第10話
部屋にはありがたいことに食卓に使える小ぶりなテーブルがあった。椅子は一人分だけだったけれど、ベランダになぜかプラスチック製のものがもう一脚置いてあるのを発見したので、一時的に部屋へ入れて二人で座る。目前には主菜になる豚肉の炒め物、サラダと朝の残りのパンをトーストにしたもの。
「これはなんていう料理?」
一番目立っている炒め物について聞いてみる。
「何って……。なんだろう」
答えはかなり曖昧なものだった。サラは豚肉のフライ的な意味の名前を続ける。見た目は確かに衣がついているけれど、フライというよりは炒め物だよな。『豚の生姜焼き』みたいな感じだろうか。この国では別段珍しくない調理方法らしい。
ただ、俺が初めて口にする料理なのは間違いない。こんな香りは記憶にないからだ。
両手を合わせて、さあ実食。
「それはなあに?」
そう思っていたところで、今度は向こうから質問がくる。それって……。ああ、手をあわせていることか。そういえば朝食のときも気にしていた気がする。
しかし、説明が難しい。さっき俺に料理名を聞かれたときはこんな気分だったんだろうか。
「……感謝の祈りかな? 日本人は食事の前にやるんだ」
「ああ、十字を切るのと同じね」
キリスト教の? 同じなんだろうか。そうかな、そうかもしれない。俺の回答で納得してくれたらしいサラはフォークを持ってこちらを見つめている。
「……何?」
「Buen Provecho(召し上がれ)」
どうやら俺に先に食べろということらしい。
言われるまでもない。今日一日、運動もしていれば心労もあった。お腹は空いているのだ。フォークを手にとり一口。馴染みのある肉の旨味と、経験したことのない複雑な味が一度に舌を刺激する。……ふむ。どう表現すればいいだろう。
食感は薄く衣がついてソースに絡まっているので生姜焼きに近い。ただし生姜は入っていない。変わりにある酸味のような苦みのような複雑で強い味と香りは例のパプリカ粉か。
あとは乳製品の味。どうやら朝食用に買った牛乳をソースに使ってあるらしい。もしかしたら、トースト用のチューブのマーガリンも入っているかもしれない。炒められた玉ねぎの甘みと豚肉の旨味が繊細に引き立てられていると思う。
「……美味しい。初めて食べたけど。なんだか懐かしい味がする」
外国語というものはこういうときにとてももどかしい。たとえ日本語でもうまく説明するのが難しいことを、ちゃんと伝えられる自信がない。
「どういうこと? 初めてなんでしょ?」
案の定突っ込みを入れられてしまった。
「俺にもわからないんだよ。でも、この料理は好きだな」
「……料理っていうほどでもないけど、玉ねぎが残ってたから早く使わなくちゃって思って」
昨日のパスタソースで出たあまりか。そんなことまで気にしてくれていたらしい。確かに調理時間が短かったけれど、手間がかかっていないとは思えない。謙遜なのか本気で料理上手なのかはわからないけれど、俺から言えるのは一つだけ。
「ありがとう、助かるよ」
「……うん。どういたしまして」
そういってサラはやっと自分の料理に手をつけたのだった。
それにしても、スペイン語で料理の感想をいう方法、ちゃんと練習しておいた方がいいかもしれない。いや、その前に俺が日本っぽい料理を御馳走するのが先か。何がいいだろう。
夕食後。
俺は食器を洗う係を買って出て、その間にサラはシャワーへ。
「ふー、さっぱりした」
それは良かった。
髪をふきふき出てくるのと入れ違いに脱衣室に。その間に洗濯ものはネットに入れて洗濯機へ入れておいてもらう。
時間はそうかからなかった。今日一日で汗はかいたけど、昨日も温泉へ行っているからな。
サラが備え付けのドライヤーで髪を乾かしているうちに出てくる。長い髪は大変だ。旅行中は配慮しないと。
「もう出てきたの?」
「洗うだけだからね。日本ならもう少しかかる」
「なんで?」
「バスタブに浸かるんだ。ハンガリーの人はしないの?」
「スパ(温泉)みたいに? やる人はやるかな。石鹸とか泡立てるの」
