第十六節 轍
登子達は轍国へ向かっていた。魔騎難がいるとすれば、そこしかない。胸に宿した暁炎の鼓動を感じつつ、登子は固唾を呑んだ。
目を潰され、腕を切られた後の朦朧とした意識の中でも、あの威圧感は伝わってきた。正直、炎威明につけられた傷よりも、魔騎難の存在の方に生命の危機を感じていた。
取りつけたばかりの義手が震える。
「登子殿…」
隣に座る七光には、登子の首筋から冷や汗が垂れているのが見えた。
「大丈夫よ、七光。私は負けない。魔騎難を倒して、平和にしてみせる…!」
義手の関節が小刻みに揺れる。その手の上に、向かい合う燈花が手を重ねた。
「『私達』ね。もう、あなただけに背負わせない」
「それはあなたにも言えますよ、女王」
燈花の隣で、リッキーが付け加える。その脳裏には、雷鳥の渓谷で見た惨状が浮かび上がっていた。
「あんな悲劇、二度と繰り返させやしない…!」
リッキーの言葉に、義太郎は自身の小刀を研いで応えた。空気が張り詰める。
「…皆、今日なに食いたい?」
突然、仁が振り向いて尋ねた。明るい声音の仁に、七光は眉を潜めた。
「そのような事を話し合っている場合では…」
「場合だろ。俺達の世界には『腹が減っては戦はできぬ』ってことわざがあるんだ」
「いいわよ、私お腹空かないし」
登子が不機嫌そうに言う。
「薄々勘づいていたけど、食べなくていいんでしょ?七光以外。現に、食糧なんて一人分しか貯蓄していないじゃない。夕飯の話する意味ある?」
「あるよ」
仁は仄かに顔を出し始めた星を見上げる。
「確かに登子の言う通り、レシーバーズは食事しなくていい。でも、俺は食いたいんだ。皆で集まって、好きなものを食べる。それって、生きてる感じしないか?」
ハヤカケの足音が夜空に響く。
「…俺の幼馴染、レシーバーズだったんだ。あいつコッペパンばっか食っててさ。さすがに変だと思ったよ。好物だからって、そればっか食って大丈夫なわけないしな。俺は寂しかった。そういう姿見るの…つらかった」
仁の瞳が潤む。
「食べなくていいからって食べないのは、やっぱすっげぇ悲しいよ。飯食って生きてきたこと、捨ててる気がしてさ」
手綱を握る手に雫が落ちる。夜風が冷たい。
「…わかったわ。じゃあ、この辺りで夜営しましょう」
登子の提案もあり、ハヤカケは数分走った先でその足を止めた。ハヤカケから降りてすぐ、登子はこの荒涼とした場所がどこか理解した。
「…凪村…」
かつて登子が5年の歳月を過ごし、燈花によって焼け野原にされた村。図らずも今、二人並んでここに立っている。
「登子の居場所だったのよね、ここ」
燈花が呟き、登子は頷く。瞳は大地を見据えている。一点のブレも無く。
「そんなにいい所でもなかったけど」
「でも、あなたの生きる場所だった」
「気に病まないでよ。そこに飛ばしてくれたのは姉さんでしょ?」
燈花が登子の方を向く。
「わかるわよ。魔騎難なら私を殺していたはずだから。それを止めてくれたんでしょ?姉さんが」
「…神器の力?」
「勘。だいたい私、全然使いこなせていないし」
「15にもなって『読み聞かせして』なんて言っていたら、そうもなるわね」
「関係ないじゃない、もう」
笑い声が飛び交う。麒麟車の中から荷物を取り出し、夜営の準備が完了した仁が、登子に呼びかけた。
「悪い、材料集め手伝ってくれないか?この辺一番詳しいだろ?登子」
「わかったわ仁さん。すぐ行く」
その場を離れる前に、登子は燈花に告げた。
「そういえば言い忘れていたわ。──おかえりなさい、姉さん」
「…ただいま、登子」
燈花と抱き合った後、登子は仁と夜の森に足を踏み入れた。紅葉が月明かりに透かされて、優しい金色に輝く。
「タカマガハラの紅葉って、こんな風になるんだなぁ」
「これはヒカリモミジ。ちょっと特殊なの」
夜の闇の中、川が金色に照らされる。まるで、鯱の鱗のように煌めいている。と、仁が思った直後、向こうの湖から巨大な魚影が飛びはねるのを見た。どこか見覚えのある恰好。それが鯱と気づいたのは、魚影が消えてからのことだった。
「まさか生きた鯱が見られるなんてな…」
「当たり前よ、生き物なんだから」
「こっちじゃオブジェだよ」
「おぶ…?」
「建築物…って言えばいいのかな、とにかく作り物なんだ」
