第19話


 翌日一日を休暇に当てて、体感としては全快していた。俺もサラも病み上がりなのは事実で無理をしようとは思わないが、普通に走っても問題なさそう。

「~~~~♪」

 久しぶりの走行に上機嫌の相棒は鼻歌を歌っていることに気付いているだろうか。

 気分がいいのには理由があって、今日も爽やかな晴天であることが理由の一つ。そして自転車をピカピカに洗うことができたのも大きい。

 二日滞在したモーテルは、キッチンこそなかったものの洗車場があった。聞けば自転車のメンテナンスに使っても問題ないというので二台分をちょっと念入りに洗ったのだ。

 運が良ければ水洗いくらいはできても、旅の途中だと食器用洗剤くらいしか手に入らないからな。自動車用のものが使えて良かった。乾いた後でケミカル(オイル等)もしっかり差したので気持ち走行感も良い。

 プレゼントの自転車を雑に扱ってしまったことにサラも罪悪感があったのだと思う。俺自身も当然思い入れのある自転車なので、綺麗に乗れる分には気分が良く、彼女の気持ちもよくわかった。

 現在地は首都リュブリャナ間近。しばらく前からユーロヴェロ9と呼ばれる自転車対応道に入っており、今日の目的地までずっと続いているので迷うこともないだろう。

 ユーロヴェロは凄い。なにせ、今走っているこの道はバルト海に面したポーランドから俺たちの目指しているアドリア海のクロアチア沿岸までヨーロッパを縦断しているのだ。多分二千キロくらいある。そしてナンバーが九ということは同じような道が、それ以上の数存在するという意味なのだ。文字通り桁が違う。一本で日本縦断できるラインが縦横無尽に走っていて全長で九万キロ、地球二週分以上の長さがある。一生涯をこの道路の制覇に費やす人だっているのだ。ただ走れるだけでなく、一日一度はサービスエリアを見るし、宿泊施設も定期的に存在するようになっているというのだから至れり尽くせり。

 俺たちのヨーロッパ横断も基本的にはこれらの道を利用する形で計画を立てている。迷いながら進むのも旅の醍醐味かもしれないけれど、安心感のある経路は経路で本当にありがたい。


 首都ということでなんとなく身構えて到着したリュブリャナは確かに大きな街ではあった。スロベニアに入ってからは集落と集落の間を移動する日々だったから、これだけの建物が並んでいれば迫力がある。けれど、あくまで街は街。東京やニューヨーク、ブダペストという都を基準に考えれば極端に大きなものではない。風光明媚な観光地という印象の方が強い。そもそも首都になったのが二十世紀の終わりごろというから、行政都市としては若い方なのだろう。

 一方で観光する場所はなかなか充実している。

 まず二つ名がある。それも『ドラゴンの街』。いたるところに竜の意匠が入っていてとてもかっこいい。自分の中の男の子が目を覚ますのも仕方がない。

 このドラゴン、実際に歴史はとても古いらしく、ギリシャ神話の英雄イアソンが戦ったという逸話あたりが始まりだそうで、本当なら紀元前、日本は縄文時代ということになる。

 その後も近くにある湖にドラゴンは住み続け、ゲオルギウスだとかなんだか聞いたことがあるような英雄を守護聖人とすることで調伏されたらしい。

 それが全て現実だというつもりはないけれど、夢のある話だ。

 ということで目を輝かせながら観光客用の英語の立て看板なんかを読んでいたらすっかりサラに冷たい目で見られるようになってしまい、ついには別行動をとる自由時間を設けることになってしまった。なんでだ。

 でも、この自由時間というのは旅でとても大切なもので、こうして相棒として各地をまわることにした俺たちも定期的に待ち合わせをしてそれぞれが見たい物を優先するようにしている。こういった選択ができないと、どんな近しい人、それこそ家族とだって自然体で過ごすことはできないだろう。

 特に今日、この場に関しては一つ大きな目的があって、どうにかまとまった時間をとりたいという気持ちがあったので好都合だった。こんな見捨てられるような形で得ることになるとは思ってなかったけれど……。ちゃんと挽回できるだろうか。


 結局、リュブリャナには一泊もすることなく旅立つ。というのも、洗車やグリスアップという予定していた車体のメンテナンスを訪れる前に済ませていたのが大きい。チェーンの延びはまだそこまでではないから交換の必要もないし、チューブの予備にも余裕がある。

