第11話

 ヴァレンツァから南西に一日ほど走ると大きな湖に差し掛かる。

 そもそも、ヴァレンツァだって大きな湖のほとりにある街だったのだけれど、今回はスケールが違う。なにせハンガリーで最も大きな湖である。名前はバラトン湖。だいたい琵琶湖と同じくらいの大きさだと言えば日本人的には理解しやすいかもしれない。

 サラが教えてくれたのだけれど、ハンガリーの人達は率先してこの湖のことを海と呼ぶのだそうだ。内陸の国であるため、広大な水面を見たければここへ来ることになる。

 その表現はけして誇張ではなく、湖岸を自転車で走っていると、雄大さに飲まれそうになる。どうみても海だ。実際には外海に繋がっていないので淡水なのだけれど、そのせいか風に潮が含まれず爽やかな感じがする。延々と汗をかきながら走る俺たちにとっては、その方が助かるかもしれない。

 内陸部の乾燥した大気は水面を淡いエメラルドグリーンに輝かせている。穏やかな波にヨットが揺れる様子は、これまでの俺の生活とは縁のなかった優雅さだ。

 バラトン湖は世界的な保養地らしく、ブダペスト以上に様々な人種が行き来していた。自転車やバックパックで旅をする人も多くて、中にはサラよりずっと小さな子も含まれる。

 お陰で俺たちが一緒に歩いていてもそんなに目立たない。

 加えて、どこでも英語が通じるので俺にとっては色々と助かることが多かった。ここまでちょっとした買い物でもサラの助けを借りることが多く、かなり情けない思いをしていたからな……。ハンガリーは日本ほどではないけれど、英語を話す人が少ない。もしも一人で旅をしていればもっと苦労することになっただろう。誠に旅は情け。

 さて、そんな風光明媚なバラトンの地ではあったけれど、俺たちにとって問題となることもある。例によって宿泊である。

 ヴァレンツァとは異なり、この時期でも人が多いということは宿が混みあっているのだ。バカンスシーズンの夏は人口が冬の三倍になると言われ、それを受け入れるためにホテルはたくさんあるものの、どこも星の多い高級な場所ばかり。当日素泊まりの俺たちにとってそうそう都合の良い所が空いているわけでもなく、この地域では無理に宿を探さない方針でいくことにした。つまり野宿である。

 休みをこの土地で過ごす人たちの目的は湖。レジャー施設やホテルは基本的に湖畔に集中しているから、少し湖を離れればほとんど人のいない原っぱのような場所がたくさんある。なにせ全周で数百キロもあるのだ。一部が工業用地になっているとはいえ、水辺以外を開発する理由もないということらしい。

 本来は管理者の許可を得てやるべき野宿も、人と会わなければ願い出る機会すらない。可能な範囲でマナーに気を付けてやっていくしかない。道中にいくらでもある小ぎれいな公園なんかでポリタンク一杯に飲料水を補給し、排水の出ない料理を心がければ節水もできるし、野営地もあまり汚さずに済む。ゴミは当然持ち帰るし、あまり出ないようにする。

 歯磨きや洗濯でいろいろとコツが必要だったけれど、やってみればすぐに慣れた。心配だったのは当然サラなのだけれど……。結論から言えば順応は彼女の方が早かった。というよりも、インフラの整っていない環境での生活についてはかなりのノウハウを持っていたというのが正しい。考えてみれば、ここ最近、彼女は難民キャンプで生活していたのだ。当然普通の家屋のように電気や水が揃っているとは限らない。一日の長というやつだ。とはいえ、お手洗いや衛生面での配慮が必要ないわけではなく、それなりに頑張ってやり過ごすことになった。