他愛の無い話をしながら、登子と仁は食べられそうな木の実を籠に入れていく。
「こうやって話していると、改めて別世界の人なんだなって思わされるわ」
「そうだな。俺達はここで出会った」
「そして…全てが始まった」
二人は初めて顔を合わせた時のことを思い出していた。ブラックリブラの介入でタカマガハラに『不時着』し、ハヤカケに追い回されていた仁が最初に出会ったのが登子だった。
「あの時は助かったよホント」
「強引だったものね、ハヤカケ」
ハヤカケに乗り、多くの場所へ行った。勾国、霊源の森、光喰らう社、天王山。三種の神器を集め、その力で平和を実現するために。
そうして集めた神器が今、登子の肉身となって血を通わせる。
「私、仁さんに会えてよかったわ。復讐しか頭に無かった私に、色んなものを見せてくれた。今日だってそう。…感謝しきりだわ」
翡翠の義眼で星を眺める登子の背中を見つめ、仁は足を止めた。
歳はともかく、自分よりもはるかに華奢で小さな少女が、復讐以外の生き方を5年も許されなかった。どれだけの重荷だろう。それを支える一助になれたのだとしたら、どれだけ心が救われることだろう。
「…こちらこそだよ」
明良を犠牲にして世界を守った過去のある仁にとって、登子の言ったことは確かな慰めと励みになった。
危険なことに巻き込みたくない気持ちと、それでも協力を仰がざるを得ない中で絆を築く。この矛盾を許してくれたような気さえした。
「300年も乗り切れる。皆と一緒なら」
充足感を胸に抱き、仁は呟いた。
その夜は、登子と仁が採ってきた木の実や山菜を、義太郎が調理して皆でいただいた。
「すげぇ美味い!さすがに山で生活してただけあるな」
「山で?何でまた…」
「話せばちょい長(なご)うなるで」
「聞かせてくれ。余は興味ある」
「そういえばオレも詳しい事は聞いてないな。教えてくれる?義太郎さん」
「よっしゃ、そない言うなら夜通し語ったるわ…って、さっきから何他人の腹突っついとるんですか?女王はん」
「ごめんなさい、物珍しいものだからつい…あと…可愛いな~、なんて思っていたり…」
「かわ…なんて!?」
中央の小さな焚き火を取り囲み、笑い声が響き渡る。今宵は数多の星が輝いていた。
「それじゃ、出発するか」
身支度を終え、一同が改めて轍国へ向かおうとしたその時だった。遠方から蹄の音が聞こえてくる。音の鳴る方を向くと、その麒麟車は明らかに登子達に方角を定めていた。
「敵か…!?」
仁の漏らした一言で、一斉に場の空気が引き締まる。あの麒麟車の乗り手は、籠の中の人物は誰なのか。固唾を呑む。
しかし近づき姿が明瞭になるにつれ、七光から警戒の色が消えていった。
「待ってくれ師匠。あれは勾国のものだ。それも軍馬の類ではない」
強ばっていた筋肉が弛緩する。とはいえ、正体はわからないまま。完全に気を許すまではいかない。
やがて、何かを悟った七光が叫んだ。
「あれは…オーダーの!」
「ってことはまさか…」
以前、能力で事情を理解していたリッキーが真っ先に気づいた。
「あの女の子が乗っているのか…!」
真相を確かめようと、リッキーはマージナルセンスへと変貌し、迫る麒麟車に五感を研ぎ澄ませた。
「魔騎難も一目置いていたけれど…彼、凄いわね」
燈花が義太郎に語りかける。
「ホンマに凄いんは集中力やな。五感が優れるっちゅうことは、嫌でもいらん情報まで入るっちゅうことやから。そっから欲しい情報だけ厳選するんは、よっぽど心強う持たんと無理なこっちゃで」
唸る義太郎を見て、燈花は笑った。
「何かワシ、変なこと言うてもうたかな…?」
「いえ、ごめんなさい。ただ…素敵だなって思ったの。仲間って、いいわね」
「…せやな。ホンマ、同感や」
そして、マージナルセンスが相手の麒麟車の情報を読み取った。
「大丈夫、敵意は無いよ。でも、アドレナリン分泌量が凄い。特有の匂いがあの一帯を覆っている。ただならないっていうのには変わりないみたいだね…」
マージナルセンスの報告を受けて、仁は再び警戒の色を強めた。
「…こっちから近づいてみよう。敵意が無くて急用って、もしかしたら戦争に関する交渉かもしれねぇ。後手に回ったらおしまいだ。第一こっちには燈花がいる。迂闊なこと言えねぇ」
