第8話 罪びと
それから一週間後、妻がマンションを出て行った。
仕事から帰って来た時には妻の私物は一切無く、ダイニングテーブルには、妻の筆跡で書かれた署名と捺印済みの離婚届けが置いてあった。
妻も弁護士だ。同じ事務所で働いているわけではない。だから気まずくなることもないし、慰謝料も必要がないのだろう。
優秀で美しい女性だ。俺の代わりはいくらでも現れるに違いない。
『離婚に応じて頂ければ、慰謝料等の請求は一切致しません。お互いの為、別れましょう』
彼女らしい、さっぱりとした文面だった。
離婚届けを手にしながら思い出すのは奴の顔だった。
悪夢は続いていた。
あの店には、あれから一切近付いていない。
奴のせいで、俺の人生が壊れようとしている。なのに、奴の存在を近くに感じている。
いつも、どこからか見張られているような気がする。でもそれは、自意識過剰なだけなのかもしれない。
「…………」
奴を思い出すと、喉が渇く。
あの店へ行かなくてはいけないような気持ちになる。
こんな時でさえ……。
その時突然、インターホンが鳴った。
「……まさか」
ロビーからのチャイムに一瞬呆然として、弾かれるように立ち上がった。
奴が来た。やはり、見張られていたんだ!
怒りが湧き上がり、モニターを覗き込む。
「え?」
奴ではなかった。
女性だ。拍子抜けした気持ちで画面をよく見れば知っている顔だった。
「こんばんは。夜分すみません」
事務員の安田さんはカメラ越しに、いつもと同じように微笑み、ゆっくり深々と頭を下げた。
「これ、櫻井さんですよね?」
「…………」
安田さんは「折り入って話がある」と告げ、玄関先で一枚の写真を取り出した。暗視カメラで撮影したと思しき、粒子の荒いモノクロの写真だった。
あの店で、奴から犯されている。いや、写真だけみれば、それは合意の上での濃厚なプレイ写真にしか見えなかった。
「いったいコレは……」
「三千万円でいいです。キャッシュでお願いします」
「……え?」
安田さんは穏やかな口調で言った。
「私、櫻井さんが好きでした。できれば奥様と別れて、私と結婚して欲しかったです。でも……櫻井さん、男の人が好きなんですよね? だから私、最初に奥様にこの写真見せたんです。真っ青になっていました。お気持ちは痛い程分かります。私もショックでしたもん」
「……君が?」
「はい。上手く撮影できて良かったです。櫻井さん無用心ですよ? いくら地下の目立たないお店だからって……あんなところで堂々と」
「……そ、だな」
「あ、誤解しないで下さい。私、櫻井さんを脅迫する気はありません。ただ、傷ついた気持ちを慰める為に、お金が欲しいだけなんです。慰謝料みたいなものです。お金を渡してくれたら、事務所も辞めます。もう二度と、櫻井さんの前に姿も現しません。なので安心して下さい」
「どこかへ引っ越すの?」
安田さんは俺の問いに、ニコッと笑顔になった。
「ええ。実はずっとハワイで暮らすのが夢だったんです。そのためにコツコツ貯金もしていました。櫻井さんが助けてくだされば、夢が実現します」
「そっか……分かったよ」
「ホントですか? ああ。良かった! あ、私になにかあったら、私の友達が警察へ連絡することになってるんです。だから、余計な考えは捨てて下さいね?」
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