第24話
「行こう」
サラの判断は早かった。後半の言葉は理解できていなかったはずだけれど、関係なし。奢ってもらった恩とか、ちゃんと身元を明かした交渉とか、そういうのは全部無視して席を立つ。慌ててそれに倣う。
「待って」
悲しいかな動きを止めてしまう俺。
「別に断るならここで話を聞かせろなんて言わないわ。ただ、お肉とデザートが勿体ないから食べていって欲しいの」
「モッタイナイ」
そして、俺が教えたことがある日本語に反応するサラ。
「……断ってもいいからデザートまでは食べて行けって」
黙って席に着きなおす。
日本の勿体ない精神はちゃんと彼女の中に根付いている……。
実のところ行動食のチョコレート以外の甘味というものに対してめちゃくちゃ未練があるのです。自転車に乗っていると甘いものがどんどん好きになるので……。最も早くエネルギーに変えられる実用性は体の方がよく知っている。
「……ありがとう。返事はしてくれなくていいから聞いて。ちゃんとプロだから守秘義務は守る。報酬は……、ポケットマネーだから高額は払えないけど、内容によってはここの食事以外にも渡せないことはないわ」
お金……、正直言って喉から手が出るほど欲しい。だけど、その欲目でやった大道芸でこんなことになってるんだよなぁ……。
「タイチ君は旅行者なのよね」
サラのことはともかく、俺について当たり障りのない話はこれまでにもしてある。
「だったら、こっちで伝手とかないでしょ。もしも何か必要なことがあったら手伝うこともできるかもしれないわよ」
「伝手ですか?」
「そう。宿に食事に交通手段に人。現地じゃないとなかなかわからない情報を提供できる。イタリアよりもフランスの方がちゃんと調べられるけど、滞在する予定はある?」
あると言えばある。けれど、俺の中で引っかかっていたのは別の部分だ。言われたことをゆっくりと、間違って伝わらないようにサラにも話す。
「人、情報……?」
アヤさんの言う『情報』はどれも俺たちにとって有用なものだ。けれど、一番気になったのがそれ。俺たちには避けて通れない『人探し』というものがある。
サラのお父さん。連絡先の情報はなし。苗字もサラとは違って正確なものはわからない。
それどころか彼女はただ「パパ」と呼んでいたために朧気な記憶の中のファーストネームが正確な保証もなく、あとは母親が稀に口にしていた愛称を知っているくらい。
サラがいうにはお母さんといっしょに仕事をしていたらしいのだけれど、スペインやハンガリーのそれらしい団体と名前で検索しても該当する人物は浮かび上がらなかった。他の思い出を手がかりにしても、たった一人の誰かを探す方法は今のところ見つかっていない。現時点ではお手上げだった。
スペインの人口が四千万人以上。性別やおよその年齢でふるいにかけても対象は百万人以上いるのではないか。確証のない名前からどれだけ振るいにかけられるか……。
もしここでプロの手を借りられるなら、お父さん探しは大きく前進することになる。彼の所在はフランスではなくとなりのスペインなので期待はできないのかもしれないけれど、選べる手段は多いに越したことはない。
問題があるとするならば、サラの現状を少なからず説明する必要があること。
なぜならお父さんに関する最大の情報は、サラのよく知るお母さんとの関係だからだ。もしも、本気でプロがお母さんの線から探すとなれば、ブダペストで起きた交通事故、ひいては行方不明になっているサラのことまで知る可能性は低くない。逆にそれができないのであれば、お父さんに行き着くかどうかが怪しくなる。
「やっぱり、事情があるのね。さっきも言ったけれどこの場で何かを話す必要はないわ。手伝えることがあるなら、名刺のアドレスに連絡して」
今日のところはご飯を楽しむことにしましょう、と話を締めくくった。
急に決断を迫られずに済んで小さく息を吐く。こんなこと、しっかり相談をせずに決めることなんて不可能だし、それなら今は食事に集中したいというのは確かだ。詳しいことは後で連絡で構わないって、とサラに伝えて言われた通り肉との格闘を再開した。
デザートはイタリアンジェラート。いわゆるアイスクリームだった。この国に入ってから気温も上がって冷たいお菓子は大歓迎だ。
見た目は少し茶色味がかった白で、味からしてナッツ系がベースになっている。
濃厚な甘さがある一方でクリームというよりも氷のシャリシャリした食感が前に出ていて不意をつかれた。ちょっと新鮮だ。
俺もサラもあっという間に平らげてしまい、アヤさんは目を丸くしている。甘いもの、いくらでも食べられるんだよな……。わびしい思いで空になった器を眺めるばかり。
「結局、俺たちを食事に誘ったのって、本当にパフォーマンスで興味を持ってくれたからなんですか?」
最後に、お猪口みたいに小さなカップに入ってでてきたエスプレッソで舌を温めながら気になったことを訊いてみる。
「なんで?」
「さっき言ってたじゃないですか、最初は食事に付き合って欲しいだけだったって。でもこの街だとアヤさんだって観光客なわけでしょう。正直俺たちみたいなのにわざわざ声をかけるかなって。スリとか詐欺にあったらって考えたりしませんでした?」
自分のことながら、どうみても本職のパフォーマーの見た目ではないなと思う。髭なんかはちゃんと剃ってきたけれども、髪型や服装まではどうにもならないから。
サラはともかく、海の物とも山の物ともつかない男を女性が一人で誘うのは勇気がいるのではないか。
「それをあなたが言うの?」
