第3章 羽ばたき方を教えて
第18話
案の定、サラの風邪は俺にも感染った。
大樹の陰で行動食のチョコレートをかじりながらしばらく待つと、弱まっていた雨はすぐに止み、晴れ間とまではいかないまでも、空が明るくなった。
そのころにはなんとかサラも自力で立ち上がれるようになっており、胸を撫でおろす。血糖値が上がったのが良かったのかもしれない。自転車乗りにとって食べ物の力は計り知れない。
とにかく、持ち物のほとんどはキャンプに置いてきてしまったから、まずそこに戻ることが俺たちの目標となった。
日が昇って気温も上がる。サラの体調は万全ではないなりに自転車に乗れるところまで回復して、ゆっくりと濡れたアスファルトを走る。そして、あっけないほどすぐにたどり着くキャンプ地。さすがにすぐそこ、ということはなかったけど、体感ではあっという間に森を抜けることになった。追いかけているときはあんなに走ったつもりだったのに、たったこれだけの距離かよ、という感じで狐に鼻をつままれているようだ。二人して目を見開いて驚く。
知らない道、夜、雨、一人。どこまで走る必要があるかわからない、という条件はここまで感覚を鈍らせるのか。サイクルコンピューターをもっとちゃんと見てれば気付けたことのはずなんだけど、なぜか時速表記だけを気にしていた。なんにせよ、サラの体力で戻ることができる範囲だったのは僥倖だ。寝てばかりだった一晩だったわりに、体は休まっていない。
ぐずるサラをなだめすかしてもう一日その場でキャンプして様子見をした。食材や水の在庫は不安だったけれど、運よくというかなんというか洗い物なんかに使う折り畳みバケツに雨水を貯めてある。最悪これを沸かせば飲料水くらいは確保できるということで押し切る。夕方にはサラの調子は一見普通に戻っていて、食材の残りをうまく融通した夕食を作ってくれた。
そして翌日。雨に濡れたキャンプ道具や寝具は概ね乾き、目的地に向かって出発する俺たち。天候は晴れに向かっていてそう悪くないはずのコンディションだったのだけれど……。
今一ペースが上がらない。もともと長距離を走る上でスピードを出す必要はない。それでも何十キロも乗せた自転車は普通に走るだけでもそれなりのエネルギーが必要になる。上り坂なんかがあると、そう斜度が急でなくとも気合を入れる必要があるのだけれど、このときの疲労がちょっと大きい。自転車に乗ったまま上ることはもちろん、今日は押して歩くのもしんどい。何百メートルかで休憩を挟んでしまう。そこまで急な坂ではない。その証にサラは足をつくこともなく軽めのギアですいすい走っている。
「そんなにゆっくり行かなくても、私の風邪、ちゃんと治ったよ」
とまで言われてしまった。いや、残念ながらそっちを労わっているわけじゃないんだ……。
こうなってくるとさすがにわかってくる。原因は病気だ。昨日一日だらだらと過ごしていたのだから、疲労ということはまずない。つまり、サラの風邪が感染ってしまったのだろう。
……うーん。認めたくない。というか今俺が病気にかかるとちょっとばつが悪い。しかし隠し通せるものでもないし、このあいだのことを考えれば早めに言ってしまった方がいいだろう。
覚悟の上で伝えた体調不良は、概ね予想通りの申し訳なさそうな困った顔で受け入れられることになった。
郊外にモーテルを見つけたのはラッキーだった。
自動車で来て泊まるタイプの宿泊施設。アメリカなんかだとやたらたくさんあると聞いたことがあるけれど、この国ではそうそう頻繁に見るものでもない。自転車で移動している俺たちにも都合がいいことが多く、見つけたら率先して使っていきたい。
なんとか気力を振り絞って宿泊手続きを行って通されたのは、新しくはないけれどタバコ臭くもない快適そうな部屋。最初に「できたら大きめの部屋がいい」と言ったのがちゃんと反映されている。これは今回の旅で学んだコツの一つで、必ず成功するわけじゃないけどリスクが少なくリターンが大きい小技だ。
