第23話

 俺とサラは今、真っ白なテーブルクロスを前に二人並んで座っている。

 テーブルを挟んで先ほどの女性。アヤさんという名前で日本人だけれど、ここ何年かはフランスに住んでいるというおしゃれな感じの紹介を回りくどく日常会話の中で聞かされた。

 一方で俺たちは名前以外の自己紹介はほとんどしていない。俺が日本のどこ出身なのか、とかそういう話くらい。サラは俺の友人で、それ以外のことは彼女のわからない言葉で勝手に教えることはできないと説明してある。これはサラ自身の入れ知恵だった。ふーん、と意味ありげな笑みで答えられたけれど、今のところ細かいことは訊かれていない。だから、適当なところで会話を切ってさっさと退散するべきだったということは分かっているのだけれど……。

「よかったらランチ、いっしょにどう? こっちで会うはずの友達が急用入っちゃってさ。レストラン予約しちゃったの。ちょうど三人分」と誘われてしまった。

 興味はあっても、パスするべきだろう。都合の良いことに鉄壁の言い訳もある。

「……実はあんまりお金ないんですよ。さっきのやつもちょっとおひねりを期待してて」

 本当はちょっとどころではなく、かなり期待していたけど。

「あはは、それでピンじゃなくて瓶とかボールでやってたんだ、なるほどね。……だったらさ、奢りならどう? 面白いもの見させてもらったからお礼ってことで」

 逃げ道はいともたやすく塞がれてしまう。

 予想外にもサラはこのお誘いを受けても良いと答えた。

 逃げるなら今この場で動くと怪しいし、もっと相手が警戒を解いてからの方が良い、というようなことを目線で伝えてきた、……気がした。俺たちの旅にしても自炊以外は安価なファーストフードくらいしか外食しないので、たまの機会を逃したくないと思っている可能性もある。

 サラとつくる料理には一切の不満はないし、とても満足している一方で滞在する土地でどんなご飯が食べられているのかということに対する興味も確かにあった。特にプロの料理人の皿なんて、この旅では数えるほどしか出会う機会はないだろう。思ったより期待している自分がいる。特に財布の中身を考えなくて良い料理というものがこんなに心安らかだなんて知らなかった。となりを歩くサラもなんだか歩き方が軽やかで、似たようなことを考えているのではないかと思う。いつも食費の計算に頭を悩ませているから。

 駅からそこまで歩かない距離に予約したレストランとやらがあるらしい。

 周囲は観光地然とはしておらず、よく似た見た目のアパートのようなものがずらっと並んでいて閑散としている。目印になりそうなものが少ないので一人で歩こうと思ったら迷いそうだ。奢りという言葉で完全に眠りについていた警戒心が少し鎌首をもたげてくる。

 とはいっても「もう少しで着くよ」というアヤさんの言葉は嘘ではなく、ちゃんと一つ角を曲がったところで小ぶりながらも綺麗な店舗が目に入った。

「こんな感じだけどトラットリアじゃなくてちゃんとリストランテなのよ。今日もランチだけど、コースメニューだから期待していいと思うわ。お腹は空いてる?」

 これには頷かざるを得ない。自転車乗りはいつだって空腹だ。

 聞けば、トラットリアというのは『食堂』的な意味合いでリストランテはそのまま『レストラン』。正直に言えば俺には違いがわからないけど、格付けのようなものがあるのか。

 時間的にはランチが始まって少しした頃合い。ぼつぼつテラス席が埋まっている様子が見て取れた。建物の中に入るまでもなく、そこにいるウェイターに声をかけるアヤさん。あ、英語だ。ウェイターの人も同じく英語で答えている。さすが国際的な観光地。

 三名での客で予約をしていることを伝えると、すぐに席に案内される。場所は目の前に広がるテラス席の角。屋根はあるし雨が降りこむような位置でもないけれど、あいにくの天気のせいで残念な場所といえば残念な場所。ただし、俺たちとしては悪くない。言い方は良くないけれど最悪の場合逃げやすいので……。