 少し走れば水道が自由に使用できるキャンプ地があることが確認できたので、市街に滞在する理由がなくなってしまった。ユーロヴェロ様々だ。

 そうそう、リュブリャナでは日本米を購入することに成功した。しかもコシヒカリ。いつも調理を任せては悪いと、さっそく飯盒炊爨に挑戦するつもりだったのだけれど、今日のところは余り物食材の消費が優先という料理長サラの意見に負ける形で延期。すごすごと野菜の下拵えをしていく。最初のころは野菜の大きさやとりわける部位で何度も文句を言われたのに、最近はそれもない。

 いっしょに料理をすると相手の手法、というか調理マインドのようなものがだんだんわかってくる。どれがハンガリーのやり方なのか、彼女のお母さんのやり方なのか、そこまではわからないけど。違いなんてないのかもしれない。

 家と家族を失って、着の身着のまま飛び出すことになった彼女に遺されたのは自転車だけじゃない。経験や思い出にはむしり取ることができないような強固な側面もあるのだろう。

 お母さんからサラへ、サラから俺へ。人の間を渡って広がったものは何者にも侵されない。

 テーブル代わりに耐熱シートを敷いただけの簡素な食卓もすっかりお馴染みになってしまった。


 実は今日は、そんな日常とは少し違う特別な日。

「ちょっと待っててくれるか」

 食後に食器を片付けようとしていたサラを呼び止める。

「何? どうしたの?」

 すぐわかる。

 フロントフォークに取り付けられたサイクルバッグから、日中持ち歩いていた軽量のナップサックを取り出して奥の方に手を突っ込む。そこには今日一日、購入してからずっとバレないように注意を払っていたブツがある。よし、汚れたり凹んだりしてないな。

「誕生日、ちょっと遅くなっちゃったけど……」

 初めて会ったあの日に聞いた。今ここに彼女がいるのも、お母さんからの誕生日プレゼントが遺されていたからだ。

「ぁ……」

 差し出した小さな平べったい直方体。包装紙の明るい緑は少しそんな自転車のフレームの色に似ていた。

 ここまでして自分へのプレゼントだと気が付いていないということはないだろう。事実、彼女は右手を少し持ち上げて、でも何か躊躇するように中途半端な位置で止まってしまった。

「受け取ってほしい」

「……ぁりがとう……」

 何か熱いものを恐る恐る触るように、ゆっくりと手を伸ばす。プレゼントに触れてからも、なんだか落としてしまいそうで俺はなかなか手を離せない。それでも、両手が触れていれば万が一ということもないだろう。そっと、プレゼントの重みをサラに預けた。

「良かったら開けてくれ」

 感謝の言葉はもらったけれど、その後に反応がないというのはとても不安だった。

 おっかなびっくり包み紙のテープを剥がしにかかるサラ。

 テープにうまく爪がひっかからなくて難航したものの、最初の一枚をクリアしてからはスムーズだった。包装の仕方が良かったのだろう。リュブリャナの雑貨屋のお姉さんグッジョブだ。

 中にはそのままの形の黒い厚紙の箱。仕事を終えた包み紙を受け取り、開かれる瞬間を待つ。人に物を送った経験はそう頻繁にはない。なんだか慣れなくて緊張した。

 箱の中から出てきたのはこげ茶色の革でできたハードカバー。

 中には無機質な方眼紙のような目が薄っすらと書かれた、それ以外は無地のページがずっと続いている。イタリアの有名な文房具メーカーの手帳がそのまま入れられるようになっている皮革の表紙と銀色のペン。これが俺からの誕生日プレゼントだった。

 味気なかったかな……。がっかりさせてしまったかも。急に不安になってくる。

 これでも色々と考えた結果の選択ではあるのだ。

 俺たちは旅の途中で、新たに手に入れた物は全て持ち歩かなければいけない。必然的に小さな物、軽いものから選ぶことになる。わずかな差でも、積もり積もれば山になってしまうから。

 一方で、どうせなら長く使えるものをという欲もあった。けれど、間違いだったかもしれない。少し可愛げがなさすぎた。

 サラは日ごろからちょっとしたメモをよくとっている。中身はハンガリー語だったりスペイン語だったり。あまり詳しくは知らない。絵を描いていることもあるようだ。

 これまでは俺が持ってきたノートのページを切り取ったり、道中で手に入れたパンフレットの余白を使っていたのだけど、これはあんまりだとずっと思っていた。

 文房具店なんかでノートでも買おうと提案しても、彼女は倹約を心がけているのでこれで十分だととりあってくれないし。いっそプレゼントという形で贈ればいいかと思ったのだ。

