24 誰が為にⅡ
佳織が生徒会の仕事を終えてやや遅めに帰宅する。
秋月家は二階が居住空間になっており、いつもは裏口から入ってそのまま店内を経由せずに自分の部屋に直行するのだが、今日は少し疲れたから兄か姉に甘いものでも作ってもらおうと、店の入口から入った。
そして、その場の光景に目を疑った。
何故か理恵がエプロンをつけて店の仕事を手伝っている。理解が追いつかず、佳織の表情が困惑に染まる。
「佳織、帰ってきたか。何か飲むか?」
佳織の帰宅に光が気がつき、入口に突っ立ったままでいる佳織に声をかける。
「お兄ちゃん、なんで……」
「ああ、これか? 今日一日練習して、相当上達したんだぜ?」
光は佳織が自分がギターを持ってることに疑問を抱いたのかと思いそう返答したが、佳織の疑問はもