第14話

 ハンガリーやオーストリアと立地の近いスロベニアもまた温泉で有名な国だ。毎日とまでいかなくても、旅の途中にしてはお風呂に困らないのはとても助かる。

 道は狭い場所も多いけれど、そのぶん交通量もそこまでではなくて走りやすい。外食する場所はかなり少な目。でも物価が安いので食費がかからない。落ち着いた雰囲気で、高低差の少ない草原を渡る道は気持ち良く、総じて走りやすい環境と言えた。


 ――ただし、どんな旅に向いた道であっても、たった一つの要素で難易度や快適さは激変する。それは天候である。

 そもそも、ここまで一週間ほどの間、少しの通り雨を除いてずっと良い天気だったのが幸運だったのだ。三カ月という期間を旅するならば雪はともかく雨天だけは覚悟しなければいけない。そのときがついに来てしまった。


「サラ」

 前を走る自転車に少しスピードを上げて近づき、声をかける。俺の自転車は積載した荷物のせいで極端に加速が苦手だ。それでも、今日はいつもと比べてペースが遅いから、そう無理せずに追いつくことができる。

「…………」

 バラトンに着く前に買った安価なレインコートを着た彼女は返事をしない。雨音のせいで聞こえなかったのかもしれない。被ったフードで視界が悪いからか俺が見えていない。

「サラ!」

 もういちど大きな声を心がけて呼びかけると、ゆっくりとふりむく。

「この先、どこか大きな木か屋根の変わりになるものがあったらそこで休もう。場合によってはそのままテントも張る!」

「……え?」

 どこかぼんやりした反応。

「あまり無理して走ったら事故になるから」

「……でもまだ今日は三十キロも走ってないよ?」

 これまで、一日のノルマは五十キロメートルだということは伝えてあった。ただし、それは天気を含めて条件の良いときの話だ。

「暗くなってきたし、これ以上雨が強くなったら、テントも張れなくなる。今日はここまでだ」

 時間で言えばいつもよりかなり早い。まだ走れると判断する気持ちもわかるけど、俺たちはこの雨の中で夜を越さなければいけないのだ。油断は禁物だろう。

「……でも」

 不思議と食い下がるサラは、何か焦っているように見える。お父さんと連絡がとれるかもしれない場所が近づいているからだろうか。

「さっきから左に寄ってる。気付いてた?」

 ここ数キロの間、中央線に寄った走り方がずっと気になっていた。長時間自転車に乗る習慣がつくと、走っていても不調に気が付かないことがある。そんなときは走り方を見ればわかる。

「雨で疲れやすくなってるからさ」

 絶えず動く筋肉の温度は上がる。都合良く体を叩く雨粒は、そんな熱を洗い流してくれるから案外雨が降っていても気持ち良く走り続けることができる。でも錯覚なのだ。

 つま先や指先は濡れて冷たくなった。ここぞというときにブレーキをかける握力が落ちているし、ペダルを踏み外す可能性だってある。筋肉以外の内臓が感覚以上に冷えて不調を起こすかもしれない。

「……じゃあ、あと五キロだけ」

 何が彼女を突き動かすのだろうか。

 ……決まってる。リュブリャナに着けば父親と会うことができるかもしれない。

 たった一人残った肉親。これまでに聞いた話では、離れて住んでいてもサラのことを大切にしているのだとそう感じられる人柄だった。

 苦しい日々の続いた彼女にとってやっと見えてきた光明なのだろう。浮足立っても仕方がない。

「だめだよ……。もし良さそうなところがあったらそこまで。でもこの様子だと当分かかりそうだけど……」

 電信柱すらない草原の中の道が、水平線まで緩く右にカーブしながら続いているのを見ながら言う。

「……うん」

 無為な問答を続けた末に、しぶしぶという形で俺の決定を受け入れさせる。その間、俺の自転車はずっと車道側で彼女を右に寄せるように走り続けていた。そうしなければどんどん左の方へ逸れて行く進路に、本人は気が付いていない。そうとう疲労が溜まっている。もっと早く気が付かなければいけなかったはずなのに、案内人失格だ。

 とにかく今日はまず安全なキャンプ地に到着すること。運転中に一番危険なのは疲労しているときだ。これ以上悪化しないように、多少マナーが悪くても並走を続けるしかないだろう。