 着席するとすぐにメニューらしきものが運ばれてきて不安な気持ちになった。高級なレストランで何を選べばいいかなんて知らない。イタリア語はスペイン語と同じくラテン語圏の言葉なので辛うじて意味が類推できるかもしれないけど。そんな逡巡はどうやら杞憂だったらしい。中には英語訳がついていたし、そもそもお酒の銘柄しか書かれていない。

 どういった地域性なのかイタリアに入ってから日中ワインを飲む人をよく見かける。

 ちゃんと選ぶならどうしたらいいかわからないけれど、サラの手前、俺がここでお酒を頼むことはない。二人して炭酸の入っていない水を選ぶ。

 アヤさんは実にスマートにコースメニューを確認したあとに「それに合うものを見繕って欲しい」と注文していた。こう言えばいいのか、覚えておこう。活かす機会があるかはわからないけれど。それにしてもこの人は日中の飲酒に抵抗がないんだな。

「ん、お酒? さすがにいつもお昼から飲んだりはしないわよ。でも今日は旅行中だし運転もしないからね」

 としごく真っ当な返事だった。俺でも同じ状況なら同じ選択をしそうな気はする。

「旅行って、フランスからってことですよね」

 ここに来るまでに受けた自己紹介ではそういうことだったはず。

「そうそう。仕事の都合でパリにいることが多いんだけど、ちょっと長めの休みをとることにしてね。旅行しつつこっちの友達と会おうと思って。いきなり大遅刻されちゃったけど」

 聞けばボローニャ大学に所属する友人の実家がヴェネチアに近く、こちらで落ち合う約束をしていたらしい。ボローニャはとなりの州だから帰省にタイミングを合わせた感じだろうか。実際には提出した論文の差し戻しを食らって遅れているのだと説明された。もう一人のお友達も向こうにいて、いっしょに車で移動するから遅れていると。

 それにしてもパリ在住でイタリアに何人も友人がいて国境を跨いで遊びにいく、というのは小市民的な俺の感性からすればとてもスケールが大きい。素直にそう伝えると、

「そんなこと言ったら、男の子と女の子、歳も出身も違いそうな二人があんなところで大道芸をやってる方がずっとドラマティックな予感がするけど?」

 完全に藪蛇をつついた形になってしまった。

 こちらのことを訊かれるよりも、向こうへの質問で時間を潰す方が角が立たないと思っていたけれど、こんなカウンターを受けることになるとは。難しい……。

 愛想笑いでなんとか誤魔化してはみたものの、完全に怪しい印象を与えてしまったことだろう。今あった会話をどうサラに説明しようか迷っていたところで、タイミングよく前菜が運ばれてくる。大きなお皿にのせられたこじんまりとした一品。生ハムにチーズ、そしてこれはオリーブの塩漬けだろうか。細かく切り分けられてめちゃくちゃおしゃれに飾り付けられているのでどう食べたらいいのかわからない。

「どうぞ、召し上がって」

 そんなこと言われても……。

 とにかく量自体は多くないから真ん中に刃を入れてフォークとナイフで摘まむようにして持ち上げて口にした。

 肝心のお味は、間違いなく美味い。チーズの塩味や風味が思いのほか強い。逆にオリーブはそこまで塩味がしないかわりに油の濃厚さがある。けれど、くどくはない。素材が良いのかも。生ハムも同じく思ったほどの主張がなく、なんというかチーズを他の素材でくるんである感じ。

 日本で食べてきた料理や野営中の食事とは考え方からして違う。

 俺以上にサラは真剣だ。小さく切り分けた前菜を組み合わせを変えながら口に運び、何か考え事をしている。正直、マナーが悪くなりそうなものだけど、そこまで不自然に見えないあたり、生まれた時からフォークとナイフに親しんできたキャリアだろうか。

