30 記憶

 俺はロクでもない家に生まれたと思う。

 こんな仕打ちを受けるなんて、前世でよほど悪いことでもしたのだろうか。

 いや、別に前世なんかを信じてるわけじゃないが、そうとでも思わないとやってられなかった。


 父さんは働きもしないで、毎日酒にギャンブルにと大忙しだった。

 母さんはいつもそんな父さんに対して、泣いたり叫んだりしていた。父さんが働かないため、母さんが夜遅くまで働いて俺たちを養っていた。

 そして時折、幼い俺を抱きしめて、泣きながら謝るのだった。ごめんなさい、ごめんなさい、と。


 母親が何に対して謝っていたのかは、当時幼かった俺にはわからなかったし、高校生になった今になってもわからない。

 ただ、俺が母さんを守るんだと、子供心ながらに強く誓ったことを覚えている。

 父さんのことは大嫌いだったが、俺は母さんのことは大好きだった。

 母さんは仕事が忙しく、一緒に出かけられる機会はそう多くはなかった。でも、二人でどこかに出かけたときには必ずお菓子を一つ買ってくれたことを覚えている。テストの点数が良かったときや、絵で賞をもらったときには、優しく頭を撫でてくれた。


 ある日、父さんが母さんを殴りつけていた。それ自体は、まあ物心がつく前からよく見ていた光景だ。

 ただ、その日、今まではただ怯えて見ていることしかできなかったのだが、小学校高学年になって体が少し大きくなったこともあり、俺は今の自分なら母さんを守れると勘違いして、二人の間に割って入った。

 結果として俺のその行動が父さんの逆鱗に触れたらしく、俺はボコボコに殴られて前歯と鼻の骨を折られる重傷を負った。


「クソガキが!」


 父さんの怒り狂って裏返った声は今でも耳からこびり付いて離れないし、未だにあのときのことは夢に見る。


 それ以来、父さんは母さんだけにではなく、俺に対しても日常的に暴力を振るうようになった。

 そんなことがある度に、母さんは俺を抱きしめてくれて、いつか二人で暮らそうと言ってくれていた。母さんのその言葉だけが、幼少期の俺の心の支えだった。


 だが、そんな母さんは、妹が生まれて間も無く、俺たち家族の前から姿を消した。ある日から、急に家に帰ってこなくなったのだ。

 今思えば、母さんはもう限界だったのかもしれないが、まだ十一歳のガキだった俺にはそんなことを考える余裕もなく、ただ捨てられたのだと思い、あんなに好きだった母さんを心の底から憎んだ。


 まだおしめも取れていない妹の面倒を見るのは俺の仕事だった。


「俺の子供じゃない」


 父さんはそう言っていた。それが本当なのか嘘なのかはわからないが、まったく面倒を見ようとはしなかった。


 今思えば、母さんを失った心の隙間を埋めるためだったのだろうか。俺は妹の理恵の面倒をよく見て、次第に何をするのにも理恵が全ての価値観の基準になった。

 理恵を喜ばせるために。理恵を幸せにするために。そのためだけに生きようと思った。


 それから数年経っても、父さんの俺への暴力は続いている。何か気分を害するようなことがあれば、すぐに俺に手を上げた。俺も感覚が狂っていたのか、慣れたことのように抵抗もせずに受け入れていた。


 ある日。理恵にも物心がついてきたころ。

 父さんが俺を殴っている光景を見て、理恵がギャンギャン泣き出した。俺がいくらあやしても泣き止まず、その泣き声が癇に触ったらしく、ついに父さんは理恵にも手を上げようとした。