「いや、もちろん、俺たちはそんなことしませんけど。でもやっぱり疑われるんじゃないかって」
「そうね……」
何か考えるようにエスプレッソを一口。慣れないカップを子どもみたいに傾ける俺とは違って画になる。
「……私さ、これでも正義のジャーナリストなのよね」
思ったより長い沈黙のあとに出てきたのは予想外の言葉だった。
「……自分でいうのも恥ずかしいのよ。でもね、そのつもりなの。こういうのが大事なの」
こういうの、とはどういうのだろう。
「この仕事をやってると、悪い人をたくさん見るし、なんだかそれが当たり前になっちゃう。誰かの善行よりもスキャンダルや犯罪の方がお金になる、っていうよりもそれしか稼ぐネタがない。毎日そんなこと考えてるとそこら中が悪人だらけで世の中そんなものって思うようになるのよ」
「はぁ」
それが俺たちに声をかけるのにどう繋がるのだろう。
「そうやって固まってしまった感覚はもう戻らない。誰かを疑うのが癖になる。でもさ、当たり前になりすぎて自分まで悪人になってるのって怖いでしょ。それも気が付かないうちに」
言いたいことはわかる気がした。
「だからこの仕事を選ぶ人間って意外と正義を信じてるの。本当にどうかはともかく自分は正しいって思ってやってる奴ばかり。あとはもう根っからの悪人。私は前者ってことね」
ろくな業界じゃないわね、と独り
「せっかく休みをとっても気が付いたらネタになりそうなことを探してたりするし、それで見つけたのがあなたたち。最初は通報することになるかなー、って思いながら探りを入れたのよ」
……今度はコーヒーを吹き出したりせずにすんだ。不穏な話題になってきたのを感じ取っていたし、慣れてきていたのもある。
それでも心臓に悪い言葉なのは変わらない。
「だって、ねぇ。どこの国だって未成年略取は犯罪よ。家族でなさそうな少女を連れまわしている男がいたら気にするでしょ。まぁ、鎖で繋いでるわけでなし、ちょっと様子を伺ってみようかな、と。いわゆる草の根正義活動」
反論の余地がないことをとつとつと語られる。ずっと考えていたことではあっても、実際に他人の口から聞けばめちゃくちゃ不安になる話だ。やっぱりそう見えてた。
「イタリアで警察とお話するとどんなことになるのか、とか伝手でもできたらいいな、とかそういう下心を正義の言葉に丸め込んでサラちゃんのことを助けるつもりだった」
唐突に自分の名前が出てきてこちらを向くサラ。
「けど、すぐにそういうのじゃないってわかった。この子ずっと私を疑ってるのよね。反対にタイチ君のことはとても信頼してるし、なんならずっと私から君を庇おうとしてる。どういう関係なんだろうって、そこからは話した通り。悪い男が少女を騙して、ってわけでもなさそう」
本人の前で「君、そんなに器用じゃないもんね」などと言われるのはとても辛い。
「兄妹っていうよりも対等に見えるし、相棒? それともこんな場所だしロミオとジュリエットとか」
これまたヴェネチアに近いベローナという地域が舞台の有名作品。
「シェイクスピアならベニスの商人って線もあるけれど……。あれも駆け落ちだったかしら。男を助ける聡明で強い女って意味ならこっちかな。悲劇より喜劇の方が絶対いいし」
詳しい話は知らなかったから何も言えない。ただ、ベニスというのがヴェネチアのことで、この物語が喜劇らしいというのはわかった。
「ま、どんな事情があるのか知らないけど、若気の至りでむちゃくちゃする前に相談してよって言いたかったわけ。あとは仕事のネタになったらいいな、と。……いい加減、サラちゃんが限界みたいだからこのへんにしておくわ。説明、よろしくね」
そういってサラの方に視線を向けると、小さなカップをテーブルに置いて席を立つ。
なにごとかと思っていたけれど、どうやら支払いに行ってくれるらしい。ありがとうございます。
言われた通り不満げな顔に見えないこともないサラに、まず会計に行っているということを伝えた。俺たちが通報直前だったとか、お父さん探しを依頼するかどうかだとかはもっとちゃんと時間をかけて話さないとどうにもならない。
ならばまずは恩を受けたぶんちゃんとお礼を言うべきだろう。
何かサインらしきものをしてからスマートに店舗を出てきたアヤさんに、二人並んで立って「御馳走様でした」「ゴチソウサマ」と言う。サラも日本語。いつも俺が食事のときに言うのをそのまま真似た感じ。アヤさんは口元を両手の指先で押さえたあと、
「なにそれかわいい。どういたしましてー」と抱きついている。
お礼を言った手前、ふり解くわけにもいかず居心地の悪そうなサラを笑っていたら、アヤさんはいつの間にか俺のとなりにいてこちらに顔を近づけてきた。
面食らって硬直したところに「サラちゃん、大切にしてあげなよ」と一言。耳の付け根と頬の境目あたりに言われてドキッとした。なんだろう、相手が驚くことをするのが癖なんだろうか。ささっと片手を挙げて帰って行くところを茫然と見送るしかない。
大切にしろ、か。
言われるまでもないけれど、なんだかこの人は俺とサラの関係を少し勘違いしている気がする。シェイクスピアの例えとか。俺たちがロミオとジュリエットということはないだろう。
耳元を撫でながら考え事をしていると、となりから脇腹の上のあたりに肘をぐりぐりと押し付けられた。意外と痛くてびっくりする。
さっきと違って明確に機嫌を悪くしたサラをなだめるうちに、日が暮れることになってしまった。
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