第17話

「サラ!」

 自転車を見つけた場所。脇に立った大樹のうろ。そこにサラはいた。

 返事はない。

 ……気を失っている? あんなに何度も呼びかけたのに、気付きもしなかったんだろうか。

 ちゃんと見つかった安心よりも不安が勝る。足を滑らせそうになりながら必死で近づき肩に手をかけて頬に触れる。はずみでライトを落としてしまったけれど、それより今はサラだ。

 ――冷たい。

 ぞっとした。人の体の温度とは思えない。震える手でライトを拾い直し、眩しくないように気を付けながら表情を照らす。紅のない、白というよりは色の抜け落ちてしまったような頬。いつもあんなに赤々としていた唇が青ざめている。脳裏を最悪の予想がよぎったけれど、息があることに気が付いてほんの少しだけ冷静になった。

 慎重に頬を叩いて名前を呼んでも、やはり目を覚ます様子がない。まるでガラスで作った像のよう。下手に動かせば割れて壊れてしまうのではないかと錯覚する。

 すぐに起こすのは諦めて体調の確認を優先することにした。

 呼吸はあった。大きな出血を伴う怪我も見当たらない。でも、そっと触った手は頬以上に冷たく、慎重に脈を探ると辛うじて拍動があることはわかるけれど、これで大丈夫という自信もない。とにかく温めることだ。そう思った。

 何時間か前まで熱で汗ばんでいたのに、ここまで冷えているというのは絶対によくない。でも、どうやって……。雨の中で焚火を起こすのは簡単なことじゃない。サラのバッグに毛布があるかもしれないけれど、この雨だとすぐに濡れて逆効果だろう。とれる手立てがなく焦りだけがつのる。こうしている間にもいつサラの体調が変化するかわからないのに……。

 キャンプを出るときは急いでいたのでほとんど荷物を持ってきていない。最低限必要な物をザックに詰め込んだだけだ。水のボトルと行動食。お金の入った封筒にパンク修理キットとタオル、ピンチ缶……。慌ててスマホまで忘れている……。

 悔やんでも仕方がない。今あるものでなんとかしないと。

 ピンチ缶はいわゆる緊急時に必要な小物をまとめた容器だ。解熱剤を始め、ちょっとした薬も入れてある。今問題なのは高熱でも怪我でもないからすぐに使えそうなものは……。いや、待てよ?

 もどかしい思いで蓋を開け、中身をぽろぽろとこぼしながら確かめると……、あった。

 手のひらほどの大きさの銀色の長方形。金属光沢のある薄いフィルムを畳んだもの。広げればちょっとした布団くらいの大きさになる防水幕。エマージェンシーシート。

 タオルでサラの顔と手を拭くと、レインコートの上からぐるっとシートで巻くように包み込む。詳しいことはわからないけど、こうするだけで銀色の部分が体温を反射して温めてくれるらしい。防水だから雨からも守ってくれるし、現状には向いているはず。

 ただ、このシートはとても薄い。雨や風は防げても断熱効果はほとんどないので冷気を遮断する力はない。水の冷たさはそのまま感じるということだ。だからこうする。

 気を失ったままで銀色のミノムシみたいになったサラを後ろから抱きしめ、木のうろにはまるように座り込む。

 ごめんな……。愛想をつかして逃げ出した先でまたこんな風にくっついて。でも、これくらいしか思いつかないんだ。後でいくらでも罵倒してくれていい。なんなら無視されたって我慢する。だから頼む、元気になってくれ。お願いだから……。


 できうる限りの処置をしても、急に何かが変わったりはしない。

 ただ、最初に触れたときほどの冷たさではなくなった。この温度が彼女自身から発せられているものだと信じたい。

 慎重に細い呼吸音を聞き続ける。弱々しいそれが、最後の一回になってしまうのではないかと恐ろしい。安堵と不安が延々と繰り返される。

 ふと、サラの右手が動いた。何かを求めるように前へ。

 目を覚ましたのかと、身をよじって横顔を確認したけれど、それ以上の動きはない。彼女はときどきこういうことがある。夜寝ている間も、後悔や恐怖と戦いながら助けを求めている。いつも俺は何もできない。

