第2話

 休日の今日は、カフェで作業しようとノートパソコンを持ってマンションを出た。仕事に没頭すれば、今日も見た過去の夢も忘れられる。気に入っている珈琲苑へ向かうなか、ひんやりした心地良い風がそよぎ、道端に咲く紫陽花がユラユラ揺れている。

 珈琲苑の店内は混んでおり、出入り口に近い窓際の席へ案内された。腰を下ろそうとしたとき、隣の席に座っていた客と目が合った。高梨だった。思わず「あっ」と声が出てしまった。

「どうも」

 とりあえず会釈すると、声を出さずに驚いていた高梨も会釈を返した。

「この前はありがとうございました」

 突然お礼を言われて、何のことだかわからなかった。それが表情に出ていたのか、高梨は付け加えた。

「あの、本屋で散乱した文庫本を拾って下さいましたよね」

 あぁ、あのことか。

「たいしたことはしていません」

「本屋のお客様の中に関口くんのお友達がいるとは思いませんでした」

「あ、いや、友達では……」

「違うんですか?」

 俺はどう説明しようか迷ったが、結局は「ただの知人です」とだけ言った。

 高梨はあまり腑に落ちない様子だったが、関口との出会いを話すのは面倒なので、こっちから質問した。

「関口の同級生だと伺いました」

「そうです。高梨奈々子って言います。高校の時以来会ってなかったので、この間はビックリしました」

「そうですよね。……あっ、俺は日高瞬介です」

 高梨に名乗られたので、俺も咄嗟に名乗った。店員がお冷を置きに来たので、ついでにコーヒーを注文する。

「関口が、高梨さんは美術部で絵が上手だって話していましたよ」

 聞いたことを何気なく言ったのだが、途端に高梨の表情が何故か固まった。あれ? と思ったら、しだいに色を失っていった。

 何かまずいこと言ったか?

「……大丈夫ですか?」

 俺の言葉に高梨は、はっと我に返ったようだった。

「あ、すみません……。そうです、美術部でした」

 声がだんだん小さくなった。嫌な思い出でもあるんだろうか。俺は話題を変えようと、関口の手元にあった本に視線を移した。『レオナルド・ダ・ヴィンチ~「最後の晩餐」の謎~』というタイトルだった。

「そういえば、ダ・ヴィンチが好きだとも聞きました」

 俺がそう言うと、高梨の声が元に戻った。

「はい。ルネサンス期の絵に興味があるんですが、特にダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に惹かれるんです」

 その絵を頭の中で想像した。晩餐のシーンは様々な画家が描いているが、ダ・ヴィンチのようにユダを他の使徒と同じように並べて描くのは珍しいと、以前杉本が言っていたような気がする。

