第5話 tears of blood

 週末。俺は仕事を終え、例のビルへ向かった。

 時間は二十時。


 地下へ続く階段を見下ろしながら、俺はまだ迷っていた。

 勤務先へ電話を掛けられるのは困る。やめてくれ。そうハッキリ言ってしまえば向こうは足元を見て強請ってくるかもしれない。

 そもそも俺はあの時、あの男に名刺を渡したのだろうか? その記憶さえあやふやだ。もし最初から強請りが目的だったら? 


 考えれば考えるほど、首筋に得体の知れない恐怖が忍び寄ってくる。

 あれは突発的なものだと思っていた。要は事故みたいなものだ。忘れてしまうのが一番いいはず。それが仕掛けられた罠だったとしたら?


 その時ふと閃いた。


 あ、そうだ……きっとニュースで流れたから……。


 一夜限りの相手だと思っていた男が不意にテレビ画面に現れたら誰でも驚くだろう。相手の素性も知れる。思わず電話をしてみただけなのかもしれない。悪気はなかったのかも? ここは何食わぬ顔で店へ入り、相手の目的がなんなのかを探った方がいいのではないだろうか? 


 そう、グルグル考えを巡らせているうちに時間だけがどんどん過ぎていく。ビル正門の自動ドアの開閉音に振り返れば、週末を楽しもうと数人の若い男女が賑やかに入ってきた。エレベーターを呼び待ってる間、ひとり所在無げに立つ俺へ冷たい視線を投げて寄越す。


「……ふう」


 せっかくここまで来たんだ。迷っていてもしょうがない。


 俺は階段を一段降りた。

 そのバーは、ビルの『地下二階』にあった。


 あの日、 階段を降りて地下一階へ辿り着き、ジャズバーの店の前で扉を開けようとして躊躇した。「違う」と、奇妙な違和感を感じたのだ。


 直感めいたモノを感じるのは、俺の場合そんなに珍しいことではなかった。だがいつも『直感』を感じるのは仕事中。弁護の依頼人に接見した時だけだった。こんな……よりによって気まぐれで寄った店の前で、それを感じるなんて、と不思議に思った。


 不思議だと思いつつ、直感に従うべきだと頭の中でもうひとりの俺が告げている。

 しかし、エレベーター内の案内板に載っていた店はこの一軒だけだったはず。店内を覗くべきか? 


 迷いながら周りを見回し、さらに地下へ続く階段に気づいた。

 まだ地下があるのか? 今度こそ倉庫だろうか? 案内版に載らない店などあるだろうか? その意図は?


「…………」


 でも俺の直感は、こちらだと告げている。その直感に俺は従ったのだ。

 下へ続く階段には、薄暗いが照明も灯されていた。それに勇気を貰い、階段を降りた。

 そこに、その店はあった。


 ―― tears of blood ――


 随分と悪趣味な店名だなと思った。

 ドアの横には『OPEN』と殴り書きしてあるボード。やる気の感じられない字だ。そもそもここは飲み屋なのだろうか? バーのような雰囲気ではあるが……。


 なにかに急かされるように、俺は黒いドアノブを掴み引いた。


 洞窟。


 それが第一印象だった。洞窟のような薄暗い店。

 初めてここを訪れた時は、暗闇かと思った。でも、目が慣れてくると店全体が淡いオレンジ色に包まれているのが分かる。そのオレンジの照明は小さすぎて、まるで店自体が血の色に染められてるみたいだ。壁は一面、赤茶色のレンガで覆われていて、それが更に店を赤く染めているのだろう。


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