第16話

 走り続けた。


 最初は目的があった。お母さんの無事を確認したかった。

 ……じきに目的は失われ、それでも私は走らなければいけなくなった。逃げるために、真実を知るために。

 走り続けるうちに次第にあたりが暗くなる。あると思った真実は掻き消え、辛うじて目の前の薄闇に道があるから走る。それだけだった。

 いつしか、道も足元の地面さえもわからなくなっていた。当然どこにいるのかなんてとうに見失っている。それでも走った。そうしなければ、自分がどこかにいることすら分からなくなってしまう。けれど、限界は目の前だということはわかっていた。

 本当は深い、底も見えないような穴の中を落ち続けているのかもしれない。足元のそう遠くない場所には固い地面があって、あと少しでべちゃりとつぶれる運命。

 自らの人生の終わりがそう見え始めていたとき、ただ一つの変化があった。

 差し伸べられる手。

 少し大きく、固い左手がこちらに向けられている。必死で掴んだ。信用できるかどうかなんて考える心の余裕はない。そもそも、当たりが暗くなってから、私が縋れるものなんて一度も出会うことはなかったのだ。これにつかまらなければ、穴の底。どちらがいいかというだけの話。力の限り握った……、つもりだった左手に力は入らずそっと手を重ねるだけ。けれど相手は力強く握り返してくる。

 熱を感じる。焼けるほど熱いその手は私の心に生きるということを思い出させる。

 やがて熱は体中に広がり、協調するように視界に光を取り戻す。

「これからどうするの?」

 左手の主が問う。そんなことはわからない。ただ逃げるだけの力はもう残っていない。でも、その質問には続きがあった。

「俺に何かできることはある?」

 やっぱり答えはわからなかった。ただ助けて欲しかった。この手を離さないで欲しかった。だから続けた。「確かめて欲しいことがある」と。


 私は荒涼とした野にいる。

 真っ暗な穴の中ではない。それでも茫洋と立っていることができるほど優しい場所でもない。

 ただ、一人ではなくなった。

 寄り添うほど近くではなく、けれど温かさがわかる距離にタイチがいる。

「西へ行く」と彼は言った。お父さんのいる国もそちらにある。

 ここにひとりぼっちは嫌だった。だから訊いた。「私にもできるかな」と。行先を見失わず、お父さんのところへ。私に、お母さんのことを伝える力があるだろうか。

 少しの問答の末「俺が連れていく」と彼は答えた。

 予想外のことだった。毎日、自分が想像しないことが続く。でも、良い方向に外れたのは初めてかもしれない。彼といっしょにいるのが『良いこと』になっていたのだと、私は気が付いた。

 誕生日プレゼントの自転車は私とお母さんの願いを繋いだ。なら、今度は私がお父さんの所まで届ける。タイチが力を貸してくれる。


 二人で荒野を駆けた。楽ではなかったけど、不思議と辛くはなかった。一人のときはあんなに苦しかったことが、楽しいとすら思う。前へ進んでいるとわかるから。お母さんの自転車があって、タイチがいてくれるから。

 最初は私と同じくらいの歳だと思った彼は思ったよりも年上だった。けれどものぐさで子どもみたいな人。当たり前のことができない。でも、誰にもできないことができる。

 海を目指すのだと言っていた。すごく昔に家族で見た場所。私も行ってみたいと、そう思った。

 願いは叶わない。もしかしたらこの後に起こる全てが幸運に恵まれていて、お父さんとちゃんと会うことができるかもしれない。お母さんのことも……、少なくとも悪いやつらの思い通りにせずに済む。そんな未来があるかもしれない。その先にも日々は続いていて、いつか、あの海へ行くこともできるのかもしれない。

 けれどそこにタイチはいない。彼の旅は今、このとき。未来の話ではないから。そのかわり、『青い空と海の場所』を探してくれる。この先を走ることのできない私の代わりに。感謝しなければいけない。


 本当に荒野の先に国境があった。

 私は自分の意志で前へと進む。看板と車止めがなければ、そこが目的地だと気付くことすらできなかっただろう。そんな場所。

 一人では無理だった。タイチがいてくれたから来ることができた。

 あと少しで契約は終わる。なら、私と彼との間に残るのは何だろう。『青い空と海の場所』を探す。新しい約束がある。

 彼の旅は続き、海へと向かう。私はどこかで違う道を歩む。そう決めてあったはず。心だけでも、願いだけでも、先に西へと連れて行って欲しい。そのための、約束。


 タイチの旅は三カ月で終わるとそう聞いていた。法律で決まっていて、ヨーロッパの外から来た彼は絶対に守らなければいけない。

 私たちが出会って何日たった? 一週間より長い時間なのは確か。なら彼の猶予はもう一割ほど終わってしまったことになる。もしかしたらもっと残りは短いかもしれない。何千キロも走る旅の中でどれだけ進んだだろうか。本当に必要なだけ走ることが出来ているだろうか。

 いつもタイチは元気だ。私は毎日くたくたになるまで走っていて、最初のころはお尻まで痛かったのに。全然平気そう。本当はもっと長い距離を走れるのは間違いない。

 私は彼の重しになっているのかもしれないと唐突に思った。

 この旅が彼にとって、とても大切なものだということには気が付いていた。強い意志がなければ成し遂げられないことだとも。私に理由があるように、彼にも理由があって旅をしている。

 なのに私だけが頼り切りで、いつも彼の足を引っ張っている。

 タイチは言う、『鳥の羽ばたきみたいに漕ぐんだよ』と。変な例えだとずっと思っていた。スペイン語が苦手なのだなと。

 けれど……、もしかしたらそれは純然たる事実だったのかもしれない。彼には空を飛ぶ力があって毎日羽ばたいている。あるとき、気まぐれで穴に落ちそうな私を拾った。そうしたら私が必死にその足にしがみついてしまったのだ。だから本来の力を出せずに、飛び立てない。文字通りの足かせ。

 ……それは嫌だ。

 あれが嫌、これが嫌。私はいつもわがままばかり。大切な人を誰も助けられない。……それが一番嫌。

 せめて少しでも長く走ろうと思った。でも考えてしまう。頑張れば頑張るほど別れのときが早くなる。考えを振り切ろうと必死に足を動かすのに、全然前に進まない。

 羽ばたくどころか走ることさえちゃんとできない。

 今日も結局目指した半分ほどしか走れていない。なのにどこかでほっとしている。……まだもう少しタイチといっしょにいられるのだと。


 ぴちゃりと額に冷たい感覚。

「う、んん……」

 寒い、いや、暑い? 自分のことが良くわからない。

 喉が乾いているのだけは確かで、どこかに飲み物がないかと身を起こす。半身が天幕に触れてやっと自分がテントの中にいるのだと気が付いた。頬を叩いたのはどうやら結露した水滴らしい。外は雨が降っていて肌にあたる天幕は冷たい。となりには……、ちゃんとタイチの気配がある。

 私はどうしてここで寝ているのだろう。今日は確か雨の中を走って、急にキャンプする場所を決めた。それから……。思い出そうとするとずきりと頭が痛む。

 さっきからずっと体が熱い。けれど背筋だけがずっと不自然に寒いのは……。

 ……体調を崩してしまったのか。あれほど毎日、怪我と病気に気を付けなければいけないと話をしていたのに、こんなにあっけなく。

 ……また、迷惑をかける。また、タイチの時間を奪う。なのに、あさましい私はそれが少しだけ嬉しいと感じてしまう。

 自己嫌悪と病気の不快感で口元を抑え、気が付いた。私が風邪を引いているのなら、近くにいると感染うつしてしまうのではないだろうか。

 暗闇に慣れた目でとなりを見れば、タイチは寝袋を使わずただ横になって寝息を立てている。彼の寝袋は……、今は私の膝の上。せめて借りたものを返そうと考え、思いとどまる。それこそ病気を感染してはいけない。他に何かないかと枕元を探ると水のボトルとプラスチックケースに入った錠剤。たしかタイチの常備薬、熱冷ましなのだと聞いた。

 ……私は無力だ。ここまで手をかけてもらい、寝床を奪い、最も大切な旅の時間まで浪費させている。もしもこのまま明日の朝が来てしまえばどうなる? タイチはもう一日休んだ方がいいと言うのではないだろうか。あるいは自分だけが街へ向かい、助けを呼んでくると言うかもしれない。どちらでも、また一日無駄にする。場合によってはそのあとに彼が体調を崩すこともありえる。

