右目

 デッサンは、見たものをそのまま描くわけではない。それらしく見えるように描く。


 美術予備校やデッサン大会などでは、席取りは早い者勝ちだ。例えば石膏像を描く場合、横顔しか見えない位置は不人気である。横顔は凹凸と陰影が少なく、立体感を表現するのが難しいからだ。

 しかし、モチーフをそれらしく見せるためなら、向こう側の髪や髭が、それの落とす影が、ほんの少し見えている……ということにしても良い。あるいは、中途半端に見えている余計なものを無いことにして構わない。見栄えを良くするためなら、多少の嘘は許される。


 むしろ、画面を綺麗に整えて見せるにはテコ入れが不可欠だ。


 そもそも人間の目はあてにならない。人にとってのカメラレンズである右目と左目は見え方が違う。単純な話、右目と左目は定位置が異なるから、視点も少しずれている。二つの眼球がそれぞれ得た二つの情報を、脳がうまく合成・補正して作成したヴィジョンこそ、私たちの目に映る風景の正体だ。

 目玉が二つある人間の言う「見たままの風景」というのは脳内にしかない。そしてそのイメージ像は、実際のものよりもほんの少し歪である。




 昔、美術学校で聞いた話。


 日本画科に在籍していたAちゃん。当時の彼女は恋人と半同棲状態だった。ある日、恋人がAちゃんに変なことを言う。


「朝に、タバコ吸いながらお前が寝てるのを眺めてたんだけど、左目では見えたのに右目では見えなかった」


 それは緑内障じゃないの、と私は言った。Aちゃんは私が説明するまで緑内障の症状を知らなかったので「そうか、緑内障なのか」と頷いていたが、話好きの彼女は、恋人の目の話を私に詳しく聞かせてくれた。


 彼は幼い頃から、右目で見たものと左目で見たものを区別できるのだそうだ。どういうことかと言うと、見たままの風景を認識しながら、頭の中に別の2枚のイメージ画像を思い浮かべることができて、それぞれ右目と左目で見た風景なのだという。


 ちょっと想像が及ばないが「自分でそう思ってるだけかも」とのことで、医師から何か言われたとか、目や脳の精密検査をしたとかいうわけではないらしい。


 私にはかなりの特殊能力に思えたが、Aちゃんは「そういうこともあるんだね」と、あまり気にしていない様子だった。


 問題は、彼の片目にしかAちゃんの姿が映らなかったことである。結局、彼は緑内障だったのだろうか。


「なんか私の彼氏、右目だけ霊感があるから右目だけ幽霊見えるらしいよ。中二っぽくない?」


 Aちゃんはそう言って笑っていた。

 右目だけ幽霊が見えるという彼の話を、もっと詳しく聞いておけばよかった。Aちゃんは卒業後もその恋人と同棲を続けていたようだが、現在は同級生の誰とも音信不通である。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る