 リュブリャナの雑貨屋でつくりのわりにかなり安価なこの手帳を見つけたときは、これだ、と天啓を得たつもりだったのに……。短慮だったか。

「……あまりたいしたものじゃないけど、その分気楽に使えると思うから……」

「そんなことない」

 沈黙に耐えかねて言い訳気味に出た言葉をサラはばっさりと遮った。

「嬉しい。ありがとう、大切に使う」

 なんだろう。そうしてもらえれば当然俺だって嬉しいのに、なぜか素直に伝えられない。

「本当に、プレゼントしてからこんなことを言うのはおかしいかもしれないけど、見た目ほど高いものじゃないんだ。丈夫そうだったから、旅に向いてるかなって思っただけで。でも、女の子には良くなかったかなって……」

 自分はいつの間にこんなに長く、詰まったりせずにスペイン語を話すことができるようになったのだろう。言い訳がましく続けながらも変なところが不思議だった。

「値段は関係ないよ。それに安かったわけじゃないでしょ? こんなに綺麗に包装してあって」

 ……その予想は間違ってはいない。スロベニアでは品物の全てに価格が表記されるものではないらしい。物品によって価格を交渉することはそれなりにあるみたいだ。

 この手帳についても例外ではなかったし、ハウマッチという質問に対する答えもまあまあの額だった。俺個人が観光のために使えるお金としてはちょっと重たいほどには。値札のない買い物なんてほとんどしたことはない。でも、本当に良い物に見えたのだ。諦めるのは惜しいくらい。だから今回ばかりは頑張った。展示品の日焼けを指摘し、それがエイジングなのだという店主と英語で筆談を続け、そのために借りたペンが綺麗だったのを褒めて値段を訊き、いっしょに購入するという約束で値切った。

 見送る店員のお姉さんと店主の笑顔は根負けの証なのか、うまく在庫を処分できた勝利の笑みなのか。バースデープレゼントだという俺のために何も言わず綺麗に包装してくれたのだから、客を粗雑に扱っているわけではないと信じたい。そんな裏事情を明らかにするつもりはないけれど……。今となっては贈り物を値切ったことに対する気恥しさもある。

「予算はちゃんと考えて買ったから」と、誤魔化すしかない。

 サラだってプレゼントの値段を知ろうとするような野暮はしなかったけれど、価格は気になっているみたいだった。高価な物かどうか、というよりも先のことを心配しているのだろう。

 元々一人旅を想定して貯蓄した俺の予算、封筒に入ったサラの生活費。二人分合わせても旅費としては少し心もとない。

 一般的に二人旅は一人旅の二倍より諸々の経費を抑えられるようになっている。食費なんかも同じ。そういった効率化を計算に入れてもなお、節約は必須だ。

 だからこうして大きな街についても宿泊施設を使わずに郊外でテントを張っているし、洗濯も基本的には手洗い。下着以外はお互いの服を洗うのにも慣れてしまった。

 当初の計画を外れた二人の旅はまさに未知の場所にある。大げさに言うならば未発見だった新大陸を進んでいるようなものだ。その陰には、こんな傍目に情けなく見える部分が確かにあった。今でも年下の女の子の扱いとして正しいのかどうか不安になることはある。お金の心配をさせているのはさすがにきつい。

 でも、誕生日だけはちゃんと祝いたかった。二人がどこでどんな別れ方をするとしてもこれだけは。彼女の思い出を豊かにするために、出会いの翌日から決めていたことだった。

 正しさなんてものが現時点でわかるはずはなくて、結論を下すのはもう何か月か後。全部終わってからだ。決断だけがとっくに済んでいて今は足を回すだけだと思えば得意分野と言えなくもない。

 ただし、闇雲に走っているわけじゃない。自転車でも同じ、先に求めるもとがあると信じているから走れる。そのためには余分なお金だってかかる。間違った考え方だとは思わない。今、目の前にあるものがその証拠だ。


 俺たちが出会ってから二週間そこらの日々、初めて心からの笑顔であると信じられるものが、そこにあったから。

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