第3話
珈琲苑に入ると、奥の席へ通された。そこに座り、コーヒーを注文して目の前に座る高梨の様子を伺った。彼女は何と言おうか迷っているようで、テーブルに視線を落としている。俺は思いつくことを訊いた。
「仕事が原因ですか?」
高梨は一度俺を見て、また視線を下げる。
「……それもあります。でも、本当はもっと前からずっと考えていたんです」
「他にも何か?」
高梨はようやく顔を上げて、俺と視線を合わせる。
「私、高校時代に仲良くしてくれた先輩を裏切ってしまったことがあるんです」
俺は少々驚いた。そこまで遡るとは思わなかった。
「美術部に入ったばかりの頃、なかなか馴染めない私を気遣ってくれていた人がその先輩でした。でも、先輩は他の部員達から敬遠されていたんです。絵が上手くて、ルネサンス期の美術史の話をよくしていたから、周りは嫉妬や変わり者の目で見ていたんだと思います」
「なるほど。つまり……高梨さんもその先輩に対して、周りと同じ対応をしてしまったということですか?」
高梨は頷いて、俯きながら話し始めた。
「最初はわからなかったけど、先輩が部活の中で浮いた存在だと徐々に気付いたんです。私は省かれるのが嫌で、別の部員に先輩のことを訊かれたときに、そんなに親しくないから知らないって嘘を言ってしまったんです。先輩はそれを知っていたみたいで、その次の日から部活を辞めるまで、私に話し掛けてこなくなりました」
「じゃあ、それからその人とは全く……?」
「はい。先輩はクラスの中でもあまり周囲とうまくいっていなかったようで、転校したと噂で耳にしました」
「それじゃ、どうして今になって死のうと?」
「今の私はあの時の先輩と同じなんです。職場で周りから敬遠されています。自分のやったことが自分の身に返ってきて、先輩もこんなに辛かったのかと実感しました。自分も同じようにやっていたんだからと思って今まで乗り切ってきましたが、もう……しんどくなったんです」
「死ぬ以外に、高梨さんには今出来ることってないんですか?」
「私……」
「それをもう一度考えてみて下さい」
これは俺自身にも言えることだ。念のため俺は訊いてみた。
「あの、その先輩って何て名前ですか?」
俺の質問が意外だったらしく、高梨は面食らったような顔をした。
「先輩は……」
昼休憩になったのを見計らい、俺は給湯室にいた杉本に声を掛けた。
「あ、日高先輩。お疲れさまです」
「お疲れ。……あのさ、杉本って高校時代、美術部?」
「そうですよ。よくわかりましたね」
俺が高梨のことを話すと、杉本は「えっ!」と声を上げた。
「まさか、奈々ちゃんが先輩の知り合いだとは思いませんでした」
「知り合いというほどでもないけど。高梨さんから美術部の話を聞いたとき、杉本の話が出て」
「私ですか?」
「杉本のことで思うことがあるみたいなんだ」
「……そうですか。奈々ちゃんがね……」
「それで、杉本にお願いがあるんだけどさ」
杉本は首を傾げた。
日曜日の昼、俺は本屋へ行った。店内に高梨の姿がないのを確認すると珈琲苑へ向かい、窓から店内を伺う。高梨が奥の隅の席にいるのが見えた。俺は後輩に連絡を取り、店に入った。
店員の案内を断り、高梨の元へ近付いた。彼女は俺に気付くと、飲んでいた飲み物のグラスを置いた。
「またここで会うとは思いませんでした」
「昼はここへ来ると言っていたから、本屋にいなければここかなと思いまして」
高梨は目を瞬いた。俺は彼女の向かいの席に腰を下ろす。
「唐突ですけど、高梨さんはまた美術部の先輩に会いたいですか?」
「えっ」
高梨は言葉を詰まらせ、俺から視線を外した。
「先輩があの時のことをどう思っているかわからないですが、もし会えたら謝罪したいです。もしかしたら、もう先輩が私に会いたくないと思っているのかもしれませんけど……」
「そんなことないよ」
俺の背後から声が聞こえた。振り向くと、杉本が立っていた。
「久しぶり、奈々ちゃん」
「先輩……!?」
高梨は驚いたせいか、唖然としていた。
「日高先輩が私に奈々ちゃんのこと、教えてくれたの」
高梨は杉本から俺に視線を移した。俺は肩をすくめた。
「同じ会社で働いていて、杉本は俺の後輩なんです。世間は狭いですね」
俺の言葉が信じられないようで、高梨は一言も言葉を発さなかった。
「余計なお世話だったら申し訳ないですけど、杉本が来たので俺は失礼します」
俺が立ち上がると
「先輩、わざわざありがとうございます」
と杉本が頭を下げてきた。
「時間つくってくれてありがとな」
俺は店を出た。あとは当事者に任せよう。
人のことに首を突っ込むなんて、らしくないことをしてしまったなと思いつつ、駅の前を通り過ぎようとしたら呼び止められた。
「あっ、日高さん」
キャリーケースを引きながら、関口が歩いてきた。
「実家に帰っていたのか?」
関口は頷いた。以前会った時よりも、吹っ切れたような笑顔で言った。
「そのときに履歴書も書いて日高さんとこの会社に送りましたよ。今は連絡待ちです」
「そうか」
「職探し中だって家族に話したら心配されましたけど、でも理解してくれました。仕事が決まったら、店長の奥さんにお金を返したいと思ってます。それから、墓参りも」
「やることがはっきりしたな」
「はい。……あっ、帰って来たんでまた飲みましょう。詳しい話は日高さんと行ったあの居酒屋で」
私は突然の先輩の姿に目を疑った。さっきまで日高さんが座っていた席に座って私を見る。反射的に視線を逸らしてしまった。
「こうして二人で話すのも懐かしいね」
「……はい」
「急に来てびっくりしたよね。ごめんね」
「いえ」
先輩はいつの間にか注文していたカフェラテを飲んだ。表面にあったクマのラテアートが少し崩れていた。
「奈々ちゃん、私のこと嫌い?」
「えっ……!?」
思わぬ質問に咄嗟にかぶりを振った。
「嫌いなんかじゃないです!」
むしろ、先輩が私のこと……。
「それなら良かった。もしかして迷惑だったかなって思って」
「そんなことないです。ただ、その、ちょっと驚いただけです」
「そっか」
私は口が乾いてきた。自分が頼んだアイスフルーツティーを一口飲む。
「日高先輩から奈々ちゃんのこと聞いてさ……奈々ちゃん、もしかして部活のときのこと、気にしてるの?」
私は何か言うべきだと思ったけど、何も言えなかった。先輩がストレートにこうして言うところは、昔から変わっていない。
「私はもう気にしてないよ。当時は多少のショックを受けたけど、奈々ちゃんの気持ちもわかるから、話し掛けるの遠慮したんだ」
あぁ、そうだ。先輩は優しくていつまでもくよくよしない。私と違って引きずらない人だ。だから私は絵だけじゃなく、こういうところも先輩を尊敬していたし、憧れていた。
「奈々ちゃんは悩み出すと徹底的に悩むところがあるからね」
そうだ。私も変わっていない。前を向きたくても、すぐ後ろ向きなってしまう。簡単には変わらない。
「先輩みたいになりたいと思っていました。でも、考え方を変えられそうにありません」
「無理になろうとしなくていいんじゃない? むしろ疲れちゃうでしょ。とことん悩んで、誰かに吐き出して、それからまた一緒に考えればいいんじゃない? 今出来ることをさ」
「一緒に……?」
「そう。自分の頭の中だけだと答えが出なかったり、同じものしか出てこないからね。きっと奈々ちゃんは今、他に何か悩んでいることがあるんでしょ? それと私のこと、結びつけてない?」
「……すごいですね」
さすが先輩だ。
「ん? そうかな?」
まんざらでもなさそうに言う先輩の様子に、思わず笑ってしまった。
「話したくなければ無理にとは言わないけど、何かある?」
先輩の優しさが胸にじんわりと染みた。
母さんの虚ろな目が俺を射抜く。
「どうして……? どうして恭介にあんなことしたの?」
母さんの声が俺の耳に残る。冷や汗が止まらない。何か言いたくても声が出せない。
「あんなことしなきゃ、恭介は死ななかったのに!」
母さんが叫び、嘆く。知られてしまった恐怖で俺の手が震えてくる。
「母さん……」
「どうしてよ!」
母さんはその場に崩れ落ち、恭介の名前を呟きながら涙をこぼした。そんな母さんのそばに父さんが寄り添う。
「瞬介、お前のせいだぞ!」
父さんの怒りがぶつかってくる。
「……ごめんなさい」
そんなつもりじゃなかった。恭介が死ぬなんて考えてなかったんだ。
「弟を殺しておいて、お前は何で生きているんだ」
「ごめんなさい」
俺はそれしか言えなかった。父さんの視線に耐えられずに俯き、泣きそうになるのをこらえた。
欠伸をかみ殺してデスクに座ると隣に座る杉本に呼ばれた。俺達は席を立って給湯室へ移動した。
「昨日はありがとうございました」
「改めて言わなくてもいいよ。ゆっくり話せた?」
「はい。奈々ちゃんは仕事のことで悩んでいるようでしたけど、私と話して少しスッキリした顔をしてました」
「そうか」
杉本の話を聞いて少し安心した。そうしたら、また欠伸が出た。
「先輩って朝、いつも眠そうですよね。欠伸もかみ殺していること多いし」
「よく見てるな」
「いや、たまたまですよ! あまり眠れてないんですか?」
「そうだな。……夢を見ることが多いから」
「あぁ! 夢を見ているときって浅い眠りだって聞きますもんね。あ、そういえば」
「ん?」
「先輩と奈々ちゃんはどういう経緯で知り合ったんですか?」
「高梨さんが働いている本屋に俺が手帳を買いに行ったんだ。それで」
「ふーん」
「何だよ?」
「いえ、別に。そろそろ戻らないと部長に怒られそうですね」
そう言って杉本は先に給湯室を出ていった。
どうなるかと思ったが、杉本と会ったことで高梨はもう大丈夫そうだ。
翌々日、今日は気温が低いこともあって少し肌寒く感じる。
仕事の後に関口と以前飲んだ居酒屋に寄った。関口は先に来ていたが、何故かその向かいに高梨がいた。予想外で、俺は驚いた。
「日高さん、お疲れさまです。ちょうど駅前で高梨と会ったんで、誘っちゃいました」
「お疲れさまです」
高梨は俺に軽く頭を下げた。俺も挨拶をして空いている席に座った。
「この間はありがとうございました」
「たいしたことはしていないですよ」
高梨はかぶりを振った。
「先輩とまた話ができるなんて思っていませんでしたから」
「何の話?」
関口がメニュー表から顔を上げて首を突っ込んできた。
「高校時代の先輩に久しぶりに会ったの」
俺が答える前に高梨が告げた。
「へぇ、良かったね」
高梨は頷いた。
「私、店長に異動願を出したの」
「えっ、そうなの?」
「うん。そろそろ別の店舗に移って新しい環境で仕事したくて」
「早めに移れるといいですね」
「はい」
それから俺達は適当なものを店員に注文し、その店員が去った後、高梨が俺に訊いてきた。
「日高さんはあるんですか? 忘れられないこと」
いきなりだったので、俺は何も言えずに高梨を見つめ返した。
「関口くんもあったけど、日高さんの助言のおかげで一歩踏み出せるようになったって、さっき聞いたんです。日高さんはどうなのかなって話してて」
思いもよらない質問に俺は戸惑った。視線を外すと今度は関口とぶつかり、テーブルに落とした。はぐらかそうかと思ったら、関口の言葉で俺は戦慄した。
「きょうすけ」
思わず関口を見た。
「前に、ここで日高さんと飲んだとき、寝ちゃってましたよね? うなされていたんですよ。きょうすけって誰ですか?」
店員がビールを持ってきた。とりあえず俺はそれを煽る。背中に冷や汗がつたっているのがわかった。答えることに迷っていると、高梨が言った。
「すみません、答えづらかったらいいですよ。無理に話さなくても」
「僕は気になります」
「関口くん……!」
咎めるような高梨の声がした。でもそれを気にしていないのか、関口は続けた。
「僕と同じように罪を背負っている奴を知っているって、前に話してくれましたけど、それって日高さん自身のことじゃないですか?」
俺は諦めて溜息を吐いた。
「……そうだ」
「えっ」
高梨が驚きの声を漏らした。
「罪って何ですか?」
単刀直入の関口に対し、俺は腹をくくるしかないと思った。
「恭介は俺の弟だ。俺の罪は……あんた達よりも重い」
関口も高梨も口を挟まない。先を促されている。俺はビールを飲んだ。
「恭介は幼い頃に死んだ」
「その弟さんに何か関係が……?」
関口の問いには答えずに俺は続けた。
「昔から恭介の夢をよく見るんだ」
-続-
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