第15話

とても苦しい。そして悲しい。どんなにサラの気持ちを具体的に想像できてしまったとしても、俺の感情は収まらない。胃と心臓がいっしょに口から零れ落ちてしまいそうな緊張を、必死で抑えて今もなお闇夜に自転車を走らせる。

 追いかけてくることなんて期待していないとしてもほっとけない。振り切ったはずなのに気持ち悪いと、そう思われるかもしれない。契約分のお金は置いて来たはずだろうと。

 信じてもらえないかもしれないけれど、こんな目に合わせて本当に申し訳ないとそう思っているんだ。だから、せめてちゃんと謝らせてくれ。そんな体調で雨の中を走り出したりしないでくれ。万全の看病なんてできなくても、テントを貸し切りにするくらいはする。一刻も早く他の誰かを頼りたいっていうのなら、俺が代わりに走る。警察でも近くに住む誰かでもちゃんと呼んで来る。だから信じて欲しい。

 本音を言えば、もっといっしょに旅を続けたかった。君との旅は楽しかった。気ままな一人旅がどんなものかわからなくたって、それくらいのことはわかる。でも……。

 手を差し伸べるふりをして、ただ勝手に楽しんでいた俺が煩わしいのなら言ってくれ。俺だって自分勝手を押し付けたいだけじゃない。もっと大切なことがちゃんとあるんだ。


 ――ただ君に、これ以上一人で苦しんで欲しくなかった。それだけなんだ。


 情けない本音で車輪を回す。ぐるぐるぐるぐる。何年も鍛え続けた自慢の脚で一切の手加減なく。なのにライトが移すアスファルトに変化はなく、ずっと同じ路面を映しているような気がする。まるでローラー台に乗っているみたいだ。

 進めば進むほど疑問は大きくなる。方向は合っているのかどうか。キャンプ地から続く道は一本だけで、人の住む場所に近いのは進行方向側。サラもそれを知っているからあまり深く考えずに走り出してしまったけれど、こちらで正しかったのだろうか。

 少し前まで熱を出してうなされていたのに、どちらに向かうのが合理的かなんて考えるものだろうか。逆方向が正解なのだとしたら、今このときも俺の自転車の速さ以上のスピードで距離が離れているということになる。

 一刻も早く追いつこうという気持ちが、全て足かせのように重たい物へと変わっていく。

 だいたい追いついてどうする? いっしょにいるときだってろくな看病もできなかったのに。逃げ出した当人にとってはしつこいストーカーと同じ。いやそのものじゃないか。

 ……それでもいい。話をするだけだ。一目会って、意外と元気そうなら見送ったっていい。契約の報酬だったあの封筒も返せる。

 もし逆方向だったとしても、誰かのいる場所に到着するのは俺が先の可能性が高いから、人を呼んで探してもらおう。言葉がわからなくてもなんとかする。俺自身は少女を連れまわした犯罪者として逮捕されてしまうかもしれないけど……。それも仕方がない。

 慌てていたから雨具は上着だけ。ひざ下が雨に濡れて冷たい。でも考えが至らない俺に対する罰だとするならぬるすぎる。

 この先の行動が決まってほんの少しだけペダルが軽くなった。自転車に取り付けたサイクルコンピューターは時速三十二キロを示している。このペースで進めば、朝になる前に次の街へたどりつける。あとのことはそれから考えよう。

 気持ちを切り替えたところで、ライトに浮かぶ道路が大きく右へと曲がり始める。ちゃんと前へ進んでいた証。味気ないデジタル表記が急に現実に切り替わった気がした。

 霧雨の白に溶けるように見える大きな黒い木の影。迂回する道を曲がるためにハンドルを切った先に、俺は見た。

 横倒しに倒れる一台の自転車を。

 急ブレーキ。雨水を吸って効きが悪い。それでも出発前に新品に取り替えたカンチレバーのブレーキシューはしっかりと仕事をしてくれた。倒れた自転車の目前で運動エネルギーを熱と音に変換して止まる。

 俺は倒れた自転車に並べるように車体を横たえると、ライトを取り外して周囲を確かめる。

 ……交通事故ではない。車両にぶつかった様子は見られない。地面に擦れた跡も外れたパーツも、……血の跡もない。

 心臓の音がうるさい。これだけ確かめるのにも勇気を振り絞った。……それでもまだ、最悪の結果は見つかっていないからいい。もしも、このちっぽけな視界のすぐとなりに、絶対に見たくないものがあったら……。まとわりつく恐怖を払うようにライトの光を振り回す。

 わかったことは二つ。ここに倒れている自転車は確かにサラの物だということ。そして持ち主がそこにはいないということ。

「サラ!」

 やっと本人に呼びかけるべきだということを思い出したけれど、期待した返事はない。どこへ行ってしまったんだ……。

 考えられるのは誘拐。逃亡中の彼女の立場を考えれば、絶対にないとはいいきれない。その場合、車を使用しているはず。俺のテントの近くを通った可能性もあるのに、気が付くことができなかったなら、悔やんでも悔やみきれない。

 でも、それならなんで自転車を置いていったのだろう。わざわざ持って行かないにしても、道路の目立つところに放置してあったらわざわざ証拠を残したことになる。そこら中にある藪の中にでも移動しておけば、俺は気付かずに先に進んでいた。

 サラはテントのとなりの岩陰に置いてあった自分のカバンと毛布を持ちだしている。なのに、近くにそれらしいものは落ちていない。

 つまり彼女は自分の意志で自転車を降りて、荷物を持ってこの場を離れたんじゃないか? そして大切な自転車を捨てたというのも考えにくいから、まだすぐ近くにいるんじゃないか。

 穴だらけの推測。俺がそうあって欲しいという願い。でも少なくとも一度はここへやって来たというのなら、ちゃんとサラに近づいている。

「サラ!」

 もう一度呼びかけながら、道路の両脇にある藪や木陰を探す。

 ――再会のときは、あっけないほどすぐにやってきた。

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