第十一節 天王山

 西側にそびえる『いかり山』の中腹を歩く足跡2つ。星空の下、草木も生えぬ急斜面の荒れ地を、ブラックリブラと奉莉は歩いていた。

 大きな歩幅で素早く歩くブラックリブラに、奉莉は着いて行くのがやっとだった。だが、息を漏らしはしなかった。代わりに、努めて微笑を浮かべながら尋ねる。

「山の上に、山があるかのようですね」

 正直、肺がはち切れそうだった。切らしたい息を切らさずに、平静を装うのは想像以上に負担が大きい。それでも、奉莉は話しかけるのをやめなかった。

「守護獣のいらっしゃる地で国事を執り行えるとは、私は幸せ者でございます」

 突然、ブラックリブラは足を止めた。

「どうされましたか?」

 奉莉が質問した直後、ブラックリブラは勢いよく振り向き、奉莉の両の頬を片手で掴んだ。

「耳障りです」

 ブラックリブラが次の言葉を続ける前に、奉莉は静かに頷いた。ブラックリブラは舌打ちし、手を離して再び前進する。

「こんな呆けた奴がオーダーとは…メシアがいた割に腑抜けた国ですねぇここは」

 ブラックリブラの独り言──というより、『オーダー』という単語を耳にした奉莉の胸が小さく痛む。息が微かに漏れた。

「生まれてくれてありがとう」

 奉莉がこの世に生を受けた時、最初に聞いた言葉である。しかし、その意味を知るのにそう時間はかからなかった。

 歩くことができるようになった頃、寝床で親が話していた内容を、今でも覚えている。

「『力』が無いにしても、海央家の命運を握っている以上、無下には扱えん」

「日向が死んだ今、あの子が頼みの綱だものね」

「奉莉には、精一杯働いてもらわんとな」

 当時、正確に理解できたわけではない。それでも本能的に察した。彼等にとって自分は子ではなく、道具なのだと。

 それからというもの、奉莉は道具であり続けた。周りを伺い、己を殺した。そういう生き方を望まれた。

 だから今のは奉莉にとって強烈なショックだった。怒らせてしまった。機嫌を損ねさせてしまった。詰まりきった空気と罪悪感で、胸が裂けそうだった。歩幅が小さくなる。

 またブラックリブラが立ち止まる。口を利いてはいけない。また神経に障ってしまう。緊張感で吐き気を催す。

 しかし、振り向いたブラックリブラが取った言動は、奉莉の予想とは異なっていた。

「…疲れているでしょう。小生の背に乗りなさい」

 ブラックリブラは背を見せてしゃがんだ。時が止まったような気分だった。何をしろって?わからない。

「命令ですよ?従わないのなら殺しますが」

 奉莉は慌ててブラックリブラの背中に張りついた。ブラックリブラは立ち上がり、三度(みたび)歩く。

「…何か言いたいのならはっきり言いなさい」

 苛立ちながらブラックリブラが言う。

「しかし先ほどは…」

「口ごたえは許可していませんよ」

 嘘ではないことなど先刻承知。奉莉は押し黙り、真に言いたいことを言った。

「…ありがとう、ございます」

 ブラックリブラは顔を見せず、ふん、とだけ音を鳴らした。

 暁が顔を出す前、最も暗い闇の中。山頂に辿り着く。標高2000m。気圧802hpa。地上からおよそ12℃の熱が奪われた土地まで登り詰めた。

「寒くないですか?」

 ブラックリブラが確認をする。

「寒く…ないです」

「そうですか。しかし言い淀むようなことでもないでしょう」

 奉莉の返事に、にべもなく対応する。自分でも何をしているのか疑問に思う。デリートすべき対象の容態など、どうでもいいことだろうに。

 だが、あの漏れた吐息はどうにも心を揺さぶられる。何故?ブラックリブラは疑問に思った。

「私…初めてなもので。優しくされるの」

「…あなたの身の上なんて聞いていません」

 『先輩』が昇ったちょうど向かい側に立っていながら、雲段が目の前にあることを知っていながら、まるで何も見えていないかのごとく、ブラックリブラはその場で止まっていた。