 結局、思うような好立地はなく、約束したわけでもない五キロを走ったところで諦めてテントを張ることにした。

 ここより先に進んでしまうと、道は森の中に入る。舗装された道路は少し高台になっていて、木々は藪の中に隠れるように生えているので、いくら雨宿りに使えそうだといってもその先に入って行く気にはなれなかった。雨でぬかるんだ足場の悪い藪なんて、どんな事故が起きてもおかしくない。せめて風よけになればと、二つ並んだ大きめの岩のとなりに決める。今のところ強風というわけでもないけれど、こんな場所でテントが飛ばされたらもう帰って来ない。そんな開けた土地だから念には念を。

 入口の方向を考えながらフレームを組み立てたりペグを打ったりしてみたものの、雨が強いと大変だ。危うく手が滑ってハンマーで指を打つところだった。

 加えて、サラが何か手伝おうとふらふらと寄ってくるのが逆に能率を下げてしまうのだ。浸水防止のグランドシートが半分に畳まれたままテントの下に敷かれている。骨組みにひっかける場所が一か所ずつズレて、付け直し。どうにも噛み合わない。

 仕方がないので無理やりレジャーシートにくるんで座らせ、行動食のチョコレートバーをゆっくりかじるように指示した。足手まといにしているようで心苦しい。何か反論があるかと思ったけれど、今のところ大人しくしてくれている。

 やっと濡れずに休める環境が出来上がったころにはフードの前面から吹き込む雨で顔と首回りがびしゃびしゃになっていた。早く拭きたい。

「準備できたよ」

「…………」

 味気ないグレーのシートに包まれて、テルテル坊主かお地蔵さんのようになっているサラを呼んでも反応がない。

「ほら、先入っていいから」

 これまでの旅で、テントに二人入って寝るのもある程度慣れてしまった。最初に衝撃的な出会いをしたのも関係しているかもしれない。安心して横になれる場所がそこしかないなら仕方がないのは登山と同じ。

「……ご飯、作らないと」

「いいから、俺がやる」

 たった今チョコレートをかじっていたのに、逆に食欲が湧いたのだろうか。

 どちらにせよ雨のせいでサラの凝った料理は無理だから、今日くらいはゆっくりして欲しい。雨の中、走らせてしまったのはやっぱり良くなかった。

 とにかくカロリー補給が必要なはず。俺もお腹が空いたし有言実行。ご飯の用意だ。

 お湯を沸かして作れるレトルト系を中心にしよう。水の心配だけはする必要がないし……。

 当分もぞもぞしていたサラを無理やりテントに押し込んで、今度は自分でシートを被って調理に入ることにした。

 体とシートでどうにか雨を遮り、バーナーを使って温めたシチュー。これと焼いてないパンが今日の夕食。随分とわびしいものになってしまった……。

 ……俺の旅の飯なんて、本当はこんなもののはず。そもそも料理のレパートリーなんて限られるし、どこでも食材が手に入るわけではないのだから。

 サラと出会ったのは旅の始まりもいいところだった。それからずっと、なんだかんだいって美味しいご飯を食べ続けることができたのは間違いなく彼女のお陰。

 契約だなんだと言いながら、ずっと頼り切りだったんだな……。

 その結果が今だ。毎日何十キロメートルも走り続けるのは、慣れていない人間にとっては物凄く大変なことなのに、彼女があまりにも調子よく走るから甘えてしまった。毎日疲労が蓄積されているということを十分に計算できていなかった。

 どこかぼーっとしているサラ。雨の中で今まで溜まったものが表に出てきたのだと思う。

「シチューが温まったから先に食べてて」

 さきほど張ったばかりのテントに声をかけても返事がない。もしかしてと思って様子を見たら丸くなった毛布の塊。どうやら緊張の糸が切れて寝てしまったらしい。

「……休めるなら休んでおいた方がいいか」

 本当はマッサージとストレッチをしてから寝るべきだけど……。疲労が勝るなら仕方がない。

 となりに丸めてあるタオルを見るにちゃんと体は拭いたみたいだし、着替えもしたのだろう。さっきチョコレートバーを無理やり食べさせたから最低限のカロリーも摂れている。シチューはレトルトパウチなので、起きて空腹を訴えるようなら温め直せばいい。

 今日は寝かせておくか。

「マット、ちゃんと敷けばいいのに」

 横に少しだけあるスペースに蛇腹状に折りたたんであったウレタンマットを広げてから、サラの肩に触れる。さっき寝付いたばかりならとなりに何十センチか移動くらいならまだできるだろうと思ってのことだった。

