第20話

 潮の匂いがする。

 波は穏やかで、太陽の光を受けてキラキラと輝いている。先日見たバラトン湖のように広大だけど、色合いが全然違った。馴染みのある紺色。日本の海と良く似ている気がする。

「着いたね」

 感慨深げな声。

「うん。久しぶりに見た海はどう?」

「……遠かった」

 海自身というよりも、旅の感想だった。無理もない。これまで長距離を走った経験のない人間が国境を二つも越えてやってきたのだ。景色よりも道中のことの方が重たく感じるというのはよく理解できる。

「海ってどこもこんな匂いなの?」

 遅れて、視覚以外からくる疑問。

「天気とか風向きによるけど、そうだと思うよ。覚えてない?」

「うーん、どうだったかな」

 彼女の思い出には鮮やかな色は残っていても香りのことは朧気らしい。

「でも、俺も海水浴に行ったときはこんなに匂いは気にならなかったかな」

 別に嫌だとは思わないけれど、幾分強く感じる。当分、内陸にいたからそう思うのだろうか。

 旅をすると空港ごとに別の匂いがするというのは叔父から聞いた話だった。日本は醤油と海の香りだというから、住んでいるときは馴染みすぎていたのかもしれない。

 ここはイタリアの端っこ。なぜか数十キロほどスロベニア側へせり出したトリエステという都市から少し北へ進んだあたり。よくイタリアという国の形を例えるときに使われるブーツでいうなら、膝の裏側あたりにある収まりの悪いタグの位置だ。


 目の前にはずっと目指していたアドリア海がある。ちゃんと二人でやってこれた。真っ暗な森の中で約束した次の目的地。


 リュブリャナを出発してクロアチアへ向かうユーロヴェロ9から地中海沿岸へ向かう8へ乗り換えて数日ほど。最初の道でも別の沿岸へ到着することはできるけれど、どっちみち海が終点なので、より目的地へ近い経路を選んだ。

 本当はもう少し早く着く予定だったのに、入国で思ったより手間取って遅れている。

 例によって逃亡犯な俺たちは国境を越えるのに気を遣うのだ。

 さすがに今更追っ手がどうこうということはないにせよ、家出を疑われると釈明の余地はないまま。

 このあいだの誕生日でサラは十五歳になった。

 正直もうちょっとだけ年下だと思っていた。この子は年相応よりも小柄な女の子だったのだ。

 話を聞いて、すんでのところでそう感想をもらさずに済んだのは良かったと思う。絶対怒る。

 今後はより一層デリカシーに配慮する必要があるだろう。男性と女性では根本的に生活様式が異なるから、生理現象とかそういう方向で……。

 話が脱線してしまった。とにかく、十五歳というのは微妙な年齢だ。

 一人で海外旅行をする。それくらいのことはありえるだろう。自転車旅もやる人はやるかもしれない。けれど少なくない数の大人が心配する程度には危うい行動でもある。

 どこから来たのか、どこへ行くのか。そんな質問を受けること自体が俺たちにとってはリスクなのだ。国境の検問はその最たるもので、下手な言い訳をしようものなら『痛い腹』を探られることになる。俺が保護者として名乗り出ても状況がより一層混迷するのもまた自明の理。

 自分たちで目的地を目指すと決めた以上、可能な限りもめごとは避けたい。だから入国のときのように田舎道を探してみたけれど、なかなかうまくいかない。どうにも国境沿いに人がいるっぽいからだ。高速道路の現金支払いレーンのように小さな小屋がぽつんと立っていて、中は真っ暗。それでも、となりの駐車場に車があるのだから無人とは考えにくい。

 子どもといえる年齢の子が一人で自転車で通過しようとすれば、怪しまれる可能性はあるかもなぁ……。地元の言葉がわからないということがバレてしまえば一発アウトもありえる。

 近くに抜け道のようなものもなく、地図を見る限り数キロ先にある他の国境はどこも今いる場所よりも道幅が広い。同様かそれ以上に大がかりな入国審査がある可能性は高いだろう。山道をあまりうろうろしていてもそれはそれで怪しいので、一時撤退して情報を集めることになった。


 どうやらこの地域での越境は自動車か鉄道を使うことが多いらしい。基本的に検問はなしで通過できるけど、近年は抜き打ちの検査も増えている。特に大型の自動車に対するチェックが厳しいのだとか。

 この国もまたハンガリーと同じく移民・難民問題を抱えており、彼らの移動が関係している。非正規のやり方でアフリカ大陸からヨーロッパに入る場合、シチリア島からブーツのつま先であったり、アルバニアを経由して踵の方を通ることが多いらしい。

 確かに南北に長いこの国を通過できれば一気に移動距離を稼ぐことができるだろう。国境の一つ一つで対策を練っている俺たちにも気持ちはよくわかる。

 移民・難民問題で論点になるのは基本的に受け入れ時の対応で、出口側になりやすい北部では厳しく見ているわけではないだろうということだけど……。だからといってザルにするわけにもいかないのだろう。スロベニアの側からみれば入国されることになるわけだし。

 列車での移動でいくか? この地域では自転車乗りが鉄道を利用するのはよくあることで、そのためのスペースが用意された車輛も存在する。かさばる荷物はどうにかする必要があるけれど、日本みたいに車体を分解まではしなくていいので丁寧に準備すればいけるだろう。

「……それしかないのかな?」

 と、サラはあまり乗り気ではないようだ。

 切符代自体は何日も立ち往生する経費と比べれば高くない。どちらかというと、わずかとはいえ検問を受ける可能性があることがストレスになっているのだと思う。それほど、ブダペストでの辛い思い出が彼女を苛んでいるのだ。鉄道車両の中で声をかけられたら逃げ場もないし。

 俺は俺で自転車旅の途中だ。できることなら全行程で公共交通機関を使わないやり方に挑戦したいこともあって、無理を通そうという気にはならなかった。

 結局、北上しながら小まめに調べつつ、イタリアに入国しやすい場所を探す。そう決めてやってきた最初の国境。

 いつも通り別行動で向かった場所には、この間と同じく小ぶりな検問所が建っている。やっぱりか……、という気持ちで来た道を戻る徒労感にうんざりしていると、あることに気が付いた。

 駐車場に一台も車が停まっていない。検問所に近づいてみると、受付け窓口のような場所にカーテンがかかっている。時刻は七時すぎ。日の出が活動開始の俺たちにとっては普通の時間だけど……、もしかして一般的には早朝の部類に入るのでは?

 『出勤前』という単語が脳裏をよぎる。

 今ならフリーパスで通過できるかもしれない。そう思うといても立ってもいられない。急いで戻るとサラに状況を説明する。

「どうしよう……」

 不安そうなのは鉄道のときと同じ。実は中に人がいるケースを恐れているのだろう。けれど……。

「どこかでやらないといけないことだ。ここなら先に様子をみることもできる」

 俺たちは少なくともあと三回国境を越える予定だ。最後の一回はスペインへの入国だから、サラ一人でもどうにかやり過ごす方法があるかもしれない。準備しておけば地元の住人のふりができるし、最悪お父さんを呼び出す口実として使える。

 だとすれば、イタリアとフランス、この二か国が壁になる。

 もし、その最初の一回をここで済ませることができれば残される難関は一か所だけだ。

「……やってみる」

 手短に段取りを決めて挑戦することになった。

 前と同じ、俺が先行する。通りすがりに受付けを確かめるけどカーテンがかかったまま。監視カメラらしきものも見当たらない。

 目立たない場所にあるだけなのかもしれないけど、リアルタイムでチェックしているのでなければさっさと通り抜けるのが一番だろう。

 腰の後ろで左の手のひらを開いて合図をすると、イタリアへと入国を果たした。三十メートルくらい遅れてついてくるサラ。不自然にならないようにゆっくりと進みながらそっと振り返る。……どきどきするな。

 正直、俺が通過できた時点で誰かいる可能性なんてほとんどないはずだ。そうわかっていても緊張は緩まない。ここからはわからないけど、サラだって同じ気持ちのはず。

 いつまでも様子を伺ってはいられない。ことさらギアを軽くしてゆっくりと前に進む。何かあればすぐに戻れるように音に集中しながら、荷物が重くて大変だ、みたいなふりをして進んでいると、

「……タイチ」

 控えめに背中から声がしてほっと一息つく。

「お疲れ様」

 短く労うと自転車を右側に少し寄せて追い抜かせる。もう検問所から見えるということもないだろうけれど、あとちょっとの間俺たちは無関係、たまたま道路ですれ違っただけの関係を装う。サラの自転車にはカバン一つ以外の荷物はないから、テントやらなにやらで重装備の俺を追い抜いていくのは自然なことのはずだから。

