第9話 目覚め

 覚えている会話はそこまでだった。

 気が付くと安田さんは腕の中で干からびていた。形相はまるで恐ろしい化物のようだった。


 吹き抜けるひんやりとした風に「外だぞ」と頭の中で警報が鳴り響く。なのにショックで身動きとれない。恐る恐る顔を上げ、周りを見回す。


「どこなんだ……ここは」


 薄暗い。建物と建物のわずかな隙間。まったく見覚えのない景色。


みのるくん」


 どれくらい、安田さんを抱えて呆然としていたのだろう。頭の中で名前を呼ばれ振り向くと、奴が立っていた。安田さんをそっと横たえる。フラつく足取りで近寄り、奴に掴みかかった。


「お前か? お前が俺を操ったのか?」

「操ってなんかいないよ? 全部、あなたがしたことだ」


 暗い目で諭され、手の力が抜ける。ガクリと膝から落ちるのを、サッと抱きしめられた。強く抱きしめられてホッとする。

 いやいや。ちょっと待って? なんでホッとしてんの?


 心の動きに焦った俺は、気力を振り絞り言った。


「いや、お前のせいだ。あの店で、お前が変なものを飲ませたから……」

「はぁ……いい加減にしてよ。とりあえず店へ行こう」

「なっ! お、俺は、もうあそこへは行かない!」


 キッパリ言った途端、もの凄い力で首根っこを掴まれた。首が絞まる。


「うっ……」

「手荒なことはしたくない。あなたを守る為だよ? お願いだから車に乗って?」


 じゅ、十分、手荒じゃないかっ!


 声も出せずコクコクと頷くと、奴は手を離し言った。


「すぐに戻るから。ここで待ってて?」


 奴は俺たちがいる暗闇の隙間から、表通りへサッと姿を消した。

 一分、二分、三分……時間が過ぎていく。


 まだか? いつまで待てばいいんだ。もし、他の人間がここを覗いたら? 誰かが警察に通報したら? 


 不安に押し潰されそうな気持ちが極限に高まった頃だった。奴の足音が聴こえた。奴の匂いもする。

 ああ……、もう来る。

 安堵に深い息を吐くと、大きな旅行カバンを手に奴が戻ってきた。


「お待たせ」

「……ああ」


 奴は慣れた手つきで、干からびた安田さんを折り曲げビニール袋へ詰めると旅行カバンへ押し込んだ。


「さぁ、これで死体は消えた。車へ行こう」

「…………」

「コートも持ってきたよ。そんな薄着じゃ怪しまれる。着てよ」

「あ、うん」


 己を見下ろせば、上着を脱いだワイシャツ姿のままだった。


「はい。マフラーもあるよ」


 コートに袖を通すと、奴は俺の首に柔らかく暖かな、肌触りのいいマフラーを巻いた。カシミヤだろう。キャメルと赤のチェックのマフラーが口まで覆い隠す。


「これでよし」


 満足そうに微笑むと、奴はさっさと表通りへ出てしまった。慌てて後を追う。さっきまで手に持っていた旅行カバンを、今度は四輪を使い、カラカラと押して歩く。冬コートを着て歩く後ろ姿は、どこからみても旅行に出掛ける姿にしか見えない。


 ああ。俺もだ。奴が持ってきた上着。高級で暖かなシックなネイビーのコート。そして顔半分を覆うマフラー……。

 行き先は……そう、まるで海外旅行へ出かけるようだ。

 そんな俺たちを、通り過ぎる人は誰も振り返えらない。風景に溶け込んでいる己を感じる。万が一、前を行く美形を記憶する人間がいたとしても、その数メートルうしろで寒そうに首をすくめ歩く男に特別な印象を抱く人間はいないだろう。


 百メートル程歩くと、更に賑やかな通りへ出た。交通量も多い。

 奴は道路沿いのパーキングへと入って行った。


「この車だよ。後ろへ乗って?」

「ああ」


 黒の大きなセダン。後部座席の窓ガラスは暗くて車内が見えない。それを確認して、またホッとして後部座席へ乗り込んだ。

 奴が大きな旅行かばんをヒョイと持ち上げ、難無くトランクへ積んでしまう。人ひとりが入っているようには見えない。

 奴はひょっとして怪力なのか?

 そう思いながら、さっき絞められた首を撫でた。


 ビルの地下三階にある駐車場に車を停め、奴と一緒にあの店へ戻った。もちろん旅行カバンの中に入っている安田さんも一緒だ。


 奴に何があったのか説明を求められ、今夜の出来事を話した。

 ひとつを除いて。


「そっか。……もう大丈夫だよ?」

「でも、安田さんが」

「彼女は悪人だったんだよ。気に病む必要はない」

「だからといって死んでもいいわけじゃない」

「どうして? 彼女に脅迫された人達は? 過去に家庭崩壊に追い込まれて首を吊った人がいたとしたら? もしかして実くんの奥さんだって、一歩間違えれば自殺したかもしれないよね? 実くんの奥さんは強かったみたいだけどさ」

「……安田さんが、そんな人間だったなんて…」

「獣が上手に人間の皮を被っていただけだよ。実くんだって万能じゃない。全部が見通せるわけじゃないんだから」


 その言葉に奴を見上げた。


「本当は全部、思い出しているんでしょ?」


 奴はそう微笑んだ。


 その微笑みは俺の記憶していたものとは微かに違う。それが何故なのかも思い出した。


 初めて俺を見た時の恐怖の表情。快感に歪む眉。二人で見下ろした世界。絶望に染まる瞳……。


 でもそれを言葉にできなかった。一度にいろんなことが起こりすぎて消化できない。そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、目の前の男は俺の返事を待たず言葉を続けた。


「実くんの能力は、バンパイアの能力だよ? 相手のオーラを見る能力。善人か悪人か瞬時に見えてしまう。あなたはその能力をフルに活かして、多くの冤罪で投獄された人や、犯人に仕立て上げられ恐怖に震える人達の無罪を勝ち取ってきた」

「…………」

「分かっていたでしょ? そして信じていた。これは冤罪だと。だからあなたの言葉には説得力があった。あなたが仕事を受ける受けないの判断基準はそこだった」

「…………」

「だから、これは正解なんだよ? 彼女は人の生き血を吸うダニだった。俺たちの仲間でもない。人間の皮を被った獣だよ。簡単に言えば害虫駆除さ」


 干からびてしまった安田さんが入っているカバンを見ていると、奴が囁いた。


「……で、俺のことは? 思い出した?」

「思い出した」

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