 冷たい息を吸う。雲段に足を乗せる。一歩ずつ、おもむろに上昇する。

「歩いていますね…空を」

 奉莉の言葉に返事はしなかった。多分この行為が、見えない所を明確に歩いていることが、疑問の答えなのかもしれない。ブラックリブラは思った。


 数十分後、ハヤカケがいかり山の頂上に着いた。冷たく重い空気をものともせず、ハヤカケは空に嘶く。赤みを帯びた黄金の光が昇り始めていた。

「丈夫だな、ハヤカケは」

 霊源の森で編んだ草の上着を羽織り、仁は震える。

「麒麟は体温調節が得意なの。だから環境に左右されないわ」

 登子の説明を聞き、ハヤカケは首を振った。嬉しい時の仕草である。

「しかし…守護獣はどこにいるんだ?見当たらんが…」

 七光がそう言うと、仁は辺りを見渡した。荒涼とした地上を、乾いた風が撫でる。山頂に来るまでに多くの動物を見かけたが、ここは動物どころか葉の1枚も見当たらない。

 ハヤカケは鼻を動かすと、突然崖に前進し始めた。仁の視界に下界が映る。否が応でも、命の危機を感じずにはいられない。

 それでも尚、ハヤカケの脚は宙に向かって上げられていた。

「待て待て止まれハヤカケ!」

 虚空に脚が踏み出されていく。

「アカン、馬耳東風や!」

「麒麟だぞハヤカケは!」

「そういう事じゃないわよ!」

 一同は慌てふためいたが、蹄は確かに雲段を捉えた。仁は胸を撫で下ろしながら、自分の見ている光景の奇妙さに驚いていた。空を歩いているではないか。空が近づいてくる。

「綺麗…」

 登子が感嘆のため息を吐く。それから目を細め、微かに残った2つの星を見上げ、懐かしげに呟いた。

「双子星、あるのかな」

 七光は首をかしげて、

「何だ?双子星とは」

 と尋ねた。

「昔聞いた御伽噺よ。私の一番好きな物語」

 そう説明し、登子は懐古していた。

『むかしむかし、お姉さん星と妹星の、双子の星がいました。二人はとっても仲良しで、いつも一緒にいました。

 ある日、妹星は地上に咲き誇る花畑を見て言いました。

「わたし、お花が欲しいわ」

 お姉さん星は少しだけ悩みました。ですがすぐに、

「いいわよ。いちばん綺麗なお花を取ってきてあげる」

 と言いました。お姉さん星は地上に降りて、花畑の中からとびきり綺麗な虹色の花を見つけました。

 虹色の花を手にしたお姉さん星は、妹星の所に帰ろうとしました。ですが、帰ろうと空を飛んだその時、身体が燃え出してしまいました。

 星はいちど地上に降りると、身体が燃え尽きてしまって、二度と元通りには戻れないのです。小さな妹星はそのことを知りませんでした。

 お姉さん星は思いました。

「死ぬのは怖いわ。でも、このお花を届けられない方がもっと怖い」

 お姉さん星は最後の力を振り絞って、花を空まで届けました。

 妹星はお花を手に入れましたが、わんわん泣きました。何故なら、お姉さん星と一緒に楽しまないと意味がなかったからです。

 自分のせいで死んでしまったと、妹星は泣き続けました。ですがその時、お花が言いました。

「お姉さんはあなたのお願いを叶えたかったんだよ。だから泣かないで。お姉さんの頑張りを、悲しいことにしないであげて」

 こうして、妹星はお姉さん星がくれたお花を、いつまでも大切にしましたとさ。』

 切なく、しかし温かな物語を思い出し、登子は頬が震えた。

 唐突に麒麟車が揺れる。

「どうしたの!?」

 慌てる登子とは反対に、仁は冷静に言った。

「着いたぞ」

 前を向く。雲段は既に昇りきっており、目の前には生命力に満ち溢れた絢爛な大地が広がっていた。

「ここが…天王山…」

 鮮やかな木や果実、上空を飛び交う小さな龍は、自身の立っている場所が本当に山なのか疑うほどの活気に満ちていた。

 ハヤカケから降りた七光は、崖から下界を見下ろした。朝日が下から射し込む。

「奇妙な感覚だ…」

「ワシにはむしろ懐かしいわ。池とかこんな照り返しばっかやったし」

 隣で義太郎が呟く。その後ろで仁はハヤカケを撫でて、

「ここで留守番してくれるか?」

 と言って、その場に座らせた。麒麟車の中には、渡舟が乗せてある。万が一の時、三種の神器全てを奪われないようにするための保険だ。

 七光は振り向き、胸を叩いた。

「後ろは任されたぞ、師匠」

 仁は微笑み、七光の肩を叩いた。

「ああ、頼んだ」

 七光とハヤカケを背に、仁と登子と義太郎は前に進んだ。

 巨大な葉が生い茂る林を抜け、真っ青な川を渡ると、約50m先に極彩色の神殿が見えた。仁は高校の教科書に記載されていた、当時の古代ギリシャの神殿のイメージ図を思い出した。