なんだろう。昔の洋画みたいな感じだろうか。泡だらけのお風呂も面白いかもしれないけど、掃除が面倒そうだ。しかし、温泉大国だからといって、必ずしも湯舟に浸かる文化が普及しているわけではないんだな。このコンドミニアムもバスタブはないし。
「疲労回復の効果があるから、自転車の旅にもいいんだよ。っと、大切なことを忘れるところだった」
この話をして良かった。食事のころまでは覚えていたのだけれど、空腹が満たされてすっかり忘れていたことを思い出す。
「どうしたの?」
「靴を脱いでベッドの上で待ってて」
「……ベッド?」
場合によっては着替える必要があったけど、サラのTシャツ、ホットパンツという恰好なら問題ないだろう。急ぎ自分の脱いだ服を洗濯機の中に放り込むと、洗剤を入れてスイッチを押した。使い方は日本の物と比べてもシンプルなくらいでボタンを二回押すだけだった。助かる。
部屋に戻るとサラはベッドのわきに所在なげに立ったまま。
「どうしたの? ほら、靴を脱いで」
「……なにするの?」
「何ってストレッチだよ。あとマッサージ」
「……マッサージ」
どうにもさっきから様子がおかしいような。
「ほら、せっかくシャワー浴びたんだから。さっさと始めるよ」
床にレジャーシートを広げながら、動きの鈍いサラを促す。
マッサージに適した時間は短い。血行が良い今のうち、湯冷めしないうちにやらないと。
「……タイチはそこでやるの?」
「そうだよ。ベッドは一つしかないし。日本ならみんな床でもいいんだけど、この国では靴を履くだろう」
「日本では靴を履かないの?」
「家の中ではね。テントと同じ」
何の話をしているんだろう。
「ほら、用意して」
「…………」
乱暴にベッドへと飛び乗るサラ。びっくりした……。何か機嫌が悪くなるようなことを言っただろうか。
「どうしたの?」
「別に」
取り付くしまもない。仕方がないか。とにかくストレッチから始めよう。
「……毎日自転車にのるなら、メンテナンスはかかしちゃだめだ。人間の体も同じ。大切なのはご飯とマッサージだよ。真似してみて」
言葉で説明するのは難しいので、自分の脚を曲げて、指先から解している様子を見せる。末端神経からゆっくりと念入りに……。
部活にいたときはマッサージは練習前とお風呂後、就寝前にやることになっていた。その効果は絶大で、翌日の調子が全然違う。
タイムにも影響があるため、強豪校には専門のマッサーを育てる方針の学校もある。これはかなり難しいことで、なぜなら、優秀なマッサーが一人いれば良いというわけではないからだ。
マッサージは念入りに、時間をかける方が良い。一方で適した時間は短い。だから強いチームを作ろうと思えば何人ものマッサーが必要になる。そんな人数を確保するのは部活どころか大人のチームでも無理なので、競技者はだいたいみんなマッサージの知識を持っている。自分のケア、仲間のケアを相互でやるわけだ。だいたい、夜寝る前は誰でも自分で面倒をみなければいけないし。
ということで基礎的な知識が俺にあるのが、今回の旅でも役立つことになった。
「ここの筋肉は特に念入りに……」
指先、足裏、踵、アキレス腱ときてふくらはぎに差し掛かったところで説明する。スペイン語ではなんていうんだろう。ふくらはぎ。今度調べておこう。ここには腓腹筋とヒラメ筋、二つの筋肉がある。競技中に痛みや痙攣が起きやすい場所なので、ケアには細心の注意が必要だ。できるだけ力を抜いてやわらかくし、親指で中心から順に外側へこねるように。力は入れなくていいけど、もみ残しがないように。左側が終わったら、右側。無言で丹念にやっていく。
「そんなに真面目にやらないとだめなの?」
幾分気分が変わったのか、サラから質問があった。
「……後悔したくなかったらね……」
自分の筋肉に集中しながら答える。
「…………」
沈黙。彼女にとって後悔という言葉は、今は強すぎたかもしれない。
「……マッサージをしなくても、結果は変わらないかもしれない。でも、何かがあったときにできることをやっていれば、全力が出せる」
「何に全力を出すの?」
「レースだよ。俺はロードレースをやってたから」
「ハンガリーにも好きな人多いよ。ロード」
「そうだね」
強いチームがいくつもある。国際的な試合をやることも。
「だから、一度は来てみたかったんだ」
ロードレースは、基本的に公道で行われる。つまり、現地に来れば、プロと同じ道を走ることができる。今回の旅の目的に、世界一の試合をする人達と同じコースを走って見たかったというのは確実に含まれている。それが全部ではないけれど。
レースのこと、有名選手のこと。他愛のない話をしていると、三十分ほどすぐにたっていた。
「……これでおしまい。明日の朝も軽めにストレッチをやるよ」
「……夜も?」
「うん。できる限りね。面倒?」
「ううん。そんなことないよ」
そっか。毎日三十分の拘束時間となると嫌がられるかなとも思ったんだけど。うすうす感じていたけれど、この子は根が真面目なのだろうなと思う。
「とにかく、怪我をしないようにがんばろう」
「うん」
毎日何時間も運動を続けていれば、人はいとも容易く怪我をする。そのときが旅の終わり。俺もサラも、こんなところで旅をやめるわけにはいかない。
マッサージの後も、二人ともなんとなく動かずにごろごろしていたのだけれど、ふと目を向けてみるとサラが寝ている。
時間はまだ九時も回っていない。ただ、さすがに起こすのは忍びなかった。この旅には、バスや電車の時刻表は関係ない。朝が早くて困ることもないし、俺ももう寝てしまうか。
考えてみれば昨夜はろくな寝方をしていない。こんな時間でも余裕で眠りにつくことができそうだ。サラの毛布をかけ直して、ルームライトを消した。
おやすみ。
――今、何時だろう。
新月に近いのか雲があるのか、部屋は真っ暗で最初は自分の目が覚めていることにも気が付かなかった。辛うじて窓から差し込んでくる街中の光が、ここが眠りについた部屋であることを報せてくれる。少なくともまだ朝まで時間がある。起きてしまったのは声が聞こえたからだ。そう大きな声ではない。けれど聞き逃すわけにはいかない、……押し殺すような泣き声。
この部屋には二人の人間しかいない以上、すぐ近くですすり泣いているのはサラで間違いない。彼女にはそうする理由がいくらでもあるから、おかしいとは思わない。むしろ、昨日のことを考えれば日中が元気すぎたくらいだ。本当は無理に気を張っていたのかもしれない。
無言でマットレスから身を起こすと、ちょうど横になった彼女と視線の高さが同じになった。
……寝ている?
てっきり目が合うと思っていたのだけれど、彼女は仰向けで、それこそ枕に顔を抑えつけるようなことも、腕で目を庇うようなこともせず、ただただ閉じた目じりから涙を零している。
「Anya. Ne menj!」
悲痛な言葉が口から漏れ出る。
スペイン語でも英語でもないので意味はわからなかった。ただ、苦しいのだということだけが理解できた。夢の中にすら逃げ場所のない彼女のことを思って胸が苦しくなる。
「サラ……」
ここでこの子を起こすことが良いのか悪いのかもわからない。葛藤を抱えたまま何かしなければという思いだけでとった行動は、小さな声で呼びかけるという中途半端なもの。
当然、サラには届かない。
そっと立ち上がり、目を閉じて泣き続ける彼女を見下ろし、少し迷って手をとることにした。
強く握るのではなく、甲に重ねるように。俺は彼女の家族ではないけれど、今このとき近くにいる。それを伝えるために。
悪夢は眠りの浅いときだけの一過性のものだったのかもしれない。とにかく少し間を置いてから目じりから流れる涙がとまる。心なしか短く苦しそうだった呼吸も静かで長いものへと移っていた。ベッドに背中を預けて床に座る。腕を上げて手の甲は重ねたまま。
こうしている意味があるのかはわからない。もしかしたら、自分はこの子の助けになっているという実感が欲しいだけなのかもしれない。それでも、手の平に感じるぬくもりが、サラを真っ暗闇ではない世界に繋いでいるのだと、そう信じたかった。
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