カインとユダ、そしてペトロ  ー罪を背負う者ー

望月 栞

第1話

 リビングの椅子に座る幼い弟が俺を見上げてくる。

「しゅんにぃ……なんであんなことしたの」

 真っ直ぐに見つめてくる恭介の言葉に、俺は息が出来なくなった。


 ガクッと頭が前に傾いたことで、はっと目が覚めた。いつの間にか最寄り駅に到着し、電車の扉が開いている。俺は急いで電車から降り、冷や汗を拭った。寝覚めの悪い夢を電車の中で見てしまったのは、疲れているからかもしれない。

 駅を出てすぐ近くの本屋に足を運ぶ。本や雑誌には目もくれずに文具コーナーへ向かい、手帳売り場で足を止めた。シンプルなデザインの手帳を探し、手に取ってみる。中をパラパラとめくっていたら、すぐそばでバサバサッと音がした。

 振り返ると文庫本が床に散乱しており、女性店員がしゃがんでそれを急いで拾っている。俺は自分の足下にも文庫本が落ちていたので拾い上げ、店員の前に差し出した。

「あの、これも」

 彼女は驚いた様子で俺を見上げてくる。

「あっ、すみません! ありがとうございます」

 そう言って頭を下げた。それから文庫本を拾い終わるとそれを棚に平置きで並べていった。

 俺は背を向けてまた手帳選びを始めた。茶色の表紙の手帳に決めたとき、さっきの店員が眼鏡を掛けた男性店員に注意を受けているのが聞こえた。俺はすぐさまその場を離れる。こういうことは、客のいない場所でやってほしい。

 その後は透明のファイルや茶封筒を手に取り、選んだ手帳と一緒にレジへ持っていった。そこにはあの女性店員がいた。

「いらっしゃいませ。先程はありがとうございました」

 俺は軽く会釈した。会計を済ませ、書店を出ようとしたところで、出入口のそばにいた別の店員達の話し声が耳に入ってきた。

「またやったの?」

「そうらしいよ。怒られてたもん」


 書店を出てしばらく歩くと橋が見えてきた。ここを渡れば家まであと少しだ。

 その真ん中辺りにはスーツ姿の男がいた。欄干に寄りかかり、俯いている。俺はそのまま通り過ぎようとしたが、その男は何を思ったのか、突然欄干に足を掛けて乗り越えようとしていた。

 俺は驚いて立ち止まった。橋の下は川が流れており、最悪の結末が脳裏をよぎる。とっさに駆け寄った。

「何してるんだ!」

 その男の胴体に腕を回して後ろに引っ張った。

「うわっ!」

 そのまま一緒に倒れ込んだ。

「な、何するんですか」

「それはこっちのセリフだ! ここから落ちようとしていたんじゃないだろうな」

 俺が早口に問い詰めると、相手の男は目に見えて狼狽した。やはり図星だったのか、男は慌てて俺から視線をそらす。

「そんなの僕の勝手でしょう。何で赤の他人にそんなこと……」

「勝手? あんたがいなくなって困る奴も悲しむ奴も誰もいないのか?」

 俺がそう言うと男は沈黙した。誰かを思い浮かべたのかもしれない。

「どうしてこんなことしようとしたのかは知らないが、本当にそれでいいのか?」

 男は黙ったままだ。俺は溜息を吐いた。たしかに他人の俺がわざわざ訊くことじゃないのかもしれないが、目の前で自殺でもされたら、ただでさえずっと寝覚めが悪いのにますます悪くなる。

 俺が立ち上がると、男は呟いた。

「でも、僕はこれからどうしたらいいのかわからない」

「……迷走中か」

「お世話になっていた人を裏切るようなことをしてしまったんです」

「だったら、まずはその人に謝罪することだろ」

「亡くなったそうです。突然、心筋梗塞で」

 俺は何も言えなかった。すると、男が立ち上がった。酒の匂いがする。

「あなた、僕の自殺を止めたんだから、代わりに今から飲みに付き合って下さいよ。明日は土曜だし」

「……あんた、すでに飲んでいるようだけど」

「飲み足りません」

「俺は赤の他人だぞ」

「僕は知らない人とでも飲めます。それに、今は赤の他人の方がいい」

「俺は帰りたい」

「じゃあ、飛び降ります」

 俺は呆れた。何なんだ、こいつは……。

「お節介なことするなら、最後まで付き合って下さい」

 そう言う男は少し顔が赤いが、しっかりと立ち、俺の目を見ていた。

「……一杯だけだ」

 俺は仕方なく、この男と近くの居酒屋へ行くことになってしまった。

「僕は関口諒太といいます」

 席に座り、店員に注文をした後で関口は名乗った。

「日高瞬介」

 短く答えると関口は満足したように頷いた。それから訊いてもいないのに話し出した。

「僕、大家族の長男で、高卒で働き始めたんです。二十歳から一人暮らしをしているんですけど、その頃から定食屋の店員として働いていたんです」

「へぇ」

「厳しいところもありましたが、そこの店長に色々良くしてもらっていたんですけど……」

 関口の言葉が途切れたので、俺は思いついたことを訊いた。

「店の金に手をつけたのか?」

 関口は視線を落としたまま頷いた。酒といくつかのつまみが運ばれてきて、俺はビールを一口飲む。関口は梅酒に手をつけず、それに視線を向けたが見ているようで見てはいないようだ。

「生活が苦しくなったんです。弟や妹の学費や受験のこともあったから。僕は知らぬフリして働き続けていたんですけど、店長は僕の様子から気付いていたみたいで。僕と二人になったときに何か知っているかって一度訊かれたんです。僕は嘘をつきました。そのとき、店長はそうかって呟いただけだったんですけど、次の日に僕は解雇されました。でも、店長は警察に被害届を出さなかったんです」

 関口はそこまで話すと梅酒をグイっと飲んだ。グラスの半分の量がなくなっていた。

「罪悪感がありましたが、もうどんな顔して会ったらいいかって思って、それからは新しい職を探していたんです。でも、なかなか決まらなくて。家族にはこんなこと言えないし……」

 関口はまた梅酒を煽る。顔の赤みが増している気がした。

「そんなとき、店長が心筋梗塞で亡くなったって知ったんです。僕は後悔しました。それで最初は森の中で首吊って死のうと考えたんですけど、木の枝が折れて死にきれなくて」

「それで、今度は酒飲んで橋から飛び降りようと?」

「……はい」

 俺は関口の話を聞いているうちに、自分のやった行為が果たして良かったのか、わからなくなってきた。俺に、自殺を止める資格があったのだろうか。

「……俺は、あんたと同じように罪を背負っている奴を知っている」

 そう言うと、関口は梅酒に伸ばそうとしていた手を止めて俺を見た。

「そいつも昔は死のうと考えていた時期があったが、今もまだ生きている。罪を告白できないままズルズルとな」

「その人の罪もお金に関することなんですか?」

「……さあな」

 関口はまだ何か訊きたそうに俺を見ていたが、その視線をスルーしてビールを飲み、目の前にあるつまみや酒を関口に勧めた。それから俺はまた、関口の話を聞きながらビールを飲んでいるうちに記憶がなくなっていた。


「ママ!」

 恭介が母さんにじゃれつく。母さんは「しょうがないわね」と言って恭介の頭を撫でている。

あぁ、まただ……。何度も見る、この光景。

俺は二人から顔を背けてリビングを出ていこうとすると、

「しゅんにぃ!」

「恭介……」

 恭介が笑顔でこっちに駆け寄ってくる。こっちの気持ちも知らずに――。

「日高さん……!」

 俺は名前を呼ばれて飛び起きた。俺の顔を覗き込むようにして関口がそばにいた。

「大丈夫ですか?」

「俺は……寝ていたのか?」

「はい。酔ってそのまま。うなされていたみたいですけど、大丈夫ですか?」

「……あぁ」

 こんなところで見るとは……。

「送っていきましょうか?」

 さっきまで死のうとしていた奴に心配されて、俺は思わず苦笑した。

「いや、いい。一人で帰れる」

 俺と関口は会計を済ませ、店を出た。通りには人の気配がない。酒を飲んだ後はいつも心地よく感じる夜風が、今日は肌寒く感じる。

「また一緒に飲んで下さい」

「は?」

 唐突に関口が言ったので、自然と口からついて出た。

「いいじゃないですか」

「何でだ。さっき付き合っただろ。話も十分聞いた」

「じゃあ、これから僕がどうしていくか、今後の話を聞いて下さい」

 こいつ、本当に死のうとしていたんだろうか?

 俺の疑問を感じとったのか、関口は言った。

「言っときますけど、死のうとしていたのは本当ですよ! あなただって、あんなに懸命に僕を止めたんですから」

「目の前でされちゃ、こっちも困るだけだ」

「じゃあ、三日後の今日と同じ時間にこの近くの駅の南口で。その次の日は祝日ですからゆっくりできますよ」

 俺の言葉を無視して、関口はそう言った。俺は溜息を吐いた。

「また橋から落ちようとか、考えるなよ」

 関口は頷く。俺は踵を返した。


 満員電車に揺られ、ジメジメと暑いなかで雑踏を抜け、徒歩十分ほどで着く会社の入り口を通る。所属している人事部に向かい、周囲に挨拶をして自分の席に着くとパソコンを立ち上げた。今日は研修用の資料を作成しなければならない。

「おはようございます」

 俺の隣の席の杉本真帆が言った。

「おはよう」

「先輩、明後日の夜って空いてます?」

「え?」

「今、ダ・ヴィンチ展やってるんですよ! 行きませんか?」

 そういえば、杉本は美術鑑賞が趣味だと聞いたことがあったな。

「俺、美術に興味ありそうに見える?」

「うーん、わからないですけど、チケットがもったいないんですよ。友達と行く予定だったんですけど、断られちゃって。興味はなくても嫌いじゃないですよね?」

「まぁ、そうだけど。でも、先約があるから」

「えっ、先輩も?」

 杉本は不満をこぼした。

「悪いな。ほら、今日中に採用計画練らないといけないんだろ。早めにやっておいた方が、部長の小言を聞かずに済むぞ」

「そうなんですけどね。営業で欠員が出なきゃなぁ」

「……あぁ、おめでただっけ? しょうがないだろ」

「でも、この間、新卒の子を配置したんですよ。また募集しないといけないのか……」

 そのとき、部長が入ってきた。その場にいた全員が挨拶をする。部長のおかげで、杉本の口から不満が出てくることはもうなかった。


 小雨の降るなか、傘を差して最寄り駅の南口に向かうと関口の姿を見つけた。関口も俺に気付いて、挨拶もなしに開口一番に言った。

「ちゃんと来てくれましたね」

「一応な」

「先にお金下ろしたいんで、コンビニ寄らせて下さい」

 俺達はコンビニに移動すると、見覚えのある女性がコンビニから出てきた。あれ? と思ったのも束の間、関口が声を上げた。

「高梨……? 高梨だよね!」

 突然のことで女性は驚いたらしく、素早く関口に振り向いて目を見開いていた。

「あっ、えっと……関口くん?」

「そうだよ。久しぶりだなぁ!」

 俺は、この高梨という女性が本屋で文庫本を床にぶちまけてしまった店員だと気付いた。関口の知り合いだったのか。

「こんなところで会うとは思わなかった。高校以来だよね?」

「うん、そうだね」

「仕事終わり?」

 高梨は頷いた。一瞬、俺に視線を向け、また関口に戻すと

「ごめん、この後用事あるから」

「あぁ、そっか。引き止めて悪かったね」

 高梨は俺の横を通り過ぎて行ってしまった。俺達はコンビニに入り、関口はお金を下ろす。

「さっきの人、同級生?」

「そうです。高校のときの。同じクラスだったんですよ」

「へぇ」

 下ろした後はコンビニを出て、三分ほど歩いたところにある『珈琲苑』というカフェに入った。レトロな店内でいくつか本も置かれている。店員が奥の空いている角の席に案内してくれて、そこに座った。

 それぞれ適当に注文を済ませると、関口が言った。

「さっきの高梨って子、僕が高校時代に唯一仲良くしていた女子なんです。美術部に入部していて絵が上手かったんで、絵画コンクールでよく入賞していたんです」

「絵ね……。俺は本屋で働いているところを見たけど」

 文庫本を拾う姿を思い出しながら言うと

「えっ! そうなんですか? そもそも、高梨のこと知っていたんですか?」

 関口は前のめりになって訊いてきた。

「知っているっていうか、行きつけの本屋で見掛けただけだ」

「そうですか。美術関係の道に進んでないのは意外ですけど、でも高校時代はよくダ・ヴィンチに関する本を読んでいましたよ。『最後の晩餐』が好きだとかで。美術部の先輩とその話をしていたみたいです。……あ、来た」

 店員が、注文したパスタとコーヒーを運んでくる。目の前にフワッとコーヒーの香りがした。店員が去ると、俺は話題を変えた。

「それより、あんたは?」

 関口はクリームパスタを食べようとしていた手を止めた。

「高梨って人の話じゃなくて、あんたはどうなんだ? 今後どうするか聞いてくれって言ったのはそっちだろ?」

 関口は俯き、何か思案しているようだった。関口が言葉を発するまで、俺はコーヒーを飲みながら待った。

「正直、どこからやるべきか悩んでいます。店長は亡くなって謝罪できないし、仕事はないし……。職探しも今まで何社も落ちていて」

「家族には?」

 関口はかぶりを振った。

「……じゃあ、まずは家族に会ったら」

「えっ?」

 関口は真ん丸な目で俺を凝視した。

「今のお前の状態じゃ、兄妹の学費やらをどうにも出来ないだろ。店でやらかしたことは言えないだろうが、今は仕事を探しているんだってことを素直に伝えた方がいいんじゃないか」

「……そうですね」

「ちなみになんだが、仕事はどういう職種のものを探してる?」

「接客業で色々と……。今まで人と関わる仕事をしてきたので」

 俺は昨日、社内で聞いた話を思い返し、関口に告げた。

「希望に沿うかわからないが、近々、うちの会社の営業で募集をするそうだ」

「本当ですか?」

 関口は食い気味に訊いてきた。

「どうするかはあんた次第だけど」

「……ありがとうございます! まずは家族に会ってみます」

 関口はパスタを食べ始めた。俺も一息吐いて再びコーヒーを飲む。窓の外を見るといつの間にか雨はやんでおり、雲間から光が差し込んでいるのが見えた。


                          -続-

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