対立国の首魁を擁した状態で受け身に回れば、交渉条件に燈花が利用されるのは自明の理。轍国に不利な条約で停戦。それだけは避けたい。
ならば逆に、こちらから仕掛ければ、現場の首魁の有無で交渉に優位性を生み出せる。たとえ悪逆女王で顔の知れた燈花を擁していたとしても、対等な関係で条約は結べるはずである。
ハヤカケがおもむろに前進する。そもそも停戦協定と決まったわけでもない。あくまで可能性が高いという話だ。果たして、実際どうなのか。
と、仁は勘繰っていたが杞憂に終わった。互いの距離が10メートルも無い程度まで近づくと、麒麟車から奉莉が出てきて、
「お願いいたします。どうか、お助けください」
従者と思われる乗り手の制止も振り切って、地面に頭を下げた。仁は降りて、奉莉の身体を起こした。
「待ってくれ。どういうことなんだ?」
奉莉の膝についた土を払い、仁は尋ねた。
「実は、王が轍国に単身向かわれまして…」
ブラックリブラのことか。七光が眉を潜めた。
「きっと、王は魔騎難に勝てない…このような事を頼める立場でないのは承知ですが、お願いです、どうかお力添えを──」
「ふざけるな!」
麒麟車から飛び降り、七光が激昂した。
「奴は余の両親を殺したんだぞ!王だと?お力添えだと?馬鹿を言うな!あんな外道、王ではない!ましてや助ける義理も無い!」
奉莉は表情を曇らせた。わからなかったわけではないだろう。拒絶されるのは当然の道理。それでも頭を下げた。従者が付くほどの地位など気にも留めないで、どこにいるとも知れない登子達をあてにして、ここまでやって来た。そのことに、仁は深い意味を感じていた。
「…手を貸す」
「師匠!」
七光は仁に詰め寄り、胸ぐらを掴んだ。
「確かに目的は同じだろう、だがこれは心の問題だ!余は認めたくない、あいつに協力するなど!」
「なら!…心の問題なら、泣きそうなこの子を助けるのが、一番重要なんじゃないか?」
仁は七光の手首を掴み、下ろさせた。そして、慎重に言葉を紡ぐ。
「お前の気持ちを蔑ろにしたいわけじゃない。むしろ尊重したいぐらいだ。でも、憎いからって見捨てるのは…それこそ、心を殺すことになるんじゃないか?あいつやこの子…何より、お前の」
七光の後ろからリッキーが近寄って、肩に手を置く。
「それでも気が晴れないなら、改めて王座を奪えばいい。選挙なり何なりさ。血筋の分、君の方が有利だしね。『正しさ』を貫くならそっちだろ?」
リッキーは七光の肩を握り、震える手を誤魔化す。
「ここで言い争うより…守れる命守りに行く方が『正しい』と、オレは思う」
その目は悲しみと覚悟で満ちていた。
「…そうだな」
七光はリッキーの手を払いのけ、声を振り絞った。
「協力を!…する…!」
涙を堪え、嗚咽を堪え、七光は誓った。仁は七光を抱きしめ、
「ありがとう」
と声をかけた。奉莉は何も言わずとも、頭を深々と下げた。
突如、彼方から激しい音がした。何かの大群が迫り来る音。全員が同じ方向を向く。いつぞやの百獣進攻を思わせるほどの、レシーバーズの大群だった。
「あれ、全員外的にコアを変えられてる…!」
マージナルセンスが感じ取ったのは、魔騎難によって歪められたコアの本質だった。G・A(ギフテッド・エイプリルフール)が仁の脳裏によぎる。
「マジかよ…!もう近いぞ!」
衝突まであと30m。その時、
「任せて!」
登子が麒麟車から飛び出し、すかさずクライムマーカーに変貌すると、レシーバーズ軍団の先頭の足元から地割れが起きた。勢いを止めきれないレシーバーズ軍団は、その殆どが裂け目に呑み込まれた。
「義眼でも、ちゃんと遠近感バッチリね。さすが七光製」
「おのれ小癪な…!」
幸運にも後列にいた残りの軍団が裂け目を飛び越え、クライムマーカー一直線に突進を仕掛ける。しかし、
「ごめんなさい。急いでいるの」
軍団の足元から生えた像兵(ぞうへい)達の攻撃によって、軍団は全滅した。クライムマーカーは触れることさえせず、計およそ1200体のレシーバーズを倒した。
変貌を解いた登子は七光に歩み寄り、
「誰も悪くない。こんな悲しいこと、全部終わらせましょう」
と告げ、麒麟車へと手を引いた。轍が、一つに集う。
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