この手のホテルはあまり良くない意味での『連れ込み』に使われることも最初から想定されているらしく、人の出入りもとやかく言われない。そのため、サラも合流しやすい。当然、年齢的な問題はあるままだけど、家族連れが利用するのも普通なので目立つほどでもない。こうしてみると混沌とした客層だなと思う。
いつも通りの迂遠なやり方で合流を果たすと力尽きてベッドへと倒れこむことになった。
今日ばかりは自分が使うわけにはいかないというサラのお言葉に甘える形だ。
正直、もう横になれればどこでも良いという気分なので少し申し訳ない。
気絶するような眠りから息苦しさで目覚めた俺を待っていたのは、湯気が立つ夕食である。当然サラが用意してくれたもの。モーテルという施設はキッチンがあることもないこともある。そして今回泊まったのは後者だったのにどういうことなのか。
「ご飯?」
「あ、起きた? ちょうどよかった。食欲ある?」
あまり良い眠りではなかったので疲労感が強いけれど、そこまで胃腸に不快感はない。言われてみれば空腹な気がした。
「……大丈夫そう」
「なら、どうぞ。食器がないから代わり映えしなくて悪いけど」
なにが悪いものか。
しばらくキャンプが続いたから、食材の備蓄は十分でない。つまり、俺が寝ている間に買い出しを済ませ、キャンプ道具を使って料理してくれたのだ。言葉がでない。
本気で泣きそうだ……。
「え! どうしたの……」
誇張でもなんでもなく、目じりに溜まった涙を拭き取る俺に、引き気味に訪ねるサラ。いい年した男がまさか料理一つで泣くとは思っても見なかったのだろう。
感謝で涙が出たと言っても取り合ってもらえない。風邪で情緒不安定なっているのだと思ったらしい。「食べたら早く休んでね」と言われてしまった。
たった今起きたばかりだからすぐ眠れるとも思えないのだけれど……。倦怠感は強いままだし、動こうという気にはなれないのでそれしかないか……。なんにせよまずはご飯だ。
席について眺めると見慣れない料理がある。シェラカップに入ったスープ?
確かに水気はあるけれど、汁というには具が多い、メインは粒上の何か。シチューとはまた違った感じなんだけど説明が難しい。
「これは何?」
外国で最も便利な言葉で教えてもらう。
「何って、カーシャだけど」
でも、名前を聞いたからと言ってわかるとも限らない。
カーシャ、ふむ。
「食欲があるかわからなかったから、温かくて食べやすいものがいいかなって」
たしかに消化に良さそうに見える。お粥みたいなものだろうか。
ハンガリーでは病気のときにこれを食べるの? と聞いてみたけれど答えはイエスともノーともいえない微妙なもの。どうも、まずハンガリー料理ではないと。でもそれなりに一般的で家によっては毎日食べるとまで言う。スロベニアでも材料が普通に売っていたところを見ると、広い範囲で認知された料理なのだろう。けれど俺は知らない。スプーンですくって味を見ても、感じるのは熱さでそれ以外はすぐにはわからない。風邪のせいで味覚が鈍くなっているのもあるかも。食感は不思議な感じ。刻んだ木の実っぽい気もする。なんだかざらざらしている。
ゆっくり食べるとだんだん味もわかってきた。チキンブイヨンと少しバター風味? 柔らかくなった玉ねぎの甘さもあって美味しいし食べやすい。
何度か口に運ぶうちに、天啓のように気が付いたことがあった。
「これってもしかして、蕎麦?」
「ソバって何?」
日本の麺だと説明する。
「日本ではヌードルにするの?」
そう、麺状でないから気が付かなかったけど、この風味はお蕎麦だと思う。蕎麦がゆ。この言い方で正しいのか。練ったり打ったりしていない、原料としての蕎麦は初めて見る。洋風の味付けにも合うものなんだな。
「麺以外では初めて食べた。美味しいよ」
「……ありがと。他にはガレットなんかもよく売ってるよ」
ガレットというのは固いクレープみたいなものらしい。様々な具材を乗せて食べるのだそうだ。うーん、考えたこともなかった食べ方だ。
蕎麦というとどうしても麺の印象があるけど、基本的には小麦みたいな穀物なんだよな。ということはうどんやスパゲティ以外にパンやお好み焼きみたいな食べ方があるのはおかしくないのかな。ヨーロッパでも地域によってはかなり親しまれている食材らしいので、蕎麦は日本の食べ物という固定概念が崩れていく。