 ……ん? 重い感触。別に体重がどうとか、そういう話ではなく筋肉が強張っている。毛布を抱き込むように強く握りしめたサラ。

「……寒い」

「――え?」

 その肩は、苦し気に呟かれた一言と相反するようにじっとりと汗ばんで熱を持っていた。


 どこで間違ったのか。

 答えはいくらでも出てくる。なにせこの旅の始まりからして『正しくない選択』をしたことからなのだから。

 でも、なんとかやってこれた。人種も年齢も異なる二人が、通報されることもなく国境を越えて、あと少しで目的地に到着する。そんな場所まで。

 『そんな場所』とはどこだろう。森と草原の狭間にある二つの大岩。そのほとり。空は暗く、雨脚は強く、風すらも吹きはじめた。あとは荒波の打ち付ける崖でもあれば、世界の果てなんじゃないかってそう思う。目指したのはこんなところだっただろうか。

 間違いなく自分たちで下した決断だ。人の少ない国を、人の少ない最短経路を選んだ。

 できることをできるだけやった先に、今俺たちは二人で身を寄せ合ってテントを叩く雨と風の音を聞いている。


 せめてもっと天気予報を疑えば良かった。曇りの予報でも雨が降ることはある。

 あるいはもっと小まめに調べれば、いつの間にか予報が変わっていることを知って、少し早い段階で宿をとることができたかもしれない。

 人の少ない集落で怪しまれないように四苦八苦。狭い部屋に一日閉じ込められて足止め。今ごろ「今日は全然走れなかった」なんて愚痴を言い合うだけで済んだ。仮に体調を崩しても、ずっとましな環境で看病することができたはず。

 ある日、突然病没した叔父のことが頭をよぎる。同じ事が目の前で起きたら……。手足の感覚がなくなってしまいそうなほどの恐怖を感じる。

 ……後悔は、もっとずっと後になって余裕ができてからするべきだ。活かせる次の機会がないなら無意味なのだから。

 しばらく肩をゆすっても目を覚ます様子のないサラを、俺はそのまま寝かせておくことにした。額に浮かぶ汗を拭き取り、マットレスの上に移動させてから自分の寝袋のジッパーを開く。寒いというからには少しでも暖かくしてやるしかないという浅知恵。この季節に毛布と寝袋を上からかけておけば、とりあえずは大丈夫なはず。

 念のために日本から持ってきた市販の解熱剤と水のボトルを枕元に準備しておく。俺にできるのはこれだけ。

 万が一にも雨水が流れ込んで来ないようにテントの周囲も綿密に確認した。荷物の類いはポリ袋にくるんで風で飛ばされないように岩陰に置いてある。

 さっきまでサラが丸くなっていたスペースに身を横たえて、ばちばちごうごうと騒がしい天気が少しでも弱まることを願いながらダブルウォールの天幕を眺めているしかない。

 すぐとなりでは今も苦し気な息遣いが聞こえる。

 何もしてやれない。代わってやることも、ただ向き合うことも。雨の中に逃げ出すことすらできずに、快方を願って祈ることだけが俺にとれる手立て。


「ん……」

 テントのフロア越しに感じる固い地面の感触が、居心地悪くて目が覚める。

 相変わらず外は雨らしい。ただし雨粒の大きさは少し小さくなったみたいで、さーさーという軽めの音に変わっている。

 あれからどれくらいの時間が過ぎただろう。周囲は真っ暗。脚や肩を触れても濡れた感触はない。ちゃんと防水機構は働いてくれているらしい。良かった。これ以上環境が悪くなるようなら、サラの体調不良がもっと悪化するところだった……。

 そうだ。サラだ。調子はどうだろう。最初のころの苦し気な息遣いは聞こえない。少し楽になったのかもしれない。汗をかいていたようだから、起こして水分を摂らせるべきだろうか。いや、眠れているならそっとしておく方がいいか……。

 せめて様子を見ようと、そっとランタンを探して荷物の方に手を伸ばしているうちに違和感に気付く。いくらなんでも静か過ぎる。

 テントという密閉空間の中では、人はただいるだけで絶大な存在感を持っている。衣擦れ、呼吸。そんな音は常に聞こえるし、体温で室内はかなり温まる。呼吸で発散される水分が結露して天井が水浸しなんていうのは日常茶飯事だ。なのに、自分以外の熱を感じない。

