第6話 魅惑の一杯
「いらっしゃーい。やっときたね」
あの時と同じように、彼はカウンターの中でグラスを磨いていた。オールバックにした髪。白いシャツ。背筋のピンと伸びた美しい姿勢。ダウンライトがカウンター内を白く照らす。その光の中の彼は、まるで天使のようだ。
そしてあの時と同じように、一人の客も無い。
今日は金曜日。週末だというのに、こんなんで商売が成り立つのだろうか?
「んんっ。ああ……」
声がスムーズに出ない。喉がカラカラだ。ここにくると無性に喉が渇く。
そうだ。だから俺は……飲み過ぎてしまったんだ。
「店の中の空気が、乾燥しているんじゃないか?」
「そっかな? 立ってないで座ったら?」
「…………」
スツールに浅く腰掛け、カウンターに肘を突く。挨拶抜きで言った。
「俺の会社に電話、した?」
「ん? なんのこと?」
トボけた表情にグッと奥歯を噛む。
挑発に乗ってはいけない。
「いや……なんでもない。気にしないでくれ」
「そう? んで、なにを飲む?」
「いや。今日は飲まない」
そう、キッパリ断ると、彼はニヤリと微笑んだ。
「なに? 俺が酒になにか盛ったとでも思ってんの?」
「……そうは言っていない。でも、酒で失敗したんだ。当分、酒は飲まない」
「失敗? あはははは!」
男は思い切り声を上げて、無邪気とも思える笑い方をした。
なにがそんなにおかしいのか。楽しそうな表情を浮かべる男を無視して、俺は粛々と言葉を続けた。
「……俺は大人だから。自分の失敗はちゃんと認めるよ?」
「そう。で、あんたは何しに来たの? 失敗を認めて? それで?」
笑顔のまま、突き放すように言われた。その目はギラギラと輝き、俺に怒りを感じているようだ。
「教えてくれ。俺は君に何かしたのか? どうして俺はここを訪れた?」
冷たさを感じる整った顔立ちの男は、こちらが戸惑うような圧を放ち、その視線で俺をがんじがらめにしながらフッと視線を逸らした。俺から背を向け、細長いカクテルグラスとシェーカーをカウンターへ並べる。
今日は飲まないと言った。
でも男の動作を止めることができない。
男はシェーカーに大きな氷を二つ、それから透明な液体と赤い液体を注いだ。蓋を被せ、リズミカルにシェーカーを上下に振る。
シャカシャカと小気味いい音と、漂ってくるフルーティーな甘い香り。
口内にどんどん唾液が溜まっていく。
男はシェーカーの蓋を開き、赤い液体をカクテルグラスへ注いだ。次に切ったライムを三本の指でつまみ、グラスの上で弧を描きながら絞る。プシュッと微細な飛沫がグラスに降りかかった。その飛沫がスローモーションで落ちていく。見ているだけで口内に新たな唾液が溜まり、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「はい」
スッと、目の前に差し出されるグラス。
目が吸い寄せられる。
男は軽い口調で言った。
「客じゃないなら話はできない。俺と話がしたいなら飲んでよ」
「……分かった……。一杯だけ……」
「一杯で十分だよ?」
楽しげな声が聞こえる。
指先が震えそうになるのを堪え、カクテルグラスをそっと手に取った。
正直、喉の渇きは我慢出来ないところまできていたのだ。
この前と同じ。甘い香りが鼻腔をくすぐる。心が沸き立つような香りだ。なんだろう……? さっきのライムとは違う。この甘い香りは……
ゴクッ。
口の中に広がるのは、やはり経験したことのない甘味。でもどこか懐かしい味。子供の頃か? 俺はこの味を知っているような気がする。
この前もそうだった。何かを思い出せそうな気がした。でも、経験したことのない美味さに、つい飲み過ぎてしまった。魂を揺さぶる……と言ってしまっては大げさだろうか? でも、それぐらい美味しく感じるのだ。
「……ああ……美味いな……」
「でしょ? 自信作だからね」
「アルコールがきついのか……頭がボーッとしてきた……」
「ふふっ。そんなにキツくないよ? それにまだ一口しか飲んでない」
「そうだな」
一口飲んだだけでは渇きは潤せない。
俺はもう一口、カクテルを口に含んだ。舌の上に広がる、芳醇で爽やかな甘味。喉を通り抜ける快感。
身体の隅々に染み込んでいくような……。
気がついたら夢中で飲み干してしまっていた。
「……全部飲んじゃったね」
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