第2話

 旅の始まりは上々だったはずだ。

 日本とは異なる車両の右側通行にもすぐに慣れたし、宿泊予定のドナウ川沿いのキャンプ場にも午前中の早い段階で到着することができた。あまりにも余裕があったものだから、この日予定していた買い出しの前にブタペスト観光を堪能してしまったほどだ。

 いくつかの博物館、美術館を梯子して、バイダフニャディ城にブダの地下迷宮と楽しんだ後、ハンガリー名物の温泉で汗を流した。さっぱりした気持ちで旅の必需品や食料品なんかを購入し、テントを張るためにキャンプ場に戻って来たころにはいい感じに日が傾いていた。叔父が数多く所蔵していたテントの中から選んだツーリング用のものを、風に飛ばされないように入念にペグダウンして夕食の準備を始めた。とはいっても、俺にはそこまでの調理技術はない。

 スーパーで買ったトマト缶をあけて玉ねぎやウインナーを加え温めただけのパスタソースをあえた、シンプルなスパゲティ。それだけに失敗する要素もなく、出来栄え自体は悪くなかった。

 いっしょに買ってあった缶ビールをあければ(先日十八歳になった俺はこの国では飲酒が許される)、自転車と温泉でかいた汗もあいまって最高の夕食になる、そのはずだったのだ。

 ならばなぜ、こんなことになってしまったのか。ことの起こりは食事を始めてしばらくしたころ。


 ――がさり、と何かが後ろを通る音がした。

 ……気のせいかもしれない。俺の背中には芝生の空間が広がっていて、さっき設営したテントと自転車があるだけだ。用事のある人間はいないはず。でも、絶対ないとは言い切れない。ショートカット代わりにこちらの設営スペースを通過するような不調法者がいたのかもしれない。軽く酩酊したまま振り向くと、見てしまった。ずんぐりむっくりした影が自分のテントの中へ潜り込んでいくのを……。

「へ?」

 何事? 熊、だろうか。

 道中何度もキャンプを繰り返すということで、野生動物についても多少は調べた。

 ヨーロッパ東部、つまりハンガリーを含むこの地域一帯にはヒグマの仲間が生息しているということも知っている。ただし、会うことがあるとすれば登山道の奥くらいで、旅に使う車道付近は危険性が低いという話だったのだけれど……。ましてやここはブダペスト。二百万人が住む都市圏である。まさか熊に襲われることなんて……。

 そこまで考えたところで、日本で見たニュースを思い出した。去年くらいに札幌で街中にヒグマが出たって話がなかったか。札幌は世界的に見て大都市と言っていいのでは……。

 怖っ! ちょっとでも可能性が思い浮かんだ時点で一気に酔いが覚めた。

 幸い、今ここは山の中ではない。俺以外にも人がいる。

 ほらそこにだって都合よく警察っぽい制服を着た二人組が。助けを呼ぼう。大きな声を出して熊(仮)を刺激しないように、こちらが移動して。

 テントの方へ視線を向けたままベンチから立ち上がり、じりじりとドナウ川沿いで何かを調べている風の警察っぽい人たちにむかって移動を開始する。

 今のところ、テントに動きはない。ただ丸い影が蹲っているように見えるだけ……。

「ん?」

 一つおかしなことに気が付く。てっきり野生動物だと思っていた影が靴を履いている。

 やや小ぶりなスニーカーのソールが、こちらを向いてテントの中に見える。俺が持ってきた物ではない。その証拠に、スニーカーからは細い足首とふくらはぎが繋がって、まるで正座をして頭を伏せているような形に……。どうみても人間だ。

 暗さに目が慣れてしまえばずんぐりした体形に見えたのも、ミリタリーっぽい丈夫そうなリュックサックだということがわかる。

 熊じゃなかった……。良かった……、のか? テーブルの上に置きっぱなしのスパゲティを賭けてリアルファイトをしなくてすむというのはありがたい。けれど、じゃあなんでこいつは俺のテントの中にいるんだ? 

 ……決まっている。窃盗だ。世界中どこの国でも手癖の悪い人間はいる。そんなやつらにとって、言葉の不自由な旅行者はカモなはず。助けを呼ぶのが下手だから逃げおおせる時間が稼げる。それに、いくら貧乏旅行と言ったって、多少はまとまった額のお金を持っているものだ。

 キャンプ道具というのは安いものばかりじゃない。こうしてキャンプ場を物色して周るやつがいてもおかしくないんじゃないか?

