28 やり残したこと

 光の運転する車が理恵の家に着く。

 理恵の兄はまだ帰ってきていないようで、部屋の明かりはついていなかった。

 光はマリエルから家の鍵を受け取ると大急ぎで理恵をベッドまで運び、そこに横たわらせると、理恵に布団をかけてやった。


「……俺にできることは、もうないのか」


「ええ。……ありがとうございます、あなたのおかげで、人間として一番の思い出が染みついているこの場所で、この子は人間としての最期を迎えることができます」


「……そうか……それは、何よりだ」


 光は車中からここまで、もうずっと泣き続けている。


「この子のために泣いてくれて、ありがとうございます。あなたに最大限の感謝を。心優しき人間」


「……天使も、泣くんだな」


 光につられてか、マリエルも無意識のうちに涙を流していた。


「あら? あらあらあら? これはお恥ずかしいところを見られてしまいました」


 マリエルが泣きながらも、照れ臭そうに笑う。


「……名残惜しいが、俺の役目はここまでだろう。じゃあな理恵、たまには遊びに来いよ。俺には、天使が見えるらしいからな」


 光が立ち去ろうとしたとき、理恵の手光の服の袖を掴む。


「セリー、意識が……」


「理恵! バカヤロウ、俺をこんなに泣かせやがって……!」


「あはは……バ、バカにバカって言われたくないね……」


 理恵が力なく笑う。


「セリー、あまり喋っては……」


 マリエルが心配そうにして、天力での治療を再開する。


「光、佳織と藍子のこと、お願いね……。あの二人、昔から結構つまんないことで揉めたりするからさ……ちょっとだけ……まだ心配なんだ……」


「……まかせておけ」


「……うん、安心した。もう行って……あんまり、こう、弱ってるとこ見られると、恥ずかしいからさ、あはは……」


「……ああ。じゃあな、理恵」


 光は最後に、昔そうしていたように理恵の頭をわしゃわしゃと撫でて、芹沢家を後にした。


「ねぇ、マリー……わたし、あとどれくらいもつ……?」


「……わたくしの治療で延命しても、明日の朝までもつかどうか、でしょうか」


「それならギリギリ……間に合うかな……。まったくさ、佳織だけ救うつもりが、藍子まで救われてくれちゃって、このザマだよ……全身串刺しにされてるみたいに、めっちゃ痛いんですけど……あはは……」


 理恵は苦痛に顔を歪めながらも、ここにはいない親友への軽口を叩く。


「藍子も、佳織も、ずっと苦しかったってことだよね……救えて、良かったなぁ……」


「そうですね……」


「車の中で、うっすら……聞こえてた……。やっぱり、わかってたけどさ……わたし、忘れられちゃうんだね……」


「…………はい」


「茜も……藍子も……佳織も……秋月のおじさんも……あや姉も…………」


 理恵の瞳に、涙が滲む。


「それから…………お兄ちゃんも……………わたしのこと、忘れちゃうんだね………うぅっ………うぁあああっ……!」


 そこで堪えられなくなり、理恵は声をあげて泣き出した。


「ねぇマリー……本当に何も残らないのかな……? わたしの、戸籍とかって、どうなるの……?」


「……天界の情報操作により抹消される予定です。存在しない人間の情報を残しておくわけにはいきませんので」


「そりゃ……そうだよねぇ……はは、なに、バカなこと言っちゃってんだろ……うぐっ……うぅぅぅ……」


 理恵が溢れる涙を止めようと、腕で目を覆い隠すが、それでも涙は次から次へと溢れ出てきて、一向に止まらなかった。


「まだ……やりたいこと……たくさんあったんだ……。藍子と佳織と……また遊んだり……茜とだって……また一緒に料理作る約束してそれっきりだし……それから……お兄ちゃんのことを…………」


 そこまで言って、理恵は本当にやり残したことを思い出した。


 ――そうだ、わたしはまだ、死ねない。


「マリー……一個ね……お願いあるの……」


「……はい」


「お兄ちゃんが帰ってきたら……わたしのこと、まだ覚えたらだけどさ……ただ遊び疲れて寝てるってことに、してくんないかな……?」


「……それでいいんですか? お兄さんと、最後に言葉を交わさなくても……」


「お兄ちゃん、めちゃくちゃシスコンだからさ……こんなわたし見たら、きっと死んじゃうよ、あはは……」


「セリー……あなたは、本当に優しいですね」


「違うよ……お兄ちゃんの……泣きそうな……心配そうな顔……わたしが見たくないだけ……。それでね……お兄ちゃんが帰ってきたら、お兄ちゃんを、眠らせてほしいんだ……天力でできるでしょ……?」


「それは可能ですが……何故ですか?」


「マリーがさ……お兄ちゃんの魂が歪んでるって言ってたの……実はずっと気になってたんだ……最後に、その原因を探って……可能なら、わたしがそれを、直してあげたい……」


「……そうですか。たしかに、お兄さんが眠っている間に、直接お兄さんの魂に干渉すれば、その原因を探ることはできるでしょうが……セリー、自分が何をしようとしているのか、わかってるんですか?」


 人間の魂に直接干渉するためには、天力を使う必要がある。

 天使の力を全て取り戻している今の状態なら、それは理恵にも可能ではある。

 ただし、体にかかる負担は計り知れない。今の弱った状態で天力を使えば、その瞬間に死んでしまうことだってありえる。


「マリーがサポートしてくれれば……多分大丈夫だよ、あはは……」


「……わかりました。それにはまず、それまで頑張って生きないとですよ、セリー」


「マリーがいるから、それも、大丈夫大丈夫……」


 そこまで言って、理恵はまた意識を失った。

 理恵は意識を失うその間際、強く願った。


 ――あと一回だけでいい。もう一回だけ、目覚めることができますように。

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