 水道が使える公園には似た様な旅人もときどきいて、彼らは大概英語での会話に飢えている。そんな人達と情報交換をすることも、旅をする上ではかなり有益だった。

 例えば海水浴場ならぬ湖水浴場ではワンコインでシャワーを浴びることができる。そのほとんどは冷水なので真夏でもなければ耐えられるものではないのだけれど、たまに温水が使える場所がある。その情報なんかだ。これらと道中にある温泉リゾートを組み合わせることができたので、野宿だからといって風呂を気にせずに済んだのはかなりありがたかった。

 夜はテントの前にレジャーシートを敷いてマッサージをしながら星を見る。まったく光害――街の光――がないというわけではなかったけれど、とにかく空が広い。

 内陸国ではあっても標高差の小さいハンガリーは、都市部を離れると視界を遮るものがほとんどない。お陰で本当の意味で世界の半分を星空が占める夜を楽しむことができる。

 そんな感じで右手に美しい湖畔を見ながら走ること二日間。保養地のお金がかからないところだけを満喫しつつ、飽きが来るより早いという絶好のタイミングでバラトン湖を後にした。


 ここから、進路を少し変更することになる。ブダペストからずっと並走してきたルート7という大きな幹線道路は、このまま進むとクロアチアとの国境から首都ザグレブへと繋がっている。俺の目指すスペインへ行くには回り道になるものの、通れなくはない。移動のペースが想定より良いようなら、寄り道しても良いかなと考えていた進路だった。

 外国人である俺は、当然のことながら海外へ滞在する日数に限りがある。今回の道のりにあるいくつかの国は全てシェンゲン協定に参加しているため、全行路加算で九十日。それがタイムリミットだ。これは全長三千キロに及ぶ長旅でもどうにかなる日数なのだけれど、サラとの出会いで狂いが生じた。ふらふらと遊びまわるよりも、彼女を出国させる方が優先。

 クロアチアとの国境は比較的大きな入国管理事務所があるため、彼女が楽に通れるとは限らないのだ。一方で北方に位置するスロベニアなら小さな越境できる道がいくつもある。加えてクロアチアへ向かったところでどうせスロベニアは通過する国である。ということでこれまでお世話になったルート7を外れて進路を南西から西へ向けることになった。

 その変化はかなり大きい。なにせルート7はそこそこ大きな二つの国の首都同士を結んでいたのだ。交通量は多く、どこにでも店と宿があった。アウトドアショップだって適当に走っていれば見つかったので燃料用ガスの補給も楽ちん。それがハンガリーの当たり前のような気分になっていたのだけれど、もちろん違う。

 自動車はそれなりに通るものの、トラックなんかの産業車両が増えた。牛や豚、麦なんかを運んでいるらしい武骨な姿をよく見る。荒野や野原を突っ切ることが多くなり、ときどき森、たまに思い出したように人が住む建物が姿をあらわす。そんな感じだ。

 道路だけは細々と、ただしどこまでもまっすぐに続いているのでそれを頼りに進む。俺は、こんなところを走るのが嫌いではない。目指す先がどこまでも見渡せる。判断するべきこともほとんどなく、脚を動かす。何かを『考えない』のが得意なのかもしれない。


「――ねぇってば!」

「ん?」

 自らが道路の一部になったような気で走っていた俺に、気が付けばサラが呼びかけていた。

「どうした?」

「どうした、じゃないよ! ずっと呼んでたのに」

「ごめん。気が付かなかった」

 自転車で走っている途中に会話することは少ない。純粋に風のせいで人の声が聞こえにくいからだ。それでも、こうして車体を近づけ、同じペースでゆっくり走る分には会話も問題なくできる。どうやら俺とは違ってサラはかなり退屈していたようだ。

「そんなことってある? すぐとなりにいるのに無視されてるのかと思ったんだから」

 それは悪いことをした。事実、いっしょに旅をしている以上、コミュニケーションは必要不可欠だ。怪我や体調不良は早めに気付かないといけないから。

「ごめんごめん。それでどうしたの? お尻が痛くなった?」

「もう! その話はしないって言ったでしょ!」

 これは二人の間でだけ通じる冗談だ。旅の初日を問題なく乗り越えたと思われた俺たちだったが、翌日からしばらく、サラがちょっと辛そうだった。当初はお母さんのことを思い出してしまったのだろうかと思っていたのだけれど、よくよく話をしてみれば違う様子。