「ユダに似ているな」

 関口を思い浮かべて呟いた。すると、高梨が素早く反応した。

「えっ? 何がですか?」

「あ、いや、知り合いがね」

 高梨は視線を落として言った。

「私は自分がペトロに似ていると感じます」

 その名前に聞き覚えがあった。だが、美術や聖書に詳しくない俺は、ペトロがどういう奴だったかわからない。

「お仕事は何されているんですか?」

 話題が急に変更され、一瞬戸惑う。

「えっと、俺は、会社で人事やっています」

「楽しいですか?」

「楽しいと感じたことはないですが、これといった不満はないです」

「そうですか」

「高梨さんを本屋で見かけたことを話したら、関口は驚いていましたよ」

「……そうでしょうね」

 俺は気になって訊いてみた。

「ペトロは使徒の中の一人ですか?」

 高梨は頷いた。

「この間、関口と後悔していることについて話したんです」

 高梨は目を見開いて俺を見た。

「関口はあるようです。ずっと引きずっていたみたいですが、どうにか前を向くようになったようです」

「それはいいことですね。……それを行なうのって難しいことでもあるんですけど、結局は今出来ることをするしかないんですよね」

 俺はこの高梨の言葉が引っ掛かった。俺の出来ることって何なのだろうか。

「あっ、私、そろそろ行きます。ここへは昼休憩で来ていたので」

 そう言って高梨は立ち上がり、伝票を持ってレジへ向かった。俺の脳裏では高梨の言葉と弟の姿が巡っていた。


 起きて窓を開けてみると、雨の匂いがした。昨日テレビで天気予報を確認したが、やはりこれから雨が降るようだ。急いで支度を済ませ、キャリーケースを片手に部屋を出た。

 二時間ほど新幹線に乗り、それから三十分ほど電車に揺られた。さらに駅からバスに乗って十五分。ようやく実家だ。みんな、良い子にしているだろうか。

 家の前にお母さんがいた。自転車を止めていて、籠には大きい買い物袋が二つ入っている。今日は少ない方だな。

 お母さんが僕に気付いた。ニコッと笑った。

「おかえり。早かったねぇ」

「ただいま。雨降りそうだったからさ、早めに出てきたんだ」

 家の中に入ると次女の海羽が洗濯籠に大量の洗濯物を入れて運んでいた。

「あ! 諒兄ちゃん、おかえり」

 海羽の声が聞こえたのか、リビングや二階から兄弟達がやってきた。

「諒兄だ!」

「おかえり~」

 三男の潤と三女の天音、四男の慎介だ。

「ただいま」

 リビングに入るとお父さんがコーヒーを飲んでくつろいでいた。

「おう。帰ったな」

「うん」

 以前使用していた部屋は、今は潤が使っているので僕はリビングにキャリーケースを置いた。海羽は洗濯物を外に干し、潤がキッチンで皿洗いをし、天音はテーブルで勉強している。慎介はテレビを見ているが、みんな良い子にやっているようだ。長女の芽依は高校の寮で生活しているから家にいないのは当然だけど。

「竜真は?」

「最近、コンビニのバイトを始めたんだよ。今はバイトに行ってるよ」

「そっか」

 次男の竜真は奨学金で短大に行っている。以前やっていたパチンコのバイトは厳しくて辞めたと聞いていたけど、今度はコンビニにしたのか。

「お母さん、今日はパート休み?」

 お母さんは僕の問いに頷いた。

「昼ご飯の用意をするから、待ってて」

 それから僕はいつ仕事の話を切り出そうか考えながらご飯を食べた。久しぶりにみんなで食べるご飯は美味しかったけど、そっちのことで頭がいっぱいで途中で手が止まったり、テレビやみんなの会話の内容が耳に入ってこなかった。

 ご飯が食べ終わると、潤と天音はこれから友達と遊ぶと言って出掛けて行った。海羽は勉強すると二階の自室に引き上げていく。慎介はソファで寝ていた。

 そろそろかと、僕は話し出した。

「あのさ、今、仕事探している最中なんだ」

「え?」

 お母さんが目を丸くして僕を見た。お父さんも僕に視線を向けている。

「前の定食屋の仕事、辞めたんだ。お店ももう閉まってる」

 詳しいことは言えなかった。お金を返すのは、僕自身でやらなければならない。家族に迷惑をかけるわけにはいかない。

「だから、芽依や海羽の受験や学費とか、僕の方からは少しも出せないかもしれない」

 今は貯金で自分の生活費を払うのに精一杯だ。次の仕事もいつ決まるかわからない。

「ごめん」

 僕が謝るとお母さんは呆気にとられた様子で言った。

「何言ってるの。あの子たちのことなら心配いらないから、気にしないで。あんたは新しい仕事を見つけるのを頑張んな」

「そうだぞ。それに芽依は受験じゃなく、就職するみたいだからな」

「え?」

 初耳だった。てっきり、短大か専門学校にでも行くのかと思っていた。

「上京するんだってよ。運が良けりゃ、有名なテーマパークのキャストになりたいんだってさ」

「そういうわけだから、大丈夫よ。今は自分のことに集中しなさい」

「……うん、ありがとう」

 自然と顔がほころんだ。実家に帰ってきて良かった。償ってまたやり直すためにも、今は自分の出来ることからやろう。

 そう考えたら、日高さんの会社の営業募集の話を思い出した。


 誰かが泣いている。あれは……母さんだ。喪服姿で泣く母さんのそばには父さんが寄り添っている。その前には笑っている恭介の遺影があった。

 母さんは葬式の後もこらえきれずに泣いていた。家の仏壇の前や、恭介の遺品整理をしているときはそれがしばらく続いた。自分を責めていたんだろう。それでも俺の前では無理に笑おうとしていた。俺は何も言えず、何も出来ず、罪悪感を抱えておびえていた。

 震える母さんの後ろ姿が消えない――。


 目覚めたら、汗だくになっていた。一息吐いて重い体を起こす。

 最近この夢を見る機会が増えたな……。

 起きたばかりなのに気分が滅入っていたこともあって、俺は支度を済ませると車を借りて買い物がてらに少し離れたホームセンターへ行った。いつもは日用品を買う程度で行くことはないのだが、少し気分転換が必要だと思った。

 広い店内でブラブラ見て回っていると、見覚えのある姿が視界に入った。それはつい先日会ったばかりの高梨だった。プライベートだし、今日は声を掛けなくてもいいかと素通りしようと思ったが、俺は高梨の様子を見て足を止めた。高梨が意外な売り場コーナーで商品をじっと見ていたせいだ。高梨はそれをそばにある商品カートに入れる。連れがいる様子もない。俺は嫌な予感がした。

 高梨が動き出したので俺はとっさに商品棚に身を引っ込めた。不審にならないよう、棚に並ぶ商品を見つつ、距離を保って彼女のあとをついていった。そのまま高梨がレジへ向かい、会計を済ませる。   

 なるべく俺が彼女の視界に入らないように気をつけながらあとに続いていくと、彼女はカートを押しながら駐車場へ歩いていく。俺はそれをホームセンターの入り口付近から遠目に見ていた。時折、手元のスマートフォンを見るフリをしながら、高梨が白い車に商品を運び入れているのを見届ける。あの車かと目星を付け、俺は自分の車に乗り込んだ。幸い、高梨の車から離れているがちょうど見える位置に停めていた。

 しばらく待つと、彼女の車が動いた。俺はそのあとを追って駐車場を出る。いくつかの交差点を通り、高梨は脇道へ入る。そこから五分ほど走らせたところでコインパーキングに入った。俺はそこを通り過ぎ、コインパーキングの入り口からは見えない所で路肩に停めた。車を降り、周囲に人がいないのを確認してから、高梨の入ったコインパーキングに近付く。

 そこには二台の車が停まっていた。奥の一番右に黒い車、それより左側に二台分空けて白い車が停まっている。俺が来るまで高梨の姿は見ていない。まだ車内にいるはずだ。

 しかし、それから高梨が出てくる気配が全くない。俺は思い切って白い車に走っていった。ドンドンと扉を叩く。窓が開いて高梨が驚いた顔を出した。

「日高さん……? どうしてここに」

「何してるんですか?」

 俺は高梨の言葉を遮って訊いた。彼女は一瞬、間を空けてから言った。

「何って、人を待っているんです」

「ホームセンターで何を買った?」

 敬語も忘れて思わず語気が強くなった。高梨は目を見張った。何か言おうとしているようで口を開いたが、そのまま俯いた。

「見ていたんですか……?」

「すみません、偶然見かけて。嫌な予感がしたものですから」

 俺の言葉に高梨は苦笑した。

「そうですか。それじゃ、適当な言い訳が思いつかないですね。日高さんの予感は当たりです」

 後部座席には練炭と小さな七輪が置かれていた。


                                 -続-

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