 俺は理恵を必死に抱きしめて、父さんの暴力から理恵を守った。

 そんなことがしばらく続いたある日、俺は一つの結論に達した。


 ――こいつの存在は理恵にとって害にしかならないから殺そう。


 キレたわけではない。思考は至って冷静だ。

 ただ単に、理恵にとって害になるなら排除しなければならないと思っただけだ。


 だが、俺が父さんを殺して捕まりでもしたら、理恵が一人ぼっちになってしまう。それは良くない。

 殺すとしても、俺がやったとバレない方法をとる必要があった。


 それから俺はネットカフェに通い、自殺や事故死についてあらゆる情報を集めた。無論、父さんを自殺や事故死に見せかけて殺すためにだ。


 やがて、これだという方法に辿り着き、決行日がやってきた。父さんはよく酔っ払って風呂に入り、そのまましばらく寝ていることがある。そのときがチャンスだった。

 父さんが風呂に入り、二時間が経ったころ。

 俺は浴室内から何も音がしないことを確認して、今なら殺せると思い風呂場のドアをそっと開けた。


 しかし、父さんは俺が手を下すまでもなく、勝手に死んでいた。

 どうやら風呂場で居眠りして、そのまま溺死したらしい。


 大嫌いだった父さんが死んだことに悲しみはなかった。かと言って喜びがあったわけでもない。あるのは、安堵だけだ。


 ――これで理恵が傷つけられる心配はなくなった。


 そして現在、俺は高校二年になり、理恵は小学校に入学した。

 母方の親戚は、俺たちに同情してくれたのか、母さんが蒸発したことに負い目を感じていたのか定かではないが、親身になって俺たちに接してくれた。

 子供二人だけでは、生きていくことは現実的に難しい。その厚意に甘えて、将来の返済を約束した上でこ資金的な援助と、俺がバイトで家を空けている間の理恵の面倒を見てもらうことをお願いした。


 理恵だけが俺の生きがいだった。

 バイトでどんなに疲れ果てても、何か嫌なことがあっても、理恵の笑顔を見るだけで頑張れた。


 理恵を楽しませるために。

 理恵を喜ばせるために。

 理恵を幸せにするために。


 そのためだったら、俺は何だってする。

 ただ心配だったのは、育った環境のせいか理恵は人見知りが激しく、友達がいないことだった。

 友達がいないからと言って生きていけないわけではない。それは自分自身で実証済みだ。

 ただ、俺は理恵にただ生きていてほしいわけじゃない。幸せになってほしい。そのためには、きっと友達がいた方がいいのだろうと思う。

 そう思って、休みの日に二人で友達を探しに行こうと理恵に提案した。


「理恵、学校で友達はできたか?」


 人形で一人遊びをしながら、理恵は黙って首を横に振った。


「よし、じゃあ友達作りにいくか」


「いらない」


 理恵は人形遊びの手を止めずに即答する。


「いつもそうやって一人で遊んでたって、つまらないだろ?」


「……にぃにがいれば、いい」


 理恵が抱きついてくる。

 そう言ってもらえるのは正直嬉しい。俺だって理恵がいれば、それだけでいい。

 でも、それじゃ今後の理恵のためにならない。

 こんな状態で俺がいなくなったら、理恵はどうなる。俺は明日事故に遭って死ぬかもしれない。ないとは思うが、可能性はゼロではない。


「そう思うのは今だけだぞ。理恵だってそのうち反抗期がきて、お兄ちゃんキモいとか言うんだぞ、きっと」


「はんこーき? ひこーきのなかま?」


「違う違う。兄ちゃんのこと嫌いになるときがくるんだよ、いつか」


 自分で言ってて泣きそうになった。反抗期なんていう現象は滅んでしまえと思う。


「そんなとき、ぜったいこないもん」


「俺もそう願うけどさ。でも、友達は作った方がいいぞ」


「なんで?」


「あー、それは、だな……」


 友達を作ったことがない自分が、明確な理由を説明するのは難しい。友達っていたら何かいいことあるのか?

 漫画や小説、ドラマなどでは、友情はいかにも尊いものであるかのように描かれるが、それはどうしてだろう?


「人は一人では生きていけないからだ」


 悩んだ挙句に俺の口から出たのは、どこかで誰かが言っていた、自分でも意味がよくわかってない台詞だった。


「なんで、ひとりだといきていけないの?」


「なんでだろうな。きっと、自分のためだけだと、何か頑張らないといけないときに、頑張れないからかな」


 それから、しばらく理恵のなんでなんで攻撃が続いた。

 子供特有のなぜなぜ期というらしいが、理恵の場合は三歳ごろから始まって、六歳になる今でも続いてる。


 なんで、頑張らないといけないの? その問いには、生きるために必要だからだよと答えた。

 なんで、生きるの? という問いには、自分の大切な人のためにだよと答えた。


「理恵は楽しいのとつまらないの、どっちがいい?」


「たのしいほう」


「そうだよな。友達がいたほうが、楽しく生きることができて、頑張らなくちゃいけないときに頑張れるんだよ。だから、友達を作りにいこう」


 それが正解なのかはわからないが、それっぽくはまとめられたと思う。


「うん……。でも、どうやっていいか、わかんない……。りえは、ともだちいないから……」


「だから、これから友達作りにいくんだよ」


 俺はそう言って、理恵の手を引いて家を出た。

 友達の作り方なんて俺にもわからなかったが、理恵のためにも頑張ろうと思った。

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