第12話

 バラトン湖から西へ八十キロほど。まっすぐの道に目を引くものもなかったので一日少しでたどり着くことができた。この場所にはほとんど何もない。

 ただ泥で汚れた道と車両の通行を止める武骨なガードレール、そして『Border(国境)』と、なぜか英語で書かれた看板がこちら向きに一つ。向こう向きにも多分同じものがもう一つ。それだけ。

 俺たちの契約の山場になる、ハンガリーと別の国を隔てる地。

 地図でこの場所が近づくにつれ俺もサラも口数が少なくなっていった。少し手前では俺だけ先行して誰かが国境を監視していないか確認までしたのだ。

 全然そんな必要はなかった。民家すらないから人はいない。周囲には藪も物陰もなく、野生動物の一匹でもいればすぐに見つけられると思う。


「行こう」

 ガードレールの間に自転車一台分の隙間があるのを確認した俺は、先行してそこをすり抜ける。当たり前の話だけれど、変わったことは何もない。出国も入国も特別な感慨がなくすぐに終わる。

 少し進んでから振り向くと、サラはまだガードレールの前で自転車を横に立ち止まったままだった。

「大丈夫。誰もいない」

「……うん」

 意を決してガードレールのこちら側へ一歩を踏み出すサラ。

「…………」

 俺のときと同じ。あまりにもあっけない越境が終わり、俺たち二人は文字通りスロベニアの土を踏んだ。国際逃亡ということになるのだろうか。やってみればこんなものか、という感じ。

 けれどどうやらサラの中では少し違うらしい。俯いて、何か飲み下せないものを必死にかみ砕こうとしているような雰囲気があった。

 俺は彼女に向かって二歩戻り、黙って時が経つのを待つ。数日前、夜の街灯の下でバースデーカードを渡した時と同じ距離。

 本音を言えば早くこの場を離れたいという気持ちがある。やましいことがあって、犯行現場に残りたくない、というやつだ。『悪いやつ』なら、ちょっとくらいルール違反をして俺たちを捕まえに来るかもしれない。都合のいいことに目撃者もいなさそうだし。

 実際にはありえない。あくまで俺の心の中の話だ。

 きっと、この武骨なガードレールが遮っていたのは土とアスファルトが混ざった農道だけではないのだ。部外者の俺が想像することはできても実感することのできないへだたりがあって、その隙間にサラの心が引っかかっている。脆く、柔らかいそれがこれ以上傷つくことがないように、そっと取り外さなければならない。そのために時間が必要なのだろう。

 ふと、自分の心にも、ざらっとした感覚があった。ついにやってしまったとか、そういう後悔ではなく、もっと別の何か。今、俺がこうして部外者として立っていることに対する疑問。

 『海の青と空の青が違った』とサラは言った。言葉で知っていても実感するまでわからないこと。なら、今の彼女の苦しみもまた同じなのではないか。あまりにも辛い境遇は誰の目にも明らかで、でも、当の本人にしかわからない。俺が同じ立場になりたいなんて思えない。なのに、知りたいと思ってしまう。そんな相反した感情に対する違和感とざらつき。

 ふと目線をサラに戻せば、彼女はもう俯いてはいなかった。

 じゃり、と粗い土で汚れたアスファルトを踏みしめて一歩前進する。一歩俺に近づく。

「行こう」

 さっき俺がかけた言葉をそっくりそのまま繰り返しながらサドルへと跨り、俺よりも前へと進んでいく。一度も、故郷の方を振り向いたりはしなかった。


 国が変わったからといって、天気や生えている植物が変化したりはしない。当たり前の話だ。野生の動物だって国境を気にして住んだりはしないもの。

 なのに、不思議なことにまったく別の国に来たという実感をすぐに受けることになった。

 言葉にするのは難しい。敢えていえばハンガリーは少しだけ日本に近かったような気がする。道端の電柱とか粗い路面の田舎道なんかにどこか郷愁を覚えるところがあった。一方でこの辺りはもっとずっと外国という印象が強い。日本ではちょっとお目にかかったことのない雰囲気の草原に、赤い屋根と白い壁の教会がぽつんと立っていたり、森の中の道を抜けると綺麗な湖畔にでたり。ファンタジーという言葉で想像する西洋的な異世界がそこにある。

 そんな道を二人で走っていると、えも言われぬ不安がおそってくる。けして不快な場所ではないのに。馴染みのなさのせいか、人とすれ違わないせいなのか、間違った道に入ってしまったような気持ちになってしまうのだ。

 これは個人的なものではなく、サラも同じだったようだ。自然と二台の自転車は近づくことになった。いつもなら会話を始める距離。けれど無言。たまに他愛ない話を振ってみても生返事しか帰って来ない。まだ、国境を越えたことがわだかまっているのだろうか。

 俺一人でこの道を走っていたらどんな気分だったのだろう。あるいは、こんなルートは通らずに南のクロアチアへ向かっていたのか。

 そんな『もしも』の話は存在せず、ただ二人の間の沈黙だけが現実だった。

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