第3話
混乱したのはこっちだ。思わず走馬灯のように今日一日を思い出してしまった。
なんだよいったい。小さな我が家に入り込んだ泥棒を捕まえようとしたら失敗して、体中ぶつけた上に泣かれた。
「□◆×……」
そして絞り出されるように薄い唇から漏れ出たのは、鈴が転がるような音。決して大きな声ではなく、むしろ押し殺しているような掠れすら混じっているそれを、俺はそう感じた。小さな子ども、あるいは女の子なのだろうとやっと気が付く。何かを懇願するようにつぶやき続ける目の前の誰か、――やはり少女に見える――はまるで暴漢を前にしているかのよう。
理不尽だと思う。被害者であるはずの俺。今も肩と腰が痛くて、なんならたんこぶもできていそうな俺は、お互い以外に観測者のいないこの小さなテントの中で一方的に悪人にされそうになっている。いまからでもこの子をテントから叩き出すべきだと、冷静な自分が言ってくる。何か盗んだ様子もないし、未遂だというなら後は外の警官に任せておけばいい。
なるほど正解だ。同時に聞こえた言葉もあった。
『子どもと女性にはやさしくすること』
叔父の声で、あるいは旅に出ることを決意した、もう一人の自分の声で。
二択を迫られている。ただ、どんな決断をするところで、自分で決めたという事実は変わらない。ならより自然に、やりたいようにやる。
今のところ無事な左腕を地面について、上半身を起こす。
「大丈夫?」
続いて、転がったままの相手に手を差し伸べる。小柄な影は、俺の手の動きを見てびくりと身を揺らした。殴られる、とかそんな風に思ったのかもしれない。
「君が悪いことをしないなら、危害を加えない、約束する」
考えてみればさっきから日本語で話しかけている。なら、この国で相手に言いたいことが伝わる可能性は限りなくゼロに近くて、無駄な行為だったはずだ。
――けれど、少女は手をとった。
語調から敵意のなさをくみ取ったのかもしれない。あるいは、拳を握るわけでもなく差し伸べられた手に、相手を起こそうとする意図以外が思い浮かばなかったのか。それでも震えた体はそのままで、掴み返した手からは不安が伝わってきた。彼女は今も恐怖と戦っている。
上半身を起こし、崩した正座のような恰好で相手が座ったのを確認してから手を離す。少女は、握手をしようとしているような形で残った自分の左手を、ポカンと眺めている。
「君は誰?」
とりあえず日本語に反応がないことから英語に切り替えて問いかけてみた。
「……サ、ラ」
どうやら意図は通じたようで名前らしき音を聞き取ることに成功する。偉大な一歩だ。
「俺は太一。タイチだ。このテントは俺の」
「タイ、チ?」
「そう、タイチ」
よし、順調だな。思っていたのだけれど続いて聞こえたのは。
「私、英語、できない」
I can’t speak……。本当にこんなフレーズを使うことがあるんだな。
どうやら俺以上に英語は苦手な様子。意思疎通の二歩目で躓いてしまう。うーん……?
「ハンガリー語は?」
「できる」
まあ当然だろう。ここはハンガリーの首都だ。
「こっちはできないんだよ……」
テントの中は暗いから、相手の表情はよく見えない。ランタンはテーブルの方に置いてきてしまったし。でも落胆しているんだろうなということはわかった。
「「…………」」
どうにかする方法はないかとお互いに黙り込むことしばし。
やっぱりこのままテントから出て行ってもらおうか……、危害を加えてくる様子もないし。そう思っていたところで向こうから反応があった。
「……スペイン語、できる」
思わぬ言葉だった。なぜなら東欧であるハンガリーと西欧のスペインの間にはそこそこ距離があって、二つの言語が全然別のものだから。日本語とタイ語みたいな感じ?