「――じゃあ、今度は日本の食べ方を教えてね」
たしかに。教えてもらったからにはこちらもお返しをしたい。どこかで麺の蕎麦は手に入るだろうか。あっても乾麺な気がするな。どうせなら打ち立てを御馳走したいけど……。もしかして俺は、海外で初めて蕎麦打ちに挑戦することになったりするのだろうか。
「……タイチはさ、旅の期限は大丈夫なの?」
ベッドの下から問いかけられる。俺の位置からだと視線は合わない。髪を下ろした頭頂部だけがストレッチにあわせてひょこひょこ動いているのが見えるだけだ。
今日も自転車に乗ったので日課のマッサージをしている。ただ、動くと気持ち悪くなってしまったので俺は休憩中。サラだけがいつも通りにやっているけれど、もう俺から言うこともない。すっかり手順は覚えていた。
「ん?」
天井を眺めながら淡い不快感と戦っていた俺は、突然の質問に即答できない。
「……こっちにいられる時間、決まってるんでしょ?」
以前、話題にしたことがある。異邦人のルール。
「まぁ、そうだけど……。なんで?」
「ここのところあまり走れてないから。それって大丈夫なのかなって……」
ああ、そういうことか。一昨日の家出事件のときもそんな話をしていた。どうやらサラは自分の病気なんかで足止めになったんじゃないかと心配をしているらしい。
「元々、天気が悪かったら動けないのは計画のうちだからね」
一昨日は無理しすぎた。
「でもさ、昨日とか晴れてたし、……明日も休みにするんでしょ」
言いにくそうに続ける。この宿は二日分でとっているから自動的にそうなる。
「休みだって必要だよ。せっかくだから観光してきたら。この辺りは治安もいいらしいし」
郊外なので近くに遊ぶ場所はないかもしれないけれど、俺たちには自転車がある。ちょっと走ればツェリエという市街地に出るはずだからそれなりに時間がつぶせるはずだ。
「そうじゃなくて……」
「言ったろ。旅は目的地に向かって移動するだけじゃないんだよ」
そこで適切な言葉が見つからずに言いよどむ。道草とか回り道ってなんて説明したらいいのだろうか。
「……?」
ちょっと視点を変えてみよう。
「自転車に乗ってると基本、前ばっかり見てるだろ。たまにはお互いの顔を見る日があったっていいじゃないか」
ベッドの縁に、頭がひょこりと動くのが見える。少し時間を置いてから、「……だったら早く元気になってよ」と返事があった。
「努力するよ」
とは言っても正直今もあまり調子はよくない。ただ、天井を見ていたら、また少し眠れそうな気はしてきた。
「日にちもさ、リュブリャナに一週間くらいいるつもりだったのがなくなったから、大丈夫だよ。十分余裕がある」
「え、なんで、そんなの聞いてないよ!?」
あれ、そうだったっけ?
「元々、そんなに簡単にサラが大使館に保護してもらえるかわからなかっただろ。うまく説明できても、また、嫌な気分になるようなことが起きるかもしれない。だったら逃げたらいい、って言おうと思ってた。長めに滞在していざというときは合流しようかなって……」
ここまで悪いやつらが追ってくるということはないかもしれないけれど、詰問を受けるようなことがあれば、サラは苦しい日々を思い出してしまうかもしれない。そんなときに助けられる手立てを残しておこうと思っていたのだ。もう関係ないけど。
クロアチアへの回り道を止めたのは、この猶予期間を確保するためでもある。
「でも、そういうのは必要なくなったからな。自転車の整備をして、ちょっと観光するだけなら、もう少し短くてもいいだろ」
長く喋って疲れてきた。なんだか頭も働かないし、このまま眠ってしまいそう。
「……私に、行き場がなかったら結局二人で旅をしてたってこと?」
「うん……」
曖昧な頭で相槌をうつ。間違ったことは言ってないはず。
「……そうなんだ」
独り言のような返事の後は会話が止まってしまい、この日の俺の記憶はここで途切れることになった。
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