 少し距離をあけて同じ速さを維持しているうちに、じき国境は見えなくなった。

 念のため二キロほど進んで休憩をとる。

「うまくいって良かった」

「だね」

 一仕事終えた気分でお互いを労いながら水のボトルで乾杯したのは良かったのだが……、実は問題はまだ続いていたのである。


 俺たちは全長三千キロに及ぶ長旅の途中である。当然いくつかの経路を想定して道中の地図を準備してきた。

 けれど、これだけの距離となるとどうしても縮尺は大きくなりがちで、詳しい物を用意するにしても都市部のものが多くなる。途中途中の駅などでタウンマップが配布されているのを貰ったり、キャンプ場で逆方向へ行く人と交換したりして融通してきたのだが、今回の越境は完全に想定外だった。なにせ、手当たり次第に国境線沿いに移動していたのだから。

 手元にある地図にはちゃんとした経路は記載されておらず、道なりに進むだけ。ざっくりした方角はわかっても、自分たちが現在どこにいるかは定かではない。虎の子のスマホでバッテリーを気にしつつ調べてもダウンロードした地図では山の一部にポインターがあらわれるだけで全然あてにならない。それでもちゃんとした道があるうちは良かった。細くても舗装された道路を走れば距離は稼げる。しかし、そんな道はあるとき突然終わり、土だけの山道になってしまったのだ。道理で道中自動車とすれ違わないわけだ。俺たちの道は国境にしか続いていないから、みんなもっと別の幹線道路を使うのだと思っていたけれど、そもそもこんな路面では四駆でもなければ進もうという気にもならないだろう。

 だんだん不安になってきて引き返すかどうかを相談しようと思っていたところで現れる看板。トリエステまで二十一キロの文字。本当に信じていいんだな? せっかくここまで来たしという気持ちは二人の間で一致しており、結局先を目指すことになった。泥沼である。

 道は次第に狭くなり、両脇の藪がせり出してきて走りにくい。辛うじて前へ続く轍だけが文明の残り香を感じさせる。さすがに進路を間違えているのではないかと、何度か道を戻って確認しても、見落とした分岐路はなかった。ついには日が落ち始めてそこでテントを張ることになってしまったのだ。

 GPSではたしかにアドリア海へと近づいている。けれどそもそも距離だけ見れば丸一日かかるほどではないはずなのだ。俺たちはいったいどこを走っているのだろう……。

 そりゃあ国境に誰もいないはずだよと二人でこぼす。正直に言えばとても不安な状況だけれど、こうして愚痴を言い合っているとなんだか次第に笑えてきた。明日のことは明日考えようとさっさと眠る。周囲が暗いと何をするにも不便だから、自然と早寝になる。

 いろいろなことがあったけれど、俺たち二人はどうにも図太くなってきた気がしないでもない。そういえば最近はサラがうなされることも少なくなってきた。

 朝ごはんをしっかりとって、あと五キロだけ何も考えずに進もうと約束してから出発。

 サイクルコンピューターできっかり五キロのところで魔法のようにあらわれたコンクリートうちの道路には唖然とするしかない。

 くすんだ灰色の道はそれなりに古びていたものの、山道と比較して雲泥の差で走りやすかった。新たに発見した道路標識も、ちゃんとこの道が市街地へと向かっていることを示していた。

 以降、何度か道に迷いかけたものの、数時間ほど走ってたどり着いたのがアドリア海はトリエステ湾だったという顛末である。

 目下に広がる雄大な海に対する感動は間違いなくある。けれど、それよりも先に『長かった』という感想が出てきたのはこんなわけだった。


 しかし、味気ないなぁとちょっと思っていたところで、サラが続けた。

「ねぇ」

「どうした?」

「海で泳がない?」

 全然、想定外の提案だった。

 サラの少ない所持品の中には水着がちゃんとある。温泉なんかで使うためにハンガリーにいるうちに購入していたものだ。実用品だからかわいらしさには欠けるかもしれないけれど、上からTシャツでも着れば見た目は気にしなくて済むだろう。

 このあたりの気候なのか、海岸線に出てから季節以上に気温が上がっている。山道で遭難しかけて昨日はお風呂にも入れていない。例え塩水だろうと飛び込みたいという気持ちはたしかにある。

 ……とても良いアイデアな気がした。

「いいね!」

 ひとこと賛同を示してから、今日一日を過ごすために最適なビーチを探す段取りを立てることにした。

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