、今日も返していただきありがとうございます」

「あの、よかったら……」


 はい、と姿勢を正して俺を真珠のような丸い目で見つめる。無駄に緊張する。

 「今日、お昼食べませんか、一緒に」


 孤崎さんの目が見開いた。

 「あ、嫌ならいいんです、奢られたくないですよね、こんな世話かかるやつに、そんな」

 「いいんですか?! 」

 「へ?」

 「狸塚さんがいいのなら、是非、よろしくお願いします」



 その日の昼、講義を終えて食堂に向かうと、孤崎さんはトートバッグを肩に下げてベンチに座って文庫本を読みながら待っていた。俺を見つけると、文庫本に楓の葉の栞を挟み、微笑みながら手を振った。


 「すみません、誘っといて後から来るなんて、申し訳ない……」

 「いいえ、私も今来たところですよ。さて、どうしましょうか? 」


 財布の所持金を確認する。悲しい事に小銭しかない。

 「すみません、自分、今日は……」

 「食堂のご飯でなくても構いませんよ? そうですね、売店で何か買いましょうか」

 「すみません……」


 今日は謝ってばかりだ、情けない。


 売店に行くと、弁当もパンもほとんどなかった。カップ麺やスイーツとかならまだ残っている。

 「何にもないですね、どうしましょうか」

 「そうですねぇ……あ、これどうですか? 」

 クスッと笑った孤崎さんが指さしたのは、カップ麺が並ぶ棚だった。


 「赤いきつね、緑のたぬき、なんだか私達みたいじゃないですか? 」

 「あ、そうですね、ハハハ、じゃあそれにしましょうか」

 正直、助かったと思った。百円玉2枚と十円玉4枚をレジで支払った。



 「普通じゃつまらないですし、取り替えっこしましょうか」

  「取り替えっこ? 」

 備え付けポットのお湯をカップ麺に注ぎながら、孤崎さんは続けた。

 「私が緑のたぬきを食べて、狸塚さんが赤いきつねを食べるんです。私、あまりお蕎麦食べないので、食べてみたいんです」

 「あ、いいですね、じゃあ自分はうどん食べます」

 自分はなんでもいいです、孤崎さんと食べられるなら。


 ゆっくり空いていたベンチに運び、箸を載せて、完成まで待つ。

 「……」

 「……」


 沈黙が辛い。何か話さなきゃ、えぇと……


 「狸塚さんって何が好きですか? 」

 「え、ど、どういう事です、か? 」

 質問に質問で返してどうする。


 「ほら、好きなものです。……私はね? 秋の少しひんやりして、なんだか人寂しくなるところ。葉っぱがこうやって少しずつ色づいて、地面がパァッと明るくなるところ。あと、こうやって温かいものが美味しくなるところが好きです。狸塚さんは? 」

 「自分は……そうですね、季節で言うなら冬が好きですね。ずっとこたつでゆっくりしてたいですし、食べ物美味しいし……あ、季節関係ないですね、すいません」


 いいえ、と少し困ったように笑った孤崎さん。しまった、ちっとも上手く話せなかった。

 「じゃあ、その美味しい食べ物、そろそろいい頃でしょうし。食べましょうか! 」

 「あ、はい! そうしましょう! 」


 ふぅふぅ、と息を吹きかけ、麺を啜る。つゆを飲むと、少し冷えた体に染み渡る。湯気で眼鏡が曇る。久しぶりに食べたうどんは美味しかった。


 横に目を向けると、孤崎さんも手を揃えてカップ麺を持ち、器用に啜っていた。俺の眼鏡が曇ったのを気づいたのか、ふふっと笑った。



 「ごちそうさまでした、美味しかったです。あんなにお蕎麦が美味しいだなんて、今まで損してた気分です」

 「あ、いえいえ、ただのカップ麺ですから。そんな大したあれでは……。すみません、こんなお礼しかできなくて」

 「いいえ、お礼をしないといけないのは私の方なんです」

 「え?」


 あ、と何か言ってはいけない事を言ったかのように顔を歪めた孤崎さんは、今の忘れてください! と恥ずかしげに首を横に振った。甘い香りが仄かに漂ってきた。


 「今日はありがとうございました。これは返さなくていいのでもらってください」


 そう言って彼女は、バッグから何やら取り出した。

 「私と同じもので恐縮ですが……よかったらどうぞ」

 「これは……」


 先程彼女が読んでいた文庫本に挟んでいたものと同じ、鮮やかなオレンジがかった楓の葉が押し花みたいになった栞だった。

 「楓、好きなんですか?」

 「はい、可愛いじゃないですか、お手手みたいで。赤だったり、オレンジだったり」 


 栞を見つめている間にカップ麺を片付けてくれていた孤崎さんは、じゃあ私はこれで、と講義棟に歩いて行った。


 「あの、ありがとうございました、いろいろ」

 「いいえ、来週から試験ですし、お互い頑張りましょうね! 」

 くるっと振り向いて手を振り、講義棟に消えて行った。



 孤崎さんを見たのは、その日が最後だった。試験当日、彼女の姿はなかった。まとめたレポートのおかげで無事にこの講義の単位は取れたが、彼女を見かけなくなってしまった寂しさはずっと残ってしまっていた。




 あれから毎年、楓が色づく頃。俺は彼女を思い出す。あの日もらった栞の裏には『あの日、助けてくれてありがとうございました』とある。

 思い出した。入学式、栗色の髪の少女が慣れないパンプスで目の前で転けて助けた事があった。あの時の少女が孤崎さんだったのだろうか。


 「そんな、気にしないでよかったのに……」


 楓が散って、金木犀の香りがする秋。俺は今日もカップ麺を啜る。






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孤崎さんとの15日 里岡依蕗 @hydm62

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