ヨーロッパ横断自転車旅行に出かけたら女の子の国外脱出を手伝うことになった

瓜生久一 / 九一

第1章 旅にトラブルはつきもの

第1話

 叔父が死んだ。

 年齢のわりには若く見える、子どものような目をした人だった。

 未婚で海外に恋人がいて、極めつけに職業は旅人。

 赤の他人なら「そんな人もいるだろうな」ですむ話かもしれないけれど、身内だと事情は変わってくる。御多分ごたぶんに漏れず我が家の両親も祖父母もよく叔父に対する愚痴を言っていたし、弟や自分の子が不安定な生活をしていればそれも仕方がないのかなとは思う。

 ただ、俺はそんな叔父のことがそれなりに好きで、だから旅先で病気になって命を落としたという話を聞いたときは相応に動揺もした。


 葬儀では遺影に向き合う勇気を持てず、顔を合わせた人たちが暗い表情で「いつかはこうなってしまうんじゃないかと思っていた」と話し合う様子を茫然と眺めていた。

 そのうちにある事実に気付く。

 斎場のどこかからすすり泣く声が聞こえる。当たり前といえば当たり前の風景。

 ただしそれは故人の両親である祖父母はもとより、少数の誰かではなかった。つい今しがたまで顔をしかめていた親戚が、初めて会った叔父と同年代の誰かが、個人差はあれ、目元に光るものを浮かべている。

 そうか、と急に腑に落ちるものがあった。

 みんな同じなのだ。それぞれに叔父との思い出があり、当たり前にそれを惜しんでいる。

 なぜ急にいなくなってしまったのか。もっと伝えるべき言葉があったのではないか。

 思いもしないうちに最後の別れになってしまった他愛もないはずだった日を思い出し、自責の念に駆られている。

 子どものころは悪童で、大人になっても責任を果たさずに危ないことばかりしていたとしても叔父は愛されていた。不慮の死をむかえたとしても、それは惜しまれるものだった。

 そう理解すると同時に、自然と前に目を向けることができるようになった。

 いつ撮ったものかもわからないようなスーツ姿の叔父の写真と目があう。大真面目なのにどこかいたずらを隠しているような、不敵でも親しみが持てる表情。俺の知らない、けれど確かに叔父だと思える姿がそこにあった。

 同時に、ある一つの決意が自分の中に生まれるのを感じた。

 けりをつけよう。

 まったく形になっていない、思えば不思議な結論。このときは何をしようと決めていたわけでもない。ただ、ちゃんと終わらせようと思った。

 悲しみはなくならないとしても、納得が欲しい。そのためにできることをするのだ。

 どこにも必然性のない決意は自然と心を満たし、時間をかけて具体的な計画へと姿を変えていった。


 それから一年。

 気持ちに変化はなく、俺は家族の反対を押し切って機上の人となった。

 行先はハンガリーの首都ブダペスト。

 叔父が命を落としたヨーロッパ横断自転車旅行のスタート地点である。



◇◆◇◆◇



 成田を出発してポーランドのワルシャワを経由し、やっと到着したリスト・フェレンツ国際空港。通称ブダペスト空港は、早朝というにも早い時間なのに混雑していた。ヨーロッパに数多あるハブ空港の一つで、ビジネスでの利用者が多いらしい。羽田や成田と変わらずスーツ姿の人が忙しそうに行き来している。

 そんな中でジャージ着用の俺は不審の目を向けられながら、ベルトコンベアの上を流れてくる荷物を待っていた。多くの人がソフトキャリーのスーツケースを一つ拾って歩き去っていく中、三つのカバンを確保してなお、まだ次の荷物を待つ俺の姿はやっぱり目立つ。

 しかも四つ目で終わりというわけではない。もう一つ、一番大きなやつを受け取らなければいけない。すっかり重くなってしまった台車をゆっくりと押しながら、手荷物受取所の端にあるカスタマーサービスへと向かう。

「別送品があるんですが」

「旅客券を確認してもよろしいですか?」

 たどたどしい言い方で伝える俺に、受付けをしていた女性がプロの笑顔で答える。

 英語はそれなりに勉強してきたつもりだけれど、いざ実地で使うとなると勝手が違う……。

 言われたとおりにデイパックから航空機のチケットを取り出して手渡した。

「少々お待ち下さい」

 そう言い残してバックヤードに消える女性。しばらくの間、ひとりぽつんと残されることになる。……そういえば飛行機から降りたし、ネットが使えるはずだな。

 先ほどチケットを出したばかりのデイパックの底をあさり、スマホを取り出すと電源を入れる。まもなく表示されたホーム画面の右上にアンテナは表示されない。契約している通信キャリアが、そのままでは国際ローミングに対応していないからだ。設定すれば使えるはずだけれど、かなり高いので今回はパス。お目当ては空港で利用できるFreeWiFiの方。