 代わりに、どこかから吹き込んでくる湿り気を帯びた風が肌にまとわりつく感触。このテントの生地は二枚重ねになっている。透湿性のある内幕と耐候性のある外幕。お陰で、荒れた天気でも大丈夫というのが売り。……ふつうは風が入ってきたりはしない。それこそ入口を開けでもしない限り。

 慎重に右手を床面に這わせてランタンを探す。就寝前そのままの場所にあったそれをもどかしい思いで点灯した。一番大きなスイッチを三秒長押し。その三秒がやたら長く感じる。なんでこんな構造になってるんだ……。

 故障を疑い始めたところで、弱い暖色の光がテント内を照らす。

 となりには俺が敷いた折り畳みのマットレスと寝袋だけがあった。

 テントの入口は十分にジッパーが閉め切れておらず、そこからパタパタとはためいている。

 ――落ち着け。サラがいないというのはそんなにおかしなことじゃない。

 例えば、お手洗いとか……。少なくとも、俺を起こさないように気をつけて外に出る理由には十分のはず。よく考えてみれば、夢うつつでいる間に、となりでごそごそと動く気配があったような気がするし。

 とりあえず思いつく妥当な説明と相反するように、心中の不安が大きくなっていく。違和感がある……。

 ……毛布は? 弱まったとはいえ、雨の中に寝具を持ちだす理由が思い浮かばない。

 手をついて座り直そうとしたところでかさりと小さな音がした。となりのマットレスとテントの壁の隙間。そこにしわしわになった封筒が落ちている。

 サラのお金。間違いない。あの日、ドナウ川のほとりで見たのが目に焼き付いている。あれからずっと、サラは巾着に入れてパスポートなんかといっしょに肌身離さず持っていたはず。なんでここに……? 持ち上げた封筒の厚みを考えると、ほとんど全額入ったままのように感じる。……嫌な予感が募る。

 開きかけの入口を全開にして、体が濡れるのも厭わずテントから出る。外は何の変化もない。風が吹き、草と木が揺れ、針のような雨がランタンの光に映し出される。

 雨雲に覆われているはずの空は真っ黒で世界が上に向かって落ち続けているのではないかという錯覚を起こしそうだ。

 人の気配は、ない。

 お手洗いならテントの近くにはいないと思う。予備に渡したペンライトがあるから何も見えないということもないだろう。でも、こんな天気の中、あまり遠くへ行くのも危険だ。そもそも、数時間前にあれだけ体調が悪そうだったのに。

 不安を抑えきれず、どこかからサラが帰って来ないかと周囲を眺めて、それどころではないということにやっと気が付いた。自転車がない……。

 彼女はたった一人で雨降る闇の中へと走り出してしまったのだ……。


 視界には前方十メートル分、ライトに照らされた道路と細く降り続ける雨。

 進路の先にサラがいるはずという気持ちだけで走り続ける。

 ペダルを踏みしめながらも、頭の中はなぜという疑問で一杯だった。

 俺との旅が嫌だった? そうかもしれない。最初こそ彼女の願いを叶えるための契約だったものの、中身はこんな苦痛塗れの旅だ。若い、というよりも幼いほどの女の子が続けたいものではなかっただろう。俺なりにプライバシーに配慮したところでたかが知れている。

 昨日今日知り合ったような外国人の男と狭いテントで雑魚寝なんてしたくないという気持ちはよくわかる。熱にうなされながら我に返ったのかもしれない。

 最低限国境を越えるという目的は果たされた。ならもうわざわざ付き合う必要はないと思ったのか。この国なら警察だって頼れる。百キロ以上もわざわざ首都を目指して走らなくたっていい。そう考えるのは自然なことだ。リュブリャナまでサラを連れて行くという予定は俺なりに熟考を重ねてのものではあったけれど、二人で十分に協議したわけではないし。

 国境を越えたときから何か考えている様子ではあった。大使館のある場所まで行こうと提案したときもそう。じっくり話し合うことすらなかった。

 考えればいくらでも、こうなってしまう原因には思い至る。くたくたになるまで走らせて、料理もさせて、あまつさえ病気にまでしてしまう。ろくな看病もできない。


 ――つまり、俺は愛想をつかされた。そういうことなのだろう。

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