「気に入ってもらえたみたいで嬉しいわ。でも、これからが本番だからね」

 と、自分の分に手もつけずに言うアヤさんの表情は本音を言っているのだなと思った。サラにせよ俺にせよ、奢りがいのある相手ではあるのだろう。

 そう間をおかずに運ばれてくる次のメニューはイタリアらしくパスタ、麺は慣れ親しんだ細長のスパゲティに見えるけれど、色が黒い。これは、

「イカスミですか」

「ベネチアだからね」

 詳しくは知らなかったのだけど、どうやらこの地域の名物料理らしい、イカスミパスタ。名前くらいは知っているけれど食べたことはない。

 うねる真っ黒な麺がてらてらと黒く輝く様子はテレビで見た原油っぽくて残念ながら食欲をそそるものではない。とはいえ、香りはちゃんと食べ物なので不思議だ。失礼な言い方だけど……。

 いや待てよ、考えてみればのりの佃煮なんかもこんな感じか。そう思うと美味しそうに見えてくる。どれ一口、とフォークをとってくるりと巻き取ってみたところで俺のシャツを引っ張る手。振り向けばサラが不安そうにこちらを見ている。あぁ、そっか。

「シーフードパスタだよ、イカスミの。このあたりの名物なんだって」

 ずっと通訳紛いのことをしていたけれど、食事が運ばれてきてから疎かになってしまっていた。なんの説明もなく真っ黒な塊が運ばれてくれば面食らうか。

「……ああ、これがそうなんだね」

 スペイン語ではフィデワネグラでだいたいイカスミパスタ(細麺)として通じる。俺が単語を知っているくらいだから調理素材としては一般的なのだろう。

 けれどどうやらサラ自身は初めて見たらしい。ハンガリーは内陸国だし、そちらの感覚ということか。出自さえわかればとくに抵抗もないらしくテーブルの上のフォークをとった。

 さて、俺も実食だ。味の基本は塩だろうか。ソースのほのかな甘みと合わさって潮の香りが感じられる。酸味はほとんどないけれど複雑な旨味がある気がして、なんとなく味噌を思い浮かべる。シンプルさと複雑さ、両方を抱えた上で素朴な味わいなのは面白い。前菜と違って食いでがあるのが嬉しい。ちょっと前のめりに口に運んでいると、左から紙ナプキンが差し出されてきた。

「口の端、黒くなってるよ」

 フォークを持って硬直していたところをさっとひとふき。

「ありがとう」とひとこと伝えて食事に戻ろうとしたところで、目の前にもう一人いることに思い至った。目線をあげると驚いた顔のアヤさん。少し口を開いたまま目線をこちらに向けている。前歯が黒く染まっているのが見える。しっかりメイクとのコントラストでとてもアンバランス。本人的には見せたくない表情だろう。なのに、俺はもっと恥ずかしい思いをしている。子どものようなところを見られてしまった。ここまでの旅で食事はほとんど二人きりでしてきたから、なんというかこう、家族的な距離感が普通だったけれど、客観的に考えれば人前でする振る舞いではないのでは? 今更気付いても遅いけど……。

 かといってできる言い訳もなし、サラだって悪いわけではない。これ以上言い繕おうとしても泥沼になることは目に見えていたので、静かに次のパスタを巻き取る以外にできることはなかった。せめてこれ以上口元を汚さないように気を付けよう……。

 間が持たず、気まずい思いで過ごす時間は幸いなことにそう長くはなかった。すぐにメインディッシュが運ばれてきたから。それもステーキ。事前に焼き方を訊かれていたので、何が出るかは知っていたけれど、いざ運ばれてみればやっぱり迫力がある。世の運動部系男子の例に漏れず、俺は大好物だ。

