第4話
恭介が生まれたのは俺が二歳のときだった。母さんは俺よりも恭介に構うことが多くなり、その間、父さんが俺を見ていてくれた。それは当然のことかもしれないが、当時の俺はお兄ちゃんだからねと言われて寂しかったんだろう。子供だったからな。
恭介は卵アレルギーだった。そのせいもあって、母さんは食べ物に人一倍気をつけるようになった。だが、俺はアレルギーというものがどれだけ危険なものか、わかっていなかった。とにかく、恭介には卵を使ったものは食べさせてはいけない。食べたら体調が悪くなるとだけ聞いていた。
あれは出来心だった。俺が五歳のときのある朝、呼び鈴が鳴って母さんが玄関へ行った数分の間、俺の中でずっと燻ぶっていた嫉妬が表に出た。
「しゅんにぃの、たべたい」
俺は卵の入ったパンを食べていた。目の前にはまだ寝ている父さんの分が皿の上に載っていた。
「ここに一個あるよ」
そう言って、俺は皿を恭介の方へ動かした。
「パパのだよ」
「まだあるから平気だよ」
俺は嘘を吐いて促すように皿を突き出し、見せびらかすようにパンを頬張った。恭介は我慢できなくなったようで、パンをつかんで口に運んだ。
俺は怒られたらイヤだと思ってパンを急いで食べきり、テーブルから離れてソファの方へ移動してテレビに目を向けた。知らぬふりで押し通すつもりだった。
母さんがリビングに持ってくるのと、恭介が苦しみだしたのは同時のようだった。
「恭介!?」
恭介は痙攣し、口からヒューヒューという呼吸音が聞こえた。俺はこのとき何が起こっているのかわからず、呆然としていた。こんなにひどくなるとは思っていなかった。
恭介は病院に運ばれたが、亡くなった。俺は自分が何をしてしまったのか理解し、恐ろしくなった。
母さんは泣き崩れていた。父さんも母さんに寄り添いながら泣いていた。その背中を見て、俺は取り返しのつかないことをした絶望感に満ちた。両親は俺が何をしたのか知らない。俺は真実を話せず、目を離した隙に恭介がパンを食べてしまったという偽りの認識が残った。
その後の俺は、罪悪感にさいなまれ続けた。葬式のときは震える体を抑えようと俯きながらこぶしを握り締め、恭介の写真をほとんど見ることは出来なかった。夜、俺が眠れずにリビングへ向かうと、扉の隙間から母さんが自分を責める言葉を漏らしているのが聞こえた。
「俺も何も知らずに寝ていたんだ。お前だけのせいじゃないよ」
父さんは懸命に母さんを慰めていた。俺は部屋に戻って布団にもぐったが、全く眠れなかった。
小学校に上がっても俺は恭介のことが頭から離れず、友達を作るどころかクラスに馴染めずに孤立した。クラスメイトからは暗い印象を持たれたんだろう。
そのうち学校へ行けなくなった。俺は不眠症になり、部屋に引きこもるようになった。両親は恭介の死から俺の様子が変化したことに気付いていたが、それは弟が突然亡くなったショックのせいだと思っているようだった。
俺は夏休みまで引きこもり続けたが、その間、母さんと父さんは努めて明るく接してくれ、俺を責めることはなかった。転校するかということまで考えて俺と向き合ってくれる姿に、このままではいけないと思うようになった。罪悪感が消えたわけじゃなかったが、俺は秋から別の学校に転校し、学校へ通うようになった。恭介のことがあったのに、俺のことで両親を悩ませてはいけないという使命感のためだった。
それから俺は両親の手を煩わせないよう、人並みに良い子でいるよう意識した。ただ、それでも消えない罪から逃れたくなって、祖父母の家に行った際に睡眠薬を見つけたときは、家にいる間ずっと使ってしまおうかと考えていた。それ以外にも自殺を考える瞬間は絶えずあったが、いざとなると尻込みして結局出来ないままズルズルと今日まで生きている。
俺は高梨を見て言った。
「俺も嘘を吐いたんですよ」
「嘘って……?」
「一度、母さんに訊かれたことがあるんです。恭介がパンを食べていたのに気付かなかったのかって。俺は見ていなかったからって嘘を言いました」
「日高さんって一人暮らしですか?」
関口は俺の告白に驚いた様子を見せることなく、そう訊いてきた。
「そうだけど」
「実家に帰ってます?」
俺は関口から視線を外して答えた。
「いや、しばらく帰ってない」
「じゃあ、帰りましょう!」
「え?」
「日高さんには恭介くん以外に兄弟はいないんですよね? それなら、ご両親が元気にしているか様子を見てきたらどうですか?」
関口の提案に、俺は顔をしかめた。
「いや、でも俺は……」
「日高さんが行ってあげなきゃ、ご両親が寂しいんじゃないですか? 僕は兄弟が多いんで、そういう心配はあまりないんですけどね」
「私、一人っ子なんで関口くんの言うこと、わかります。今、日高さんのご両親を気遣ってあげられるのは日高さんしかいませんよ」
