25 予兆

 喫茶店での出来事の翌日、理恵は藍子と話をするために登校した。

 微熱はずっと続いていて、体は変わらずだるいが、休んでいて良くなるわけでもない。

 朝のホームルーム前、だるそうに机に突っ伏している藍子の席まで行って声をかける。


「藍子、久しぶり」


「理恵、体はもういいの?」


 藍子が机に突っ伏した姿勢のまま、目線だけ理恵に向ける。


「まー、ぼちぼちね。あとでちょっと時間ちょうだい」


「……佳織のことなら、聞くつもりはないよ」


 前回のメールから、理恵の要件を察した藍子が先手を打ち、目をそらす。

 理恵も知ってはいたが、藍子は佳織の話となると昔からこの調子だ。


「そう言うのはわかってたけどさ。藍子、頼むよ。ちょっと緊急なんだ」


 理恵の口調がいつもより切羽詰まっているような気がして、藍子がまた目線を理恵に戻す。


「理恵、あんた……」


 それは藍子が今まで見てきた理恵の表情の中でも、一番真剣なものだった。


「昼休みに中庭で待ってるよ」


 理恵はそれだけ言うと、自分の席へ戻っていった。

 理恵が自分の席に座ると、隣の席の女生徒が怪訝そうに理恵を見てくる。

 たしかに数日ぶりの登校ではあるが、何故そんな目で見てくるのかと気になり、声をかけてみる。


「えーと、何か?」


「え? いや、えーと……」


 女生徒が答えにくそうに口ごもり、それから少し迷ってから言った。


「あなた……誰だっけ?」


「え? ええと、芹沢だけど?」


「……うちのクラスにそんな子いたかしら?」


「え……?」


 最初は悪ふざけか、あるいはイジメかと思ったが、目の前の女生徒からはそんな悪気があるようには見えない。ただ純粋に、知らない子が自分の隣に座ってきたから不思議に思っている。そんな様子だ。


 たった数日休んだだけで、クラスメイトから忘れられている。明らかに普通ではないことが起きている。


 その後、朝のホームルームで担任がいつものように出席を取ったが、理恵の名前が呼ばれることはなかった。


 理恵が現状を整理する。

 他人に自分の存在が忘れられている。

 ただ、兄や藍子、佳織、秋月家の面々は自分のことを覚えている。


「そうか、関係が薄い人間からわたしのことを忘れていってるのか……」


 一人小声で呟く。おそらく、いや間違いなく魂が天使化したことによる影響だろう。天使は本来、人間には認識できない存在だ。自分の存在が天使に近づくに連れて、人々に忘れられてゆくのだろう。

 このまま天使化が進めば、いずれ誰も彼も理恵のことを忘れてしまうのだろう。


「…………」


 なんだか胸が苦しくなってくる。

 どうでもいい他人に忘れられるのは構わない。

 でも、大事な人たちに忘れられてしまったとき、自分は耐えることができるのだろうかと、理恵は心配になった。




◇◆◇




 昼休みになると、理恵は中庭に向かった。

 藍子ならきっと来てくれるだろうと信じて、教室を後にする。


 中庭までの道中、廊下で茜とすれ違う。

 茜にも忘れられていたらと思うと、怖くなって理恵は声をかけることができなかった。

 案の定、茜はそのまま通り過ぎようとして――ハッと今初めて理恵の存在に気がついたように振り返ると、理恵を呼び止めた。


「り、理恵っ?」


「あはは、気がついてくれてありがとう、嬉しい」


 理恵が少し照れ臭そうに、そして、心底嬉しそうに笑う。


「やだ、わたし、なんで……? 今、理恵のことを理恵だってわかんなくって……」


「茜が悪いわけじゃないよ。仕方ないことなんだ、きっと」


「仕方ないわけないよ! 理恵は、わたしの、はじめての友達なのに……」


「大丈夫。ちょっと天使としての極秘任務の最中で、天使の力を使って人の認識を撹乱してるんだ。茜はちょっとそれに巻き込まれちゃっただけ、ごめんね」


 困惑する茜を落ち着かせるために、理恵は嘘をつく。


「そう、なんだ……。でも、それで一瞬でも理恵のことわからなくなるなんて……なんか怖いな……」


「やー、あはは、まあ、それだけわたしの力が絶大ってことだよ。……大丈夫だよ、茜。わたしとあなたは、これからもずっと友達だから、安心して」


 理恵のその言葉は茜に向けてのものだったが、同時に自分を励ますための言葉だった。

 いずれ茜は自分のことを忘れてしまうだろう。でも、二人の友情は、一緒に過ごした時間は、きっと無駄にはならない。


「……うん、ありがとう。一緒に遊んだり、お茶したりできるの、楽しみにしてるね」


「うん、わたしも。……またね、バイバイ」


 二人が手を振って別れる。

 『また』があるかはわからない。あって欲しいなと思いつつ、理恵はその場を後にした。




◇◆◇




 理恵が中庭のベンチで待つこと数分、藍子はやってきた。


「おっす、待った?」


 藍子が片手を挙げて理恵に呼びかける。


「いんや、今来たところ」


「理恵、出席取るとき呼ばれなかったね」


「やー、あはは、久々の登校だから、先生も忘れてたんじゃない?」


 笑って誤魔化すが、藍子は険しい表情で理恵を見据える。


「クラスの奴ら、みんなあんたをチラチラ見てあいつ誰だって言ってたけど?」


「……あー、そ、それは」


 理恵もそれは聞こえてはいた。流石にもう誤魔化すのは無理だろうと観念する。


「……そうね、藍子に嘘つくのも嫌だし白状するよ。わたし、みんなに忘れられてる」


「だろうね。それ、佳織のことを言い出したのと関係あるの?」


「ある。前にも言ったけどわたしは天使で、いつまでここにいられるかわかんない。忘れられはじめてるのは、その予兆だと思う」


「理恵、あんた……」


 藍子は前々から理恵の天使発言を疑っていたわけではないが、理恵の表情から、やはり嘘や冗談ではないことを再確認した。


「わたしは三人がこうなったまま、天界に帰りたくない。だから藍子にも協力してほしいんだ」


「はぁ……理恵にそこまで言われるとね……。いいよ、話は聞こうか」


 藍子は深くため息をつくと、理恵の隣に座った。


「サンキュー、藍子」


「どういたしまして、天使様」


 そう言って、二人笑い合う。


「……藍子はさ、佳織がイジメられていることをわたしたちに相談してくれなかったことに怒ってんの?」


「……最初はそれもあったけどね。そのことは、もういいんだよ」


「じゃあ、佳織が相手に怪我させたことを隠してたこと?」


「違うね」


 藍子が首を振り、懐からスティックキャンディを取り出して咥える。


「あんた飴好きよね」


「それも違うね。あたしは甘味全般が好きなのよ」


 藍子に飴を咥える癖ができたのは、佳織の件があってからだ。佳織の家によく行っていた頃は、毎日のようにあの喫茶店で甘いものを食べていた。

 藍子にとって、それはあの日々を失ったことを紛らわせるための代償行為だったのかもしれない。


「……理恵にこのことを話す日が来るなんてね」


 藍子はそう言うと、覚悟を決めたように深呼吸をしてから、続きを話した。


「佳織は理恵がさっき挙げた二つのこと以上に、許せない嘘をついた。三人の絆をぶっ壊すような嘘をね」


「嘘……?」


「あいつは、自分の嘘を隠すために、理恵が嘘をついてるって言ったのよ」


「……ああ、そうなんだ」


 理恵が藍子に相談をして、藍子が真相を確かめに佳織を問い質しにいったあのときだろう。そんなことがあったことを理恵は知らなかった。


「そして、あたしも佳織の言うことを信じて、あんたが嘘をついてるって疑ってしまった。……本当は、あたしも佳織のことをとやかく言える立場じゃないのよ」


 藍子が悔しそうに唇を噛みしめる。


「理恵を裏切ったんだ……あたしも佳織も。それなのに、あたしだけずっと友達面して、あんたと一緒にいた。……理恵まで失いたくなかったから。……佳織より、よっぽどずるいよね」


「藍子……」


 ずっと隠していたことを打ち明けて、嫌われたかもしれないと思い藍子の体が震える。


「あんた変なとこ真面目なんだから。だから佳織と気が合ってたのかもしれないけど」


 理恵はそう言うと、優しく笑う。そして、二年前のあのときと同じように、震える藍子の手を握った。


「理恵……」


「ありがとね。藍子のおかげで、わたしはひとりぼっちにならずに済んだんだよ。佳織がいなくなって、藍子までいなくなってたら、わたしどうなってたかわかんない」


「それは……あたしが一人になりたくなかっただけだから……お礼を言われるようなことじゃない」


「そうかもね。わたしたちは、ずっと二人一緒だった。……でもね、佳織は、その間ずっとひとりぼっちだったんだよ?」


「……そう、だね」


 わかっていた。

 藍子は佳織が孤立していくのをずっと見ていた。

 でも、許せない気持ちが先行してしまい、ただ見ていることしかできなかった。――いや、それは詭弁だ。佳織の姿を見ると、理恵を裏切った自分の罪を直視することになり、それに耐えられなかっただけだ。


「……こうなっちゃったのは、本当は全部あたしが悪いんだ」


 藍子は、佳織のことを責めることで、自分の罪を見ないようにとしてきた。

 そんなことをせずに、自分自身の罪と向き合う勇気を持って、佳織に手を差し伸べることができていれば、きっと三人がバラバラになることはなかったと思う。


「真面目バーカ」


 落ち込み、うつむく藍子の頭に理恵がチョップする。理恵の唐突な行動に理解が追いつかず、藍子が困惑する。


「り、理恵?」


「一人で背追い込みすぎなんだよ、藍子も佳織も。二人とも自分だけが悪いみたいな顔してさ。それを言うなら、佳織が相原さんを殴っていた現場に居合わせたのに、止められなかったわたしが一番悪いっつーの」


「理恵は悪くなんか――」


「誰が悪いとか悪くないとか、それってそんなに大事? そんなこと考えるより、どうやったらまた三人一緒になれるかを考えた方がよっぽど建設的じゃない?」


 理恵の言葉に、藍子は驚いた。元々の大人しい理恵からは絶対に出ないであろう前向きな発言だったからた。


「……天使様にそう言われちゃ、敵わないね」


「藍子はさ、何のために友情の合言葉を作ったの?」


 あの合言葉は、藍子が言い出して三人で辞書を引きながら作ったものだ。その意義を理恵が藍子に問いかける。


「……友情を、なくさないために」


 藍子の言葉に理恵が頷く。


「じゃあ、今こそ三人で集まって、あの合言葉を使うときじゃない?」


「……あんた、強くなったね」


 藍子も佳織もそんな風に考えることはできなかった。誰が悪いということばかり考えて、身動きを取ろうとすらしなかった。


「まあね。なんたって、人間を苦悩から救うのが仕事な天使様なわけだし?」


 不敵に笑う理恵を見て、もしかしたら神様は自分たちを仲直りさせるため、理恵の中に天使を宿してくれたのかもしれないと藍子は思った。


「わかったよ……天使様の言う通りにするよ」


 そう言って藍子が微笑む。

 長年の呪縛から解放されたかのような、清々しい笑顔だった。

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