「ヴェネチアだからって魚介がメインってわけじゃないんですね」

 肉にナイフを入れて頼んだ通りミディアムであることを確認しながら質問してみる。

「シーフードが得意なお店も多いけどね。このメニューは友達の一押しなの。本物のエミリアロマーニャを見せてやるってね」

 エミリアロマーニャというのはボローニャを含むヴェネチアのとなりの地域で、野菜、果物、牛、豚、鶏、と農業畜産に力を入れているらしい。ちなみに首都であるローマとは別。

 ここに限らず、イタリアの北部にはいくつものブランド牛があるらしく、一度はこれを食べろとずっと言われていたのだとか。

「なのに自分が遅刻してきてるの、まったく。それでもリストランテには行けっていうんだから強情よね。ほんと、あなたたちが付き合ってくれて良かった」

 ご飯を奢られてお礼もなにもないとは思うのだが、一応そんな話をサラにも伝えてみる。案の定不思議そうな顔。

「とにかく、二人を誘ったのはそんなわけ。だからあんまり警戒しないで欲しいなー」

 ……話を聞きながら口に運んでいた肉が喉に詰まるかと思った。

 赤身主体なのに軟かい肉は、確かに自信満々にすすめるだけある、なんて呑気に考えていたところでぐさっときた。

「ごめんごめん、驚かせるつもりはなかったんだって、ほんと。お水、飲む?」

 なんとか無理やり気味に飲み下して、すすめられた水で一息。

「……何のことです?」

「今更とぼけなくてもいいでしょ。だいたい言葉が通じるからって、初対面の誰かを食事に誘って奢るなんて言い出したら疑われるのも仕方ないし。旅行者詐欺の常套手段じゃない」

 う、そう言われれば確かにそうだ。俺たち二人は通報されると困るという負い目があるため、相手が悪人である可能性を軽視しているかもしれない。

「それとも、他に気になることでもあるの? そっちは二人で男の人もいる。私はか弱い女。もめごとになってもどうとでもなるのに?」

「……後ろから怖い人が出てくるとか」

 自分で言って恐ろしくなってきた。こういうの、美人局って言うんだっけ?

「なるほどね。でもそんなに美味しそうにお肉食べてから言っても説得力ないわ。もっと早く逃げなきゃ。まぁこの通り、私の知り合いは遅刻している二人だけ。今はひとりぼっちよ」

「じゃあなんで、そんな不安になるようなこと言うんですか……」

「言ったでしょ。警戒されると悲しいって。せっかくのランチなんだから。ただ」

 ただ?

「ちょっと二人に興味が出てきちゃった。私、普段はこういう仕事をしているのよ」

 バッグからスマートな感じのカードケースを取り出し、名刺を一枚テーブルの上に。

「何? どうしたの?」

 動揺して俺の同時通訳が切れてしまい会話の流れが掴めないサラが訊いてくる。

 机の上の名刺をとり、手元に引き寄せて二人で確認する。

「フランス語?」

「ああ、そっちじゃなくて裏側」

 ということで裏を見ると、英語表記でアヤさんの名前とメールアドレスや電話番号、SNSなんかの表記に加えて、

「ジャーナリスト?」

「そ。英語だと物々しいかもしれないけど、つまり報道記者ね。フリーだけどこれでもけっこう忙しくやらせてもらってるわ。今は息抜き中だけど」

 そう言ってワインを一口。

 となりのサラも、彼女がどういう立場の人なのかは理解したみたいだった。けれど、正直、これは……。

「だからそんなに不安そうにしないでって。二人の関係が面白そうだったから、ちょっと取材させてもらいたいなって思ったの」

「いや、でも」

 俺のことはともかく、サラの事情は勝手に話せないと説明したはず。今、こういう流れになっているということを手短にスペイン語で説明しながら、アヤさんの意図を考えてみるけどよくわからない。ただ好奇心で言っているのだろうか。

「何か仕事に関わるネタがあるっていう気がするの。言ってみれば勘なんだけどね。正しいかどうかはあなたたちなら判断できるんじゃない?」

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