 でも、言うのだろう。「大丈夫だ」と。短い付き合いでも不思議とわかってしまった。

 だめだ。これ以上頼ってはいけない。私が縋りつく限り、タイチが羽ばたくことはできない。

 覚悟を決めると少し全身に力が入った気がした。

 今のうちに用意をしよう。テントの中の私物はタオルと着替え、毛布だけ。あとはここにある薬と水を持っていこう。代わりにお金を置いていく。

 タイチ、ありがとう。ちゃんとお礼を伝えられなくてごめんなさい。

 ……青い空と海の場所、楽しみにしてる。


 カバンの入ったポリ袋に毛布を詰め込み自転車に乗る。ライトをつけて走り出した。

 後ろを見ても誰の気配もない。タイチは眠ったまま。

 あれだけ気を付けてテントを出たのだから予定通りのはずなのに寂しいと感じる身勝手な心を無視して、ただ前を向く。買ってもらったレインコート越しに感じる雨は冷たくて、ちょうどよく体から熱を奪ってくれている。さっき薬を飲んだから、それが効き始めたのかもしれない。これなら大丈夫、走ることができる。

 今日は昼間に移動した距離が短いから余力があるはず。明るくなってからも走り続ければ予定していた次の街へ到着することができるだろう。そうしたら、ハンガリー語が話せる人を探して助けてもらう。

 あ、ハンガリー語はやめた方がいいかな。まだまだ国境を越えたばかりだから、あっちから迎えが来てしまったらだめだ。そうなると、スペイン語で事情を説明しないといけない。困ったな。うまくできるだろうか……。タイチにはどうやって説明したんだっけ?

――考え事をしながらもうずいぶんと走った気がする。

 予定通りならそろそろ森を抜けてもおかしくないのだけれど、暗くてよくわからない。朝が来てからとるべき行動はぜんぜんまとまらず、思考はどんどん取り留めのない方向へ向かって迷走しているのを感じる。心なしか手足がだるくなってきたような。

 一度休憩した方がいいかもしれない。体調、崩してたんだもん。今はあまり気にならないけど。タイチも言っていた。疲れる前に休むのがコツだって。

 水でも飲もうとブレーキをかけて足をつく……、つもりだった。ずぶり、と、まるで泥沼にハマったみたいに沈んでいく。視界がどんどんせり上がっていってあせる。

 あれ? あれ? たった今まで道路を走っていたはずなのに、なんでこんなことに?

 やっと視線が下げ止まった時には、腰くらいの高さになっていた。手で触れる濡れた地面は確かにアスファルトの道路で沼ではない。ならなんで、と体中を触って自分が座り込んでしまっているのに気が付く。膝の力が抜けてしまった……? 変なの……。

 とにかく自分がおぼれたのでないならいい。どうやら疲れているみたいだし、ちょっと休憩をしようという考えは間違ってないのだろう。

 ちゃんと気を付ければ立ち上がることはできた。大丈夫。いっしょに横倒しになった自転車もなんとかしようとしたけれど、こっちは難しくて無理だった。手が濡れて滑ってしまう。仕方がないからフックを外して固定してあったカバンだけ持って歩く。近くに立った大きな木へ。ここなら雨も防げるだろう。

 幹に背を預けると腰を降ろす。小脇に置いたカバンにもたれかかるといい感じ。少し。少しだけ休もう。休んで、また自転車に乗って走り出す。最後の旅路へ。

 ボトルの水を飲んで一服、そうすれば言葉が通じなくてもうまく人に説明する名案が浮かぶ。大丈夫。ずっとあの人のやり方を見てきたんだから……。


 ……誰かが自分を呼んでいる。おかしいな、私の名前を知っている人なんてここには誰もいないはずなのに。……そう思うと急に寂しさが降りかかってくる。そうだ孤独というのはとても怖いものだったのだ。なんで忘れていたのだろう。

 恐ろしくて必死に手を伸ばす。私を呼ぶ誰かの方へ。だけど体は痺れたように動かない。待って、私はここにいる。行かないで、独りにしないで……。

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