第34話 駐在くん、変態から逃げる


 男鹿の狂気的な愛の叫びに、菜乃花はここにいてはいつ男鹿が強制的にやって来るかわかったものじゃないと、窓からの脱出を提案する。


「行こう、ハジメくん。ここにいたって、あの気持ち悪い人の声が聞こえる……聞きたくないでしょう?」

「あ、あぁ……でも、どこに?」

「とりあえず、私の家に……ちょっと待ってて」


 菜乃花が下駄箱からスニーカーを持ってきて、ハジメに履かせる。

 まだまだ雪が残っているのに、靴下で外に出るなんて自殺行為だからだ。

 流石に上がり口にある先ほどまで履いていた冬靴やダウンジャケットは扉の向こう側にある為とりに行けないが、逃げ込んだのが住居スペースなのが救いだった。

 別のダウンコートを羽織り、二人はスニーカーで外に出る。


 夏用のスニーカーで、足元は冷たかったけれど、それ以上に男鹿が近くにいて、声が聞こえている状況が怖くて必死だった。



 * * *



 菜乃花の家に着くと、村長は驚いていたがハジメのただならぬ様子に快く受け入れてくれる。


「とにかく、寒かっただろう? 駐在くん、今風呂を沸かしてやるから、とりあえずそこの暖炉の前で暖まりなさい」

「はい、ありがとうございます……」


 暖炉の前に座り、まだ男鹿の狂気に満ちた愛の言葉が耳に残っていて、あまりの気持ち悪さと恐怖からハジメは菜乃花の手をぎゅっと握っていた。

 菜乃花はまだ震えているハジメの背中を空いている方の手で懸命にさする。


「もう大丈夫だからね、私が守ってあげるからね」

「ごめんな……菜乃花、こんな情けない姿を見せて————でも、あの人だけは、どうしても怖くて」

「一体、何があったの?」

「……それは————」


 言いづらそうにしているハジメの反応に、菜乃花は思い出したくもないくらいひどいことをされたのだと察する。


「ハジメくん、あの人と付き合ってたの?」

「まさか!! そんなことあるわけないだろ……気持ち悪い。全部あの人の勘違いなんだ————俺は、男に興味ないのに……」

「そうだよね。わかった。じゃぁさ……ハジメくん」

「え?」


 菜乃花はハジメの手のひらを自分の胸に押し付ける。

 なんとも言えない、柔らかな感触が、ハジメの手のひらいっぱいに広がった。


「な、何を……!?」

「怖く無くなるまで、好きなだけ揉んでいいよ」

「え!?」

「ほら、柔らかいものって触ってるとさ、癒されるでしょ? ちょっとでも、ハジメくんの今感じてる怖さが、和らいだらいいなって……」


(意味がわからない……————でも、すっごい……なんだこれ……)


 菜乃花の言う通り、手のひらから伝わるこの柔らかい感触……

 たまらなく気持ちがいい……


(めちゃくちゃ柔らかい……気持ちい……あったかい)


「ほ……本当に、いいのか?」

「うん、好きなだけどうぞ。直接の方がいいなら、脱ぐけど?」

「いや、流石にそれは……なんか違う気がする」


 恐怖が和らいでいって、気づいたらハジメは暖炉の前で菜乃花の胸に顔を埋めて眠ってしまっている。

 菜乃花はハジメの頭を優しく撫でた。


(柔らかい……すごい……女の子って柔らかくて、いい匂いがする————)




 ◾️ ◾️ ◾️



 警察学校を卒業し、巡査として交番勤務になったハジメ。

 当時、十九歳。


 まだ右も左もわからなかった頃、管轄内の公園で殺人事件があった。

 犯人が出頭した場所が、ハジメの配属されていた須木田すきだ交番で、その時、事件の担当警部だったのが男鹿だ。


 男鹿といえば、警察官募集のポスターになったりもしていて、若手の巡査はみんな彼の顔を知っていた。

 だが、だれもこの男の性的指向がどういうものか知らない。

 若いのにすごい人……ぐらいにしか思っていなかった。

 将来は父親の後を継いで、きっと警察幹部になるのだろうと……ハジメもそれくらいの認識だ。

 近々警視に昇級するという噂もある。


「あー……君が、新しく配属された比目巡査?」

「は、はい! 比目ハジメ巡査であります!」


 警部自ら犯人を引き取りに来た際、初めて声をかけられる。

 階級がはるかに上の男鹿から声をかけられ、緊張しながら敬礼すると、男鹿はにっこりと優しく微笑んで、ハジメの肩をポンと叩いた。


「頑張ってね。期待しているよ」

「はい! ありがとうございます!」


(こんな下っ端にも声をかけてくれるとは……優しい人なんだな)


 殺人事件を担当している警部だなんて、怖そうだと思っていたハジメだったが、男鹿はとても気さくな感じで、ほかの巡査たちとも談笑している。

 初めて会った日は、それくらいの印象で、特に気にもとめていなかった。

 巡査のハジメが昇級して刑事になる頃には、男鹿はもっと上の階級に上がっていて、直接関わる機会もないだろうと……


 だが、妙なことにこの日からハジメは、時々妙に視線を感じることが多くなっていく。

 それに、今までは顔をあわせることもなかったのに、本署へ行くと必ず一日に一度は男鹿とすれ違うようになったのだ。

 すれ違うたびに、敬礼するのは上司だからなのだが、その内————


「会いに来てくれたんだね……」

「……え?」

「いや、なんでもないよ」


 ————何かボソリとつぶやいて、ニコニコと笑うようになる男鹿。


(聞き間違い……かな?)


 はっきりと聞こえたわけではない為、聞き間違いだろうとハジメは気にしていなかった。

 だが、ハジメが二十歳の誕生日を迎えた当日、事件は起こる。


(え……?)


 この日はオフで、出かける為に乗っていたバスが揺れ、つり革を掴んでいたハジメの体も大きく揺れる。

 偶然か、それとも故意か……ハジメの尻のあたりに誰かの手が触れた。

 振り返るとそこには————


「やぁ、比目巡査じゃないか。今日は休みかい?」


 男鹿警部が、立っていた。

 満面の笑みで。



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