高梨にまでそう言われ、俺は困惑した。
「日高さん、僕に家族に会うよう勧めてくれたじゃないですか。僕と日高さんの状況はまるで違いますけど、それでも久しぶりに家族に会ってみるのもいいと思います。こっちに戻ってきたら、今度は日高さんが報告して下さいよ」
俺は、一人暮らしで家を出ていくときに見送ってくれた母さんの顔が脳裏に浮かんだ。
たしかにあれは少し寂しそうに見えた。
額から流れる汗をぬぐい、駅から家へ向かう足取りは重かった。帰省してみたものの、やはり恭介のことが頭にチラつき、手が汗ばんでくる。やめようかと思ったが、せめて父さんと母さんの元気な姿だけでもと思い直す。それだけわかれば、長居せずに帰ればいい。
実家の前に着くと、深呼吸した。普通なら、実家に帰るだけでこんなに悩むこともないんだろう。
俺はインターホンを鳴らした。少し待ってからインターホンを通して声が聞こえた。
「……瞬介!?」
カメラに映る俺の姿に驚いているようだ。
「うん、ただいま」
扉の向こうからドタバタと音がする。ガチャリと鍵が回り、扉が開いた。
「おかえり、瞬介。急に帰ってくるなんて、聞いてないわ。連絡くれればよかったのに」
「ごめん。驚くかと思って」
「ほんとにびっくりしたわよ」
母さんは優しく迎えてくれた。俺はそれだけで目頭が熱くなりそうだった。
久々の家の中は、俺がここを出たときとほとんど変わっていなかった。リビングも洗面所も俺の部屋も。
「お父さんは出掛けてるわ。何か飲む?」
「いいよ、母さん。自分でやるから」
「気にしないで、座ってて」
母さんにそう言われ、俺は甘えることにした。
「じゃあ、コーヒーで」
母さんが淹れてくれたコーヒーは美味しかった。しばらく仕事についてや、両親の体調などで雑談していたら父さんが帰ってきた。
「瞬介、帰っていたのか」
父さんは目を瞬いた。
「やっぱりお父さんもびっくりするわよね」
「母さんも父さんも元気そうで良かったよ」
「心配してくれているなら、もう少し早く顔見せてくれてもね」
「瞬介もいろいろ忙しいんだろう」
父さんが母さんにコーヒーを淹れてもらっている間、俺は隣の部屋へ向かった。そこにある仏壇に置かれた恭介の写真は、亡くなった三歳のときのものだ。あれから二十二年も経ている。本当なら恭介は今、二十五歳になっているはずだった。
仏壇の前に座って恭介の写真を見ていたら、いつの間にか母さんと父さんも入ってきた。
「恭介が亡くなったこと、私もお父さんもなかなか受け入れられなかったわ」
「……うん」
「でもね、瞬介が小学校に上がったばかりですぐに不登校になったでしょう」
「あのときはごめん。大変なときに迷惑かけた」
母さんはかぶりを振った。
「あれで目が覚めたのよ」
俺は首を傾げた。
「どういうこと?」
「恭介のことばかりに囚われていちゃいけないって。あなたがいるのに」
母さんの言葉に俺は二の句が継げなかった。
「そうだったな。瞬介も恭介のことがショックだったんだろう。わかっているつもりが、自分達で手一杯で目を向けてやれてなかった。それに気付いたんだ」
俺は俯いた。
背負う罪が重すぎて、ずっと逃げてきた。後悔はしても、向き合うことは出来ずにいた。俺は本当に、どうしようもなく弱い。
でも、もうこのままではいられない。
奥歯を噛みしめ、膝の上で震えそうになる手で拳を作る。それから顔を上げた。
「母さん、父さん……本当はあの日、恭介のこと」
「いいのよ、もう。わかってる」
母さんは俺の言葉を遮った。
「あなたも苦しかったのよね」
「何も言わなくていい」
俺は目の前の両親から視線を外した。涙をこらえることがどうしても出来なかった。
地元の駅まで戻ってくると一息吐いた。オレンジ色に染まった空を眺めたら自然と足取りが軽くなった。
「あっ! 日高さん!」
橋を渡っていると、向こうから関口が軽く手を振ってやってきた。
「なんか、清々しい顔していますね。もしかして、ご両親に会いました?」
「よくわかったな。……肩の荷が下りたんだ」
関口は安心したように顔を緩めた。
「そうですか! 良かったですね。じゃあ、高梨も誘ってまた行きましょう」
「あの居酒屋か。好きだな」
「あそこの玉子焼き、美味しいですから」
「玉子焼きか。……確かにそうだな」
「でしょう? 詳しい話はそこで聞かせて下さい」
俺は承諾し、関口と別れてアパートに戻る。荷物を置くと、ベッドに倒れ込んだ。
明日から仕事だ。また近いうちに実家に帰ろう。今までも、これからも恭介が出来なかったことをやっていく。
いつもの日常。それが今の俺に出来ることだ。
ー了ー
カインとユダ、そしてペトロ ー罪を背負う者ー 望月 栞 @harry731
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます