29 最後の仕事

「ただいま」

「お兄さん、おかえりなさい。ご飯にします? わたくしにします? それとも、わたくしにします?」


 時刻は夜の九時過ぎ。

 いつものように帰ってきた兄を、マリエルが極力いつものように振舞って迎える。


「その中なら飯一択だな。理恵は?」


 兄はまだ理恵のことを忘れてはいなかった。

 ただそれだけのことが嬉しくて、マリエルは不覚にも泣きそうになった。


「……んふふ、今日は秋月さんの家に行って、藍子さんや佳織さんとたくさん遊んできたみたいで、もう疲れて、寝ちゃい、ました」


 マリエルは言いながら様々な感情が込み上げてきて、途中から涙声になってしまったが、幸いと言うべきか仕事で疲れている兄はそれに気づかなかった。


「……そうか、仲直りできたんだな。良かったよ。それなら今日はゆっくり寝かせておいてやらないとな」


 その辺の事情は、当時兄も理恵から話を聞いていて知っていたため、心底嬉しそうに微笑んだ。


「お兄さん。今まで、短い間でしたがお世話になりました」


 マリエルが突然兄に抱きつくが、いつものような邪な気配を感じなかったため、兄はそれを振り払おうとはしなかった。


「今までって、どうい……う……?」


 疑問を口にした瞬間、抗いようのない強烈な眠気が兄を襲う。マリエルの天力によるものだ。


「マリ……エル…………」


「おやすみなさい。そして、さようならです、お兄さん」


 眠りに落ちる寸前、兄が最後に見たのは、寂しそうに泣き笑うマリエルの顔だった。




◇◆◇




「…………リー…………セリー……………………」


 理恵は体を揺すられ、マリエルの声で目を覚ました。


「あ、マリー…………まだ生きてる、わたし……?」


「ええ、まだ大丈夫ですよ。言われた通り、お兄さんを眠らせました。……行きましょう、芹沢理恵としての、最後のお仕事ですよ」


「うん……ありがとね、マリー……わたしのワガママに付き合ってくれてさ……」


 本来なら、理恵の延命治療などしていなければ、もうマリエルは理恵の魂を回収して、とっくに仕事を終えているはずだった。


「当たり前ですよ。わたくしだって、あなたの親友なんですから。藍子さんや佳織さんにだって負けませんっ」


 マリエルが優しく微笑んで、理恵に肩を貸す。


「はは……そうだね、本当に感謝してる……」


 理恵はマリエルに肩を借りながら、一歩一歩、どうにか歩いて、兄が眠っている居間まで向かう。

 体はもう限界だ。感覚がまったくなく、痛みすらも感じない。

 部屋から居間まで、いつもなら数秒で辿り着ける道のりを、何分もかけてようやくたどり着く。


「お兄ちゃん……」


 居間の床に寝転んでいる兄の隣に、寄り添わせるようにして、マリエルが理恵の体を横たえる。


「セリー……わたくしも極力サポートしますが……それでも最後までできるかは、わかりませんよ」


「うん、わかってる……」


「セリー、手を、お兄さんの胸元に当ててください」


 理恵が言われる通り、手を動かそうとする。


「あれ……手、動かないや……」


 しかしもう理恵には、自分の力で体を動かすこともできなかった。声も上手く出せないようで、声も掠れてしまっている。


「……セリー、ほら……一緒に頑張りしょう」


 マリエルが優しく自分の手を理恵の手に重ね、その手を兄の魂の在り処――胸元のところまで誘導する。


「……ぅ……ん…………」


 理恵が最後の力を振り絞り、兄の魂を手のひらで感知する。

 なるほど、たしかに、マリエルの言う通り、ひどく歪んでいるのがわかる。

 健全な人間の魂の形というのは、まんまるの球状をしている。それがストレスを受けたり、傷ついたことがあったりすると一部分がへこんでしまったり、逆にたんこぶのように膨れてしまったりということはあるが、基本的には魂の形というのは球状である。

 それが、兄の場合は、原型を留めていないほど、ひどく捻れていた。子供が好き勝手に遊んで、ぐちゃぐちゃにこねくり回した粘土のようだ。


 ――お兄ちゃんは、こんなになってまで、わたしのことを守ってくれていたんだ。


 申し訳なさと悲しさで、理恵の目から涙が流れる。


「セリー、ここから、お兄さんの魂がこうなってしまった原因を探ります。……魂に直接アクセスして、そこに刻み込まれた記憶を読み取ります」


「…………」


 理恵はもう返事をすることもできなかった。


「もしかしたら、見たくないものまで見えてしまうかもしれませんが、いいんですね?」


 返事をする代わりに、理恵は指に微かに力を込める。

 それを同意の合図と見なして、マリエルは理恵を補助して、兄の魂の記憶を読み込んだ。


 兄の人生そのものが直接脳内に映写されるように、一気に情報が流れ込んでくる。

 人間の体では、ましてや今の理恵の体ではそれを直に受けてしまうと耐え切れるものではないため、マリエルが余計な情報を遮断しながら、魂の深層へと進んでいく。


 兄の魂の情報は、呆れるほどに理恵のことばかりだった。

 本当にこの人はわたしのことが大事なんだなぁと、理恵は嬉しいやら照れるやら呆れるやらだったが、でも、やっぱり最後には嬉しく思った。


 やがて理恵とマリエルは魂の変形の原因、その記憶の根源にたどり着いた。

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