 それでも、少しでも気がまぎれればと、その手を握ろうとして躊躇する。俺は愛想をつかされたんだ。そんなことをされたくないから一人で走り出したんじゃないか。

 ……だとしても、今この手をとることができるのは俺しかいない。

 手の甲に重ねるように右手を合わせ、外側から握る。少しでも熱が伝わるように。

 握った手が、震える。気のせいかもしれないし、ただ冷えて寒かったのかもしれない。それでも、ほんの少しだけ彼女の体の強張りがとれたのは事実で……、俺自身も少し安心することになった。


 無限の時間が流れた気がした。サラの呼吸はずっと続いている。短く細かったそれがいつの間にか長く穏やかに変わった……と思う。でも、気のせいかもしれない。いつ変わったのかもわからないほどずっと聞いていたから。

 電力を節約するためにライトは消していてあたりは真っ暗。日が昇る様子もまだない。霧のように降る雨は静かで、無風。聞き逃さないように気を付けている吐息と握った手だけが五感の全て。

 あるとき、右手に力がこもった。

「……サラ?」

 とっさに呼びかけようとして、掠れて声が出なくて、それでもなんとか話しかける。

「……タ、イチ」

 思いがけず返事があって驚く。

「目、覚めたか? 気持ち悪くないか? どこか痛いとか……」

「え、えと……、どこ、にいるの?」

 思わず畳みかけるように訊いてしまったけれど、そういえばあたりは真っ暗だ。目が慣れているはずの俺でも影しか見えない。目を覚ましたばかりならなおさらだろう。

「ごめん、ちょっと待って」

 自転車から取り外したライトをレインウェアのポケットから左手で取り出すと親指でボタンを押す。

 照らし出される道路と木。雨はまだ降り続いている。

「あ、あれ? あ、ごめ、ええと、だめ!」

 思いがけない否定。

「どうしたの?」

 何か見落としていただろうか。

「くっついたら……」

 ……ああ、そうか、そうだった。本当に見落としていた。彼女が一人で出て行ってしまった理由……。

「ごめん……」

「ごめんなさい」

「「?」」

 二人の謝罪が重なる。どういうことだろう。彼女に謝られる理由に心当たりがない。もぞもぞと動いていたサラも、なぜそうなったのかわからず、空白の時間が流れた。

「……ぁ」

 バランスを崩して倒れそうになるのを咄嗟に支える。そういえば、彼女はフィルムでみのむし状態なのだ。動こうとすればこうなってしまうのは必然だった。

「ちょっと待って。今動けるようにするから」

 たったあれだけの時間で体調が良くなったとは思えない。でも、自由に動けないままだと不安だろう。少し前を開くくらいなら……。

「どう?」

「……大丈夫。これ、何?」

 がさがさとフィルムを剥がしながらの質問に、彼女がどういう状態だったかを説明した。

「――また、私、迷惑をかけたんだ……、ごめん、ごめんなさい」

 どうしたんだろう。

「確かに心配したけど、なんで謝るの?」

 また、という言い方が気になる。本当はもっと、こう、嫌われた反応をされるんじゃないかって、そう思っていたから。

「あ、そうだ、離れないと、風邪、感染うつしちゃう……」

 ……風邪?