 どうも走っていて痛い部分があるらしい。けれどどこが痛いのかというのをなかなか教えてくれない。この長旅にあって怪我は大問題だ。懇切丁寧にそう説明した上で無理やり聞き出したのがお尻だったという流れである。部分が部分なので恥ずかしかったらしい。

 長時間自転車に乗ったことがある人でないとわからないことなのだが、お尻が痛くなるというのは初心者にはよくある。完全に避けるのは難しい通過儀礼みたいなものだ。

 とはいえ、そんな当たり前の症状とは別に、腰椎のヘルニアだとか、内臓の問題、疲労骨折など、他の病気や怪我が原因である可能性も否定できない。気を遣いつつも、恥ずかしがるサラから詳しいことを根掘り葉掘り聞くことになり、すっかりへそを曲げてしまったというわけである。結論として、サラが痛みを訴えた尾てい骨あたりは俺も経験したことのある懐かしい部分だった。サドルのポジションを少し高めにして数日様子を見るうちに少しずつおさまっていって現在に至る。自転車での移動中に体重をどう分散させるかというのはけっこう大切なことで、腹筋を使って腰を『立て』てペダルとサドルでわけるというのは基礎と言っていい。

 これに加えて、慣れてくるとハンドル側へ少し移動させることができるようになるのだけれど、始めのうちは逆に上半身に頼りすぎて手のひらが痛くなってしまったりもする。その点でみればサラの症状はまっとうで、うまく自転車に『乗れている』と考えて良いと思う。この後は定期的に運転中にできるストレッチを行うという日課が追加されることになった。

「タイチはさ、スロベニアに着いたらどこへ行くの」

 少なくとも危急の話ではなかったようだ。とはいえ、ゆるゆるとペダルを回す以外にやることもない俺たちである。こうして会話をすることを避ける理由もなかった。もうずっと長い間、他の車とも出会っていないから、多少並走したところで困る人もいない。サラがスペイン語で話しかけてくれるお陰で、日常会話のレベルも随分上達したと個人的にも思うし。

 ……まぁ、ここが変だ、あそこが変だとよく訂正を入れられるのだけど。さっきのお尻の話は、ちょっとした仕返しでもある。器の小さな話だ。

「そうだな。まずはリュブリャナだね」

 首都、とはいっても人口は三十万人足らずで、日本人の感覚で言えば地方都市に近いかもしれない。でも、こうして野原や麦畑を延々走っていると、ちょっとしたパーツや燃料を確実に補給できる重要な土地なのは間違いないし、歴史や文化の面でも興味深い。交通面でも通らない理由がない立地だしね。

「……うん」

 自分から聞いてきた癖に、どこか生返事なサラ。あまり面白くない答えだっただろうか。まぁ、目的地の話なんてこれまでも何度かしてきたから、繰り返しになってしまったのかもしれない。

「ツアーオブスロベニアのコースを走ってみるのもいいな」

 世界的に有名とまでは言わないけれど、日本と比べると高いレベルのロードレースの大会の話をする。今年はもう終わってしまったはず。でも、もしかしたら路上の応援跡なんかが残っているかもしれない。そんな想像をするだけでも心が踊る。

「その後は、アドリア海を目指すよ」

「海?」

「そう、海」

「バラトンとはやっぱり違うのかな」

「俺も行ったことはないけど、違うだろうね」

 少なくとも、本物の海である以上、潮の香りはするはずだ。波だってもっと力強いはず。色は……、どうなんだろう。バラトンは少し緑みを帯びた不思議な水面だった。日本で見たどんな海とも違ったけど、アドリア海が日本の海と同じという保証もない。