 すぐにそれらしい回線を見つけたものの、ログインの仕方に手間取っているところで空港職員の女性が戻ってきた。

「こちらでよろしいですか?」

 慌てて作業を中断してスマホをポケットに突っ込むと、目の前に台車に載った最後の荷物が運ばれてくる。

「はい、そうです」

 三角とも四角ともつかない、ところどころを段ボールで補強された特殊な形の袋。確かに俺の輪行袋だ。中には、今回の旅の要、叔父の遺品である自転車が入っている。

 自転車は航空機で運べる荷物だけれど繊細な機械なので、がんがんぶつけながら運ばれる一般の預け荷物として受け取るわけにはいかない。手続きを踏んだ上でこうして別途送付してあったのだ。

 ジッパーをあけて簡単に中身を確認してみる。うん、大丈夫そうだ。空気を抜いたタイヤはへにゃへにゃだけど、ホイールが歪んだ様子もないし、リアディレイラーがひん曲がったりもしていない。感謝の言葉を伝えてから、二つの台車を押して手荷物受取所の出口へと向かった。


 空港のロビーでWiFi設定の続き。家族に無事到着したことを報せ、自転車を組み立てる。とはいってもホイールを嵌めてタイヤに空気を入れるだけだけど。

 これまで部活で飽きるほどやってきたこととそう変わらない。

 ロードレース。舗装された路面を舞台にした自転車競技。

 去年の夏まで、俺はそれに命を懸けていた。この経験があったからこそ、今回の旅をやろうという気持ちになったとも言える。


 この世界に飛び込むことができたのも、叔父の後押しがあったからだ。

 他の多くのスポーツと同じかそれ以上に、自転車というものはお金がかかる。主要な備品はどれも何万円もするから、中高生のお小遣いで続けることは難しい。一般的には保護者の助けがあって初めて成り立つ部活動である。

 加えて、危険。ヘルメットの着用こそ義務付けられているものの、時速数十キロで走る以上、転倒すれば命に関わる。様々な安全対策が成されてなお、事故が起きるときは起きてしまう。

 だからみんな、俺の示した興味に反対した。それは俺の意志を軽々にあしらった結果ではなく、まともに勘案したから出た結論でもあった。発言が妥当であるだけに、説得できない。危険なことに大金を出させるだけの力は俺にはなかった。

 そういった理由で競技を始めることができずにいると、叔父はどこかから伝手をたどって中古のロードバイクを調達してきた。本当に突然だった。そして言うのだ。

「こんなときは説得しようとしても無駄だぞ。時間ばっかりかかっちまう。せっかく若いんだからまずやってみるんだよ。始まってしまったことを、兄貴はとやかく言ったりしないから。本当だぞ」

 どうやって知ったのか、自転車は背丈にあわせて概ね調整されていた。

 おっかなびっくり初めて走り出したときのことを、生涯忘れないだろう。

 それまでの人生で乗ったどんな自転車、乗り物とも違う。道具ではなく、今まで足りなかった体の一部のような感覚。重力から解放され、滑るように、飛ぶように前に進む。

 クリートの付いたシューズなんてまだ持ってなかったから、ペダルを裏返してスニーカーで思い切り踏み込んで走った。

 その感覚は羽ばたきにも似ている。脚を動かすたびに世界が広がっていく。自身に無関係なただ広い空間としてではなく、どこまでも自分の力でたどり着くことができる場所として。

 俺はあの日、空の飛び方を知ったのだ。


 妥当だから、適切な考えだから。そういって本心から目をそむけていれば見ることのなかった景色に魅了された。練習が苦しくても、目的がぶれなかったから続けられた。この努力が、自分を表彰台までひっぱり上げてくれたのだと思っている。


 形見分けの最中、叔父の遺体といっしょにヨーロッパから帰って来たこのクロモリの自転車を見つけたとき、自然と「これだ」という気持ちになった。あのとき教えてもらった方法を実践し、こいつをちゃんとゴールまで連れて行く。俺なりのけりの付け方。

 天国にいる、あるいはうっかり足を踏み外して地獄へ落ちてしまった本人へ、何かが届くかはわからない。むしろまだ現世でふらふらしているんじゃないかという気もするし……。

 どこまでも自己満足のための旅は、だからといって無意味なものだとも思わない。これもまた叔父から教えられた考え方だった。ただ自分のために楽しむこと。「誰かが楽しそうなら、みんなちょっとは嬉しくなるだろう」ってさ。

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