「私、体調崩しちゃって、なのに全然気付かずにいっしょにいて、それで、もしタイチに感染しちゃったらまた無駄遣いさせちゃうから……、時間も、お金も……」

 まさか、

「……そんなことで、夜中に出て行ったの?」

「そんなことじゃない!」

 否定の言葉よりも、その勢いに驚く。急に大きな声を出すからサラはむせてしまってしばらく会話にならないほどだった。

「……体調、まだ悪いんだろ。お願いだから無理しないでくれ。水、飲めるか?」

 問い質したい気持ちもなくはない。けれど、今はサラの病気の方を優先する。ほんのさっきまで、もしかしたら死んでしまうんじゃないかと思っていたわけで、意識を取り戻したからといって気は抜けない。

 ……仮に家出の理由を聞いたところで、俺の考えていた通り「いっしょにいるのはしんどい」みたいなことを言われても辛いだけだし。

 ザックからボトルを出そうとしたら、自分のぶんがあるというので、ライトを使ってそちらを探り出す。毛布もだけど、どうやら最低限の荷物は持っているらしい。

 それでも、こんな軽装で出て行こうとしていたのか……。せめてテントで見つけたお金だけでも、後でバッグの中に入れておこう。

 荷物を確認している間もサラは立ち上がろうとしてへたり込んでいる。どう考えてもまだ一人で走らせて良い状態ではない。加えてくしゅんと小さなくしゃみ。

「ほら、まだ寒いでしょ。雨だって降ってるんだから」

 腰を上げてずり落ちそうなエマージェンシーシートを肩からかけ直す。

 サラはマントの様にシートを首元でまとめながらしゃがんだまま。

「でも、だめ。感染っちゃうから」

 さっきと同じことを繰り返す。

「そのときはそのときだ」

 少し強引にサラを脇から抱えて木のうろに。とにかくもうあんな風に無茶をして欲しくない。

 しばらくの間もぞもぞしていたけれど、体力的に無駄だと気が付いたのか次第に落ち着いていく。

「……タイチ、ずっと言ってたじゃん。怪我とか風邪とかだめだって」

 その通りだ。大いに旅に支障がある。治療環境もなく、この距離感で生活していれば感染も早いわけで。でも、

「もう遅いだろ」

 なってしまったものは仕方がない。

「…………」

 意地悪な言い方になってしまっただろうか。

「……だから」

 少し時間を置いてからサラが何かを言った。

「ん?」

「だから、別々に進もうとしたの」

 想定もしていなかった返事だった。

「国境を越えて契約は終わった。タイチがこれ以上私に付き合う必要なんてこれっぽっちもない。だから」

 さっきからずっと、「だから」を繰り返している。

 俺に説明しているというよりは、誰かに言い訳をしている、むしろ自分に言い聞かせているような喋り方だと思った。

「……あるよ」

 本当は最後まで相手の話を聞いてから答えるべきだけど、今回ばかりはちゃんと否定しないといけない。

「ほっとけないから」

「……私は大丈夫」

「ごめん。嘘をついた。本当は俺がサラといっしょに旅をしたいから」

 言ってしまった。いよいよ退けない言葉だと思う。

「……優しいのは辛いよ」

 本音。何の証拠もないけれど直感的にそう判断する。

 これまでの会話で、追いつくまでに考えていたことと、サラの気持ちが異なるのだろうとは思った。けれど、だからといって彼女の説明は要領を得ない。何かもっと根っこにこうなってしまった理由があるのだろうと。その一端が顔を出した。

「私も楽しかった。なくしたと思ったものがちゃんとまだあるんだって。でもそのぶんわかっちゃう……。旅は終わる。もう、ほとんど終わった。この後はまた一人。お父さんと会えるかどうかなんてわからない。またどこかに閉じ込められて、もしかしたらあの真っ暗な場所に帰らないといけないかもしれない」

 掠れたままの声。辛そうで、もういいんだよと言いたくて、でも止めることができない。

「わ、たし、も、海を見たい。いっしょに、お母さん、の自転車で、走ってほん、ものの、うみ、を目指したい。それから、ちゃん、と、自分で、約、束の場所を、探したい」

 吐露される気持ちには涙が混じり、鼻が混じる。子どもっぽさが溢れていて、でもそれでいいのだと思う。これまでに何度も見た彼女の涙は、もっとずっと大人しかった。ガラスでできた心が割れてしまわないように、無理に押し出しているように感じられた。

 でも違う。本当のサラはそんな何もかもを背負わなければいけないような立場じゃない。ただの女の子。やりたいことや、やりたくないことがあって、自分でもそれがよくわからなくて、ときには癇癪のように感情が飛び出てしまう。そんなあり方が許される子ども。そのはずなのだ。

「なら、行こう」

 孤独が怖いというのなら。

「え?」

「どこまでだって付き合う。アドリア海を見よう。バラトンとどれくらい違うか、二人で確かめよう。そのあとはイタリアの北を走って、もしかしたらアルプスだって見れるかもしれない。それから、約束通り目指すんだ、空と海の違う青、二人で。ちゃんとお父さんにも会う。大使館とかじゃなくて、探して見つけてじかに会うんだ」

 俺がいっしょにいる。

「でき、るの?」

 昨日までなら、できないって答えただろう。

「本当はこの旅自体に自信がなかった。誰かを連れているとか、そんなの関係なくて、俺一人で自転車にのってヨーロッパ横断だなんて、できるかわかんないに決まってるだろ。でも――」

 人は、全然関係ないところで物事を理解することがある。例えば、雨降る夜の森の中で、自分がどれだけ馬鹿なやつだったか、とか。

「――今ならわかる。できる。サラと二人でなら」

 旅の始まり。あの日と同じ、けれどまったく異なる意味を持つ言葉。

 出会ったばかりのころは気付いてなかった。叔父さんの教えがあったとしても、やっぱりどこかで無意識に諦めてた、言語の壁があるからって。でも――。

「何度でも言う。俺がそうしたい。君がいないとダメなんだ。だからお願いだ」

 人は自分の気持ちに素直になれば、こんなにも簡単に、

「いっしょに来て欲しい」

 想いを伝えることができるんだ。


「……でも、私、また迷惑をかける」

「この間、レチョーって作ってくれただろ」

 ちょっとピリ辛の野菜や肉を煮込んだハンガリー料理。すごく美味かった。

「え? う、うん」

 急に方向の変わった会話にサラが困惑気味に答える。

「あれを作るの、すごく面倒だろ。時間がかかる」

 煮込みなので火力の調整も必要だ。ガスを節約するために焚火で作ったから大変だった。

「……本当はもっと簡単な料理なんだよ。でも、まぁ」

「あんなに手間をかけさせて、……迷惑、だったか?」

「いつもと勝手が違うから不安だったけど、それなりの味になったし元々料理は好きだから」

 俺の返しに気付かず素で答える。『勝手が違う』か、なるほど。

「うん、それ。俺もだよ。ヨーロッパを走るのは初めてで勝手が違う。でも自転車は好きで旅も好きなんだってわかった。俺にとって旅はサラといっしょにやるものなんだ」

「あ……」

 ここで最初にした質問を思い出したようだった。

「迷惑だなんて思わない。ただスペインに行きたいだけなら最初から飛行機で行ってる。俺は『自分の足で』、『君と』目指す。それがやりたいことなんだ」

「……私も、私も行く、いっしょに……旅を、する」


 木々の隙間、遠く森の向こうがきらりと光る。

 本当に少しだけ。おそらく東の方。これは太陽の光だ。

 まだ空は分厚い雨雲に覆われていて、でも奇跡的にそちらの方向には雲間があった。そこから零れる昇り始めた朝の陽光。ほんのちょっと。

 でもこれまで闇の中にいた俺たちには十分な強さ。

 雲と木々の隙間を縫って抜けてきたそれが、シートを被ったサラをキラキラと光らせている。

 一世一代のお願いに、肯定の言葉で答えた彼女は気付いていない。自分が飾り箱の中の宝石のように輝いていることに。

 俺は霧雨に煙る幻みたいなそれが、目の前から掻き消えてしまわないように、そっと両手に力を込めた。

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