「……海。私、行ったことあるよ」

「へぇー」

 ハンガリー人にとって、『本当の海水浴』は国外旅行と同義だ。俺たちの『海へ行く』とは意味合いが異なるのだろう。

「場所はわからないけど、多分スペインのどこか」

 どこだろう。スペインで海というと『コスタ・デル・ソル』が有名だと思う。他にも『プラジャ・デ・なんとか』という名前の砂浜がいろいろあるのだと、ウェブラジオのスペイン語講座で言っていた。

「砂浜が真っ白で、空も海も真っ青で……、でも違う色なの。同じ青なのに不思議だなって思ったんだ」

「うん」

 知識として知っていたことを、体験して理解すること。サラにとっては海水浴の思い出がそんな感覚と強く結びついて記憶されているらしい。

「あのときは、お父さんとお母さん。二人がいた」

「……うん」

「お母さんね、本当はお父さんと結婚してないんだって。だから法律では夫婦じゃないって」

 ……彼女の父親がハンガリーにいっしょにいない理由についてはここまで訊けずじまいだった。それはとてもデリケートなことである可能性が高かったし、俺自身に訊きだす勇気がなかったからでもある。実際に聞いてみれば、納得できた。

 ヨーロッパやアメリカにおいて事実婚はそんなに珍しいことではない。俺の叔父も概ね似たような決断をした一人だ。本人は日本人だけど。

「それは二人が生まれた場所が違ったり、やりたいことが違ったり、そんな理由だけれど、愛し合っているのは真実なんだよって、その海で言ってた」

 両親の愛を臆面もなく子に伝えるということはどれだけの幸福なのだろう。俺とは違う文化で生きてきた人達だからこそできることなのかもしれないけれど。

「私はその愛の証だって」

「…………」

 なのになんで二人ともいなくなってしまったの、と続けたいのではないかと思った。

 かける言葉がない。母親はもちろん、父親だって、今このとき苦しんでいるサラの近くにはいない。それが現実だ。当然理由はあるけれど。こんな、半径一キロメートル以内に誰かがいるかも怪しい荒野のど真ん中で、俺だけが彼女の孤独と向き合っている。

「……探してみようか」

「え?」

 彼女のためにできることなんてほとんどない。

「思い出の場所。真っ青な空と真っ青な海」

 ただ、一つもないわけじゃない。こうして今、いっしょにいることも、その後も。

「俺はこのあとずっと旅を続けたら、最後にスペインの南を走ることになる。そのときに海で写真を撮るよ。綺麗なところをいろいろ。もしかしたら、サラが行った場所もその中にあるかもしれない」

「でも……」

「もとから旅の記録は残すつもりだったんだ。ネットに保存してさ。まだ整理できてないけど、これまでの旅もちゃんと残すつもり。それをどこでも見られるようにしておく」

「どこでも?」

「そう、世界中どこでも。秘密の鍵を渡すからさ」

 パスワードか何かで限定公開する方法があるはずだ。

「……お父さんに訊いたらすぐわかることだよ?」

 ……そうだった。悪いアイデアではないと思ったのに、肝心のところが抜けている……。

「あの……」

「ん?」

「……やっぱり探して欲しい」

「訊けばわかるのに?」

「……それでも。だめ?」

 実際にやってみれば手間はかかりそうだ。なにせスペインの大半は海に囲まれている。かなり長い距離を走るにしても、全体でみればほんの一部。見つからない可能性の方が高い。俺自身は実際に見たこともないわけで、徒労に終わる覚悟が必要だった。

「だめだったら提案してないよ」

 だとしてもやる意味はあると思う。だいたい、旅というのはそれだけだと無為なものだ。何か道草を食う目的があった方がずっと張り合いがでる。叔父さんも似たようなことを言っていたはず。

「約束する。見つけられるかはわからないけど、空と海の海岸を探してみる。どこにいても確認できるようにしておくから楽しみにしてて」

 ダメ元で、ということをスペイン語で説明することができなかったけど、……まぁいいか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る