第22話
翌日、意外と強い雨脚の中、ジャグリングに使うガラクタだけをクッキーの缶に詰めて目的の場所へと向かう。ちなみにこの缶は宿のゴミ捨て場でみつけた一品。サイズが丁度良かった。重要なものは何もないので、場合によっては全部置いて逃げる算段である。
こんな天気でもヴェネチア本島へ渡る人はたくさんいて、駅は混雑していた。これなら観客は十分だろう。ガラクタを一通り路面に並べる。どうにも転がって座りが悪いテニスボールをなんとか留めると、片面が白い段ボールを壁に立てかける。そこにはマジックで『Fanny La vie Juggling』英語とフランス語、俺たち二人には微妙に縁の遠い造語で、無理やり和訳するなら『へんてこな人生の曲芸』あるいは『誤魔化された不思議な人生』みたいな感じだろうか。韻を踏むことを重視していて内容に意味はなかったりするけれど、俺たち二人の出会いを考えれば不思議とまったく無関係というわけでもないような気がする。多少安っぽいが、何かをしようとしているのはわかってもらえるはず。
二人の前にはクッキーの缶。蓋をそこに敷いて中には十ユーロ札一枚と小銭がいくつか。見せ金なのは一目瞭然だけど、こんなのでもやらないよりはやった方がおひねりを投げやすいらしい。ネットで調べた情報を半信半疑で実践しながら準備が完了した。
二人でアイコンタクトをすると、サラが歌いだす。
『小熊のお家には兄弟がたくさん、ベッドは大きな一つだけ』
最初の一回だというのに、気負いは感じられない。周囲には人ごみ、雨音もあるから多少聞こえにくいかもしれない。それでも歩いている人達がこちらを向いた。なんだか緊張してきたけれど、今更俺だけ逃げ出すことはできない。最初の一個を投げるタイミングに集中する。
『おねむの一人は二番目のお兄さん。最初にベッドに潜り込む』
昨日何度も練習したタイミングで炭酸飲料の小瓶を手にとって高めに投げるとすぐにテニスボールに手を伸ばす。
『それを見て、寂しくなった最後の弟、追いかけるようにベッドに飛び乗った』
歌詞に合わせて拾っては投げ拾っては投げ。当然投げた分だけ受け取らなければいけない。とても忙しい。ただし、作業に集中しなければいけないというのはそこまで悪いことでもないようだ。周りの目が気にならなくなった。
『二番目のお兄さんは寝相が悪くて転げ落ち、面倒見の良い長男が抱っこして戻す』
面子の入れ替わりが激しいこのジャグリング、難しい点はまとめると二つだ。
一つはクラブの重さがまちまちなこと。投げる力が一つ一つ異なる。特に難しいのはペットボトルで、半端に水が入っているので重心が安定しない。これをクリアするのに大切なのは呼吸だ。リズムにあわせて強弱強強、バラバラなようで決まっている順番を体に覚えさせること。
もう一つは入れ替え。歌詞に合わせるという都合上、入れ替わるクラブを地面に置かなければいけない。このとき、腰を曲げるとうまくリズムをとってジャグリングできないので膝を曲げるのがコツ。なんだか低い姿勢でどんどんリンボーダンスみたいになっていくけれど……。
たまにサラに投げ入れてもらって緩急をつけながら一曲分をやりきった。体にまとわりつくのは運動でかいた汗と緊張でかいた汗、その両方。たった二分ほどの間に息があがるのは、その間ずっと深い呼吸ができないから。
下を向いて息を整える。一回、二回……、そこでパチパチと何かが爆ぜるような音。え? 思わず顔をあげて音がした方向を探して見たけど無駄だった。最初は確かに一か所だけだった音の出どころが無数に広がっていたから。周囲を見渡せはたくさんの人、人、人。その多くが拍手をしてくれている。半径五メートルほどの空白地帯を空けて俺たちは囲まれていた。
思い出してみると、ジャグリングの途中でも確かに観客は大勢いたのだ。動作に集中していて今まで実感が湧いていなかった。
自分を見つめ直してみると、最初に立っていた場所から少し前に立っている。気が付かずに何歩か踏み出していたらしい。とりあえず二歩ほど後退してからサラと横並びになると、それぞれ一回ずつ頷いてから一礼。右手のひらを上に向けて前に、左手を腰の後ろに回す気取ったやり方は昨日のうちに取り決めていた方法。本当にこんな仰々しいお辞儀が必要なのかなと半信半疑だったけれど、なるほどこれだけ人が多いなら区切りを知らせるために意味がありそうだ。
気持ち長め、三秒くらい頭を下げたままでいると、目の前の缶にカチンという音。顔をあげると小さな子が満面の笑みで立っている。どうやらおひねりを投げてくれたらしい。ありがとう。口角をあげて笑顔をつくる。やりなれないからこれでいいのかちょっと不安。
子どもはすぐ後ろにいた両親の元へと戻っていき、次の人達がやってきて同じように小銭を入れてくれる。これならあっという間にお金持ちになれるのではと期待したのだけれど、さすがにそう簡単じゃなかった。前の方で見てくれていた人たちはちらほらと硬貨を投げ入れてくれるのだけれど、囲んだ後ろの方の人は芸が終わったということを理解してすぐに歩き出してしまう。完全徴収のチケット制というわけではないのだ。わざわざ並んだり、人を押しのけてまでお金を払う理由がない。
そんなわけで、あんなにいた観客は瞬く間に数を減らしていく。結局全体で見ればほんのわずかなありがたいお客さんだけがおひねりをくれた形だ。この場で何度か繰り返したら、見物人が定着したりしないだろうか……。そんな思いが頭をよぎった。
……いかんいかん。今は様子見。どんな結果になろうと一度やったら移動すると最初に決めてあったのだ。人が減ったならさっさと退散しないと。あまり目立った行動をとれば招かれざる客がやってくるかもしれない。何か言いたげな顔、おそらく俺と同じことを考えている、サラの肩を叩いて撤収作業に入ることにした。
儲けは悪くなかった。
十ユーロ札が何枚か入っていたのが大きい。全て合計すると四十六ユーロと少し。けれど、サラは少しだけ不満顔だ。
「昨日見た人のところには二十ユーロ札があったのに」
というのが理由らしい。
自画自賛になるけれど技術で負けていたとは思わない。専用の道具を使った見栄えくらいは関係しているかもしれないけれど、どちらかというと場所や天候、ときの運の問題だろう。駅前は見物客は多いとしても、それぞれ行先があるわけで、悠長に足を止める割合はそんなに多くないのかもしれない。
「ちゃんと稼げただけでもたいしたものだよ。サラが準備してくれたお陰だ」
そう感謝の言葉を伝えてちょっとヨイショしておく。
これは一から十まで俺の本心でもあって、まさか本当にお金を払う人がいるなんて思わなかったし、彼女が背中を押して手伝ってくれなければ絶対にやらなかったことなのも確かなのだ。
日本ではずっとバイトをやっていたからお金を稼ぐのが初めてというわけではない。それでも、こんな異国の地でもそれができたというのは、なんというか、とても安心する。ぎりぎりのところで生きていく手立てがあると勇気がでる。……今回はサラとの協力が不可欠だったし、どこでも成り立つ方法じゃないかもしれないけど。
「……そんなことはないけど」
彼女がことさらぶっきらぼうに言うときは照れているのだということも、この一月ほどの付き合いの中で理解できるようになってきた。これ以上感謝を伝えるとむきになって反論してくるのでほどほどで止めておくのがコツだ。
さて、そんな戦果の確認を俺たちは駅のはずれでやっていた。周囲には改札も店舗もないから人の行き来はまばらで、だからこそ少し油断していたとも言える。そのため、第三者が近くを通ってもあまり気にせず二人で話しこんでしまった。そんな虚をつかれる。
「あ、さっきのジャグラーの人!」
日本語。久しぶりに音で聞くと完全に外国語で異質な感じがした。その一方で長い間慣れ親しんだ言語なのも確かで、遅れて意味が頭に入ってくるのはすごく変な気分だ。
内容を考えると俺のことを言っている可能性は高い。ワンテンポ遅れてしまったけれど、やっと相手の方を向く。
「日本の人、よね? 違ったかな。言葉、わかる?」
そこには若い女性が一人で立っていた。黒い短めの髪。たぶん俺よりちょっと年上。目線はがっちり俺を捉えていて、人違いの線はほぼ消えた。
「あ、はい。そうです、すみません。日本語、ひさしぶりだったので」
不自然なほどとぎれとぎれになってしまって恥ずかしい。言葉は使っていれば上達するという実感があったけれど、逆に鈍ることだってあるんだな。
「あはは、最初に謝るの、確かに日本人だ。見てたよ、さっきの。凄いね、ああいうのずっとやってるの?」
「いえ、今日が初めてだったんです」
「へぇー!」
本心からの驚きという感じ。どうやら観客の中にいたらしい彼女は俺たちの出し物をちゃんと楽しんでくれていたようだ。嬉しいな。呑気に喜んでいるところで、袖を引っ張られる。
「……誰?」
そういえば誰だろう。
「さっきのジャグリングを見てくれてたんだって」
「なんて言ってるの?」
そこでやっと、彼女にとっては謎の言葉で続く会話だったということに思い至る。悪いことをした。
「凄かったって。初めてとは思えなかったみたい」
だいたいそんな感じだろう。
「そっか」
内容が理解できたことでいくぶん緊張は和らいだよう。でも、
「あんまり私たちのこと、話さない方がいいよ?」
どこかで警戒を解けずにいるらしい。
ああ、そうだ。久しぶりの日本語と褒められたことで完全に失念していたけれど、今、サラとの関係を訊かれるとけっこうまずい。
なのにどう考えてもこの後の話題の方向は、
「ところで、そちらの彼女とはどういったご関係で?」
ここに落ち着くことになるのである。
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