そして、俺がその違いがわかるのには理由がある。
「俺も話せるよ、少しだけど」
日本語と英語以外で、俺に唯一理解できる言語がスペイン語だからだ。
それもこれも結局は叔父の影響だ。
スペイン語という言語はスペインという国だけで使用されているわけではない。メキシコ以南、南米大陸の多くの国は母語をスペイン語としているし、近年は北米でも英語に匹敵する普及率を誇る多極的言語なのだ。世界中をうろうろしていた叔父はこの言葉に堪能で、使えると便利だとよく言っていた。
俺は俺で自転車競技に本気だったので、叔父の言葉をわりと真面目に取り合って勉強した。
スペインは強豪国だし南米出身の有名選手もたくさんいる。もしも本気で競技を続けるなら語学だって強みになる。家でローラー台に乗っているときはだいたいNHKの外国語講座を聞いていたので、簡単な言葉なら話すことができる。
まさかこんなヨーロッパの東の方で役に立つとは考えてもみなかったけど……。
「良かった、お願い、話を聞いて。決してあなたに…〇×◆□▽……」
今までの片言とは違う。猛烈なペースの語りは一瞬で俺のリスニング能力を決壊させた。
「……待って、速すぎるとわからない」
「ごめん、なさい」
しばらく俺の言語のペースを探って会話を続け、お互いにかなりゆっくりと単語を選べば意思疎通ができるという結論に達した。噛んで含めるような言い方をされるのはもどかしいけれど仕方ない。
「私を、匿って欲しい」
やっと本題に入れるという段階になって「なぜここにいるのか」を問いかけたときの反応がこれだった。
「なんで?」
言いたいことがわからず、訊き返す。
「追われているから」
「誰に?」
「……たくさん」
どういう意味だろう。夕方のキャンプ場でこの年の子がかくれんぼということもない。
「…………」
だまって続きを促したものの回答は沈黙。
スペイン語での会話になってから彼女は流暢に話し続けていたから、語彙の問題ではないのだろう。どちらかと言えば話自体をするべきかどうか迷っている?
「……少なくとも警察はだめ」
動揺するのに十分な言葉だった。
最初は泥棒だと思った。そのまま考えれば自然とすら言える発言。
けれど、彼女の話し方は真摯だった。だから、どこかで彼女が悪事を働こうとしていたわけではないと思い始めていたのかもしれない。
「……どうして?」
「信用できない……」
自分が罪を犯したから、という答えではなかったことに少し安堵する。けれど、続いて出た言葉で全部消し飛んでしまった。
「……あいつらは、お母さんを殺した……」
驚愕で何も言えない。警察が人の命を奪う。
サスペンスの世界ではときどきあることなのかもしれない。
それは現実にあってはならないことだからこそ、物語に意外性を与えるのだろう。目の前で実際に言われてしまえば、なぜという疑問すらも安易には口に出せない。
旅先で会った人間を簡単に信用してはいけない。無情に聞こえるだろうけれど、寄る辺のない旅人にとっては半ば常識と言っていいスタンス。今まさに原点に帰るべきだと理性が言っている。例えばこれは手の込んだ寸借詐欺で、目の前の少女のように敵意を受けにくい見た目を利用して、人を騙そうとしているのかもしれない。どこか現実的でない部分があるにせよ、悪に染まった公的機関と敵対して逃げているというストーリーほど荒唐無稽ではない。
キャンプ場荒しをやりながら、首根っこを捕まれたらお涙頂戴の物語をでっちあげて見逃してもらう。そう表現してしまえばありえる話だと思った。
「……信じられないのはわかる。だから説明するかどうか迷った」
疑いが顔に出ていたというわけではないと思う。ただ、真っ暗になりつつあるテントの中でもこちらの気持ちは伝わってしまったらしい。
そんな状況はお互い様で、彼女の今の気持ちも、慣れないなりにスペイン語の口調から類推できた。
失望ではなく諦観。どうせこうなると思っていた、という彼女の言い方は正しい。
そんな、年恰好にそぐわない冷静さが、――なぜだかわからないけれど、すごく嫌だった。
「それで?」
「え?」
「迷ったけど話した。それなら続きを教えて欲しい。このままじゃ、落ち着かない」
精一杯頭の中の語彙を拾い集めながら、できるだけ落ち着いた言い方を心がけて言った。予想外だったらしいこちらの反応に驚く気配。
いいさ。最初にこの子に手を差し伸べたときから、追い出すという選択をしなかったときから、合理的な判断なんて捨てている。こんな中途半端に話を聞いて、全てを投げ出そうなんて気にもなれない。
「……信じてくれるの?」
「わからない」
ただ本心を伝える。
彼女を信じたいかどうかではなく、彼女の身の上がそこまで不幸であって欲しくないという気持ちがあるのかもしれない。
「…………」
どう受け取られたのかわからないまま、沈黙の時間が過ぎた。
短かったようにも長かったようにも感じるそのあと。
「――ちょっと長くなるけれど……」
そう前置きしてから、なぜ俺たちがテントの中でこんな出会いを果たすことになったのか説明を受けることになった。
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