 妥当な推論に思えた。

 そうなると事情が変わってくる。警察官に助けを求めるのはいいが、大きな声を出したり、呼び出しに時間がかかっていれば、その間に逃げられてしまう可能性は高い。

 ああ、もしかして、一仕事終えた後に職務質問を受けそうになって、慌てて隠れている可能性もあるのか。なら、夕闇のキャンプ場に彼らがいる理由にも合点がいく。その仕事を邪魔してはいけない。幸い、テントの中の影はこちらには気が付いた様子はなく、じっとしている。放置したサイクルバッグの中身を調べているのかもしれない。残念だが、貴重品はそこにはないぞ。

 今、この優位性を活かして、あのリュックサックの上から抑えつければ安全に無力化できる気がする。そうして人を呼べば警官もやってくるだろうし、何も盗まれずにすむ。

 よし、そのアイデアで行こう。足音を潜めながら、それでも速やかに自分のテントへと向かうと、ここ、という距離で丸い影に向かって飛び掛か……、ろうとして失敗した……。

 踏み込む一歩手前に打ち込んであったペグとテントからのびる張綱。見事に足を引っ掛けた俺は両脚に溜め込んだエネルギーを全て意図しない形で放出し、自分のテントに転がり込む。

「うわっ!」

「〇◆%▽?」

 ねじ込むように横回転しながら咄嗟に抱き着いた相手はあろうことか捕縛しようとしていた泥棒その人。相手も予想外だったのだろう。つぶれたカエルの鳴き声とホラー映画の被害者の断末魔の叫びを足して四で割ったような小声の悲鳴をあげた。

 しかし、俺は俺で相手のことを考えている余裕はない。半端な転び方をしたせいか、腰、右肩、頭と何か所も強かに地面に打ち付け、とくに最後のやつの衝撃が凄かった。一瞬意識が飛びかけて、まずいという気持ちだけでなんとか失神を免れる。人間、やってみればなんとかなるものだ。じんわりと頭と体を襲い始める痛みに苦痛の声を上げながら、霞む目を無理やり見開くと――。

 目前に夜空があった。

 暗闇に淡く輝く光。黒なのか、はたまた青く瞬いているのか、全く異なるはずの二つの色に見える視界。

 時間差で襲い掛かってくる違和感。俺は今テントの中にいる。空は見えないはず。転倒のせいで仕事をしていなかった三半規管は遅ればせながら、痛みのある右肩の方を下だと言っている。ならこの視界には水平方向が映っていなければおかしい。

 加えて、落ち着いてみれば目前にある空はあまりにも狭い範囲でしかないということに気が付く。痛みで滲んでいた両目が視界一杯だと主張していた情報は、大きな額縁の中の絵画、あるいは飾られている宝石のようにただ目を奪っていただけで……。

「――――」

 小さな夜空が震えた。広大な宇宙に見えていたものが、一瞬で歪み、揺れ……。ここまで観察したところで唐突に目前にあるものが何なのか気が付く。

 瞳。すぐそこにあったのはどこまでも広がる世界ではなく一人の人間の頭部で、向こうは向こうでこちらを注視している。

 まずい。このテントの中にいるのは俺以外には窃盗の容疑者だけ。こうして見つめ合っているということは、捕縛するために抑えつけようとして失敗したということ。

 先制攻撃の優位を失った俺の前に犯罪者がいるというのなら、かなりのピンチのはず。単純な事実に考えが至るのはあまりにも遅く、相手には反撃のチャンスを与えてしまった。今こうして考えている間にも刻一刻と事態は悪化していっている……、はずなのに。

 一秒、二秒。無限に感じるわずかな時間が過ぎ去って、いくらなんでも泥棒も行動を開始するだろうと思った。けれど、見開かれた瞳はただそこにありつづけ、瞬きすらしない。

 なぜか俺も現状を打破しようとする動きをとれずにいた。

 無為な時間の中で脳裏に刻まれる情報が少しずつ更新されていって、ある一つの事実を俺に知らせる。唇がわなないている。

 瞳は揺れ、硬直した目の前の相手はまるで今にも泣きだしそうなのを我慢しているかのように震えているのだ。

 裏付けるようにぽろりと零れ落ちる夜空のかけら、ではなく涙。

 まるで、ではなく事実として落涙を抑え込むことに失敗した。

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