 義太郎は神殿に2つの人影があることに気がつき、指を2本立てながら二人に囁いた。

「誰かおる」

「二人?まさか…」

 仁は一瞬、燈花とブラックリブラを想起したが、すぐに違うと判断した。あの二人が出会って戦闘に発展していないのはおかしい。神器を狙う者同士だけでなく、争う国同士という因縁もあるのに。なら誰だ?

 その時、仁のポケットに入れていた無線通信機から連絡が届いた。

「仁兄さん。オレ、今天王山って所にいます」

 大声を出しかけたが、どうにか堪える。

「…実は俺達もいる」

「え──…まぁ、神器ありますしね」

 リッキーも興奮を隠すのに精一杯であった。

「ただ…マズイです。いますよ、ブラックリブラ。小さな女の子を連れて」

 人影に目を凝らす。そういえば、片方は背丈が小さい。燈花ではない。ということは、もう片方の影の正体は必然的に決まる。

「誰なんだろうな」

「盗み聞きしちゃったんですけど…勾国では国事の名目で、国王とオーダーが儀式を行うみたいです」

「てことは、小さな女の子の方がオーダーか」

「肩書きだけでしょうけどね」

 オーダーの力──タカマガハラや神の隠れ家を行き来する能力──は仁が持っている。

「立会人もいないのにやってんのか、あいつら。国事だっていうのに」

「いるじゃないですか。この世界で一番適任なのが」

 リッキーの言葉の意味を察する直前、ブラックリブラ達の前に燈花が現れた。

「…どう呼べばいいのでしょうね?」

「好きにしろ」

 ブラックリブラは大袈裟に笑った。

「つれないですねぇ、『先輩』」

 燈花は冷淡に返した。

「お前なぞ知らん」

「…そうですか。なら、その身に覚えさせますよ。もう席は空いていないとね!」

 すかさず、ブラックリブラは金の腕甲を嵌めて突撃した。燈花は火の鎧を纏いこれを防ぐ。マージナルセンスでさえ目で追うのがやっとの速度で、攻防が繰り広げられる。

「仁兄さん、先行っといてください。しばらくかかると思いますよ、これ」

「確かにな…抜け駆けさせてもらうとするか」

 そう言って仁が登子と義太郎を引き連れようとすると、

「先輩も物好きですね!まさか火のゾアに憑依するなんて!」

「…何の、ことだ…!」

「どうせゾアの力でも欲したのでしょうけど、無駄ですよ!魔騎難、あなたの時代は終わった!これからは小生の時代だ!」

 登子の足が止まった。心臓が素早く脈を打つ。呼吸が浅くなり、脳内の酸素濃度が著しく下がる。

 ほんの一呼吸。頭で考える前に、既に身体が動いていた。登子はクライムマーカーに変貌し、夢現の力で麒麟車に乗せてあった渡舟を手中に転送した。

 渡舟が、ヤマトの腕がクライムマーカーの腕の中に吸い込まれていく。激痛が走った。堪えきれず出た叫び声で、ブラックリブラとミラージュマーカーは彼女の存在に気づく。

「また現れましたか」

「愚妹よ、懲りずに来たか──来ちゃ…ダメ…!」

 頭を押さえ、踞るミラージュマーカーの脳天を砕こうと、ブラックリブラの拳が振り上げられる。

 刹那、ミラージュマーカーの前に現れた炎の壁が、ブラックリブラを遠ざけた。ミラージュマーカーのものではないことは、尚も踞っている様子から明らかである。では誰が?ブラックリブラは辺りを見回した。

「国王様、あれを!」

 奉莉が指さす方を向くと、黄金の鱗を輝かせ、素朴だが荘厳な衣装に身を包んだ龍人が天に立っていた。

「もしや…炎威明様…!?」

 奉莉は驚愕の声を漏らした。炎威明は呼吸する間もなく、クライムマーカーの前に降り立つ。そして哀しい表情で言った。

「ごめんね。今から君を殺す」

 クライムマーカーが反応するよりも前に、両目が潰されていた。両腕が消し飛んでいた。絢爛な遺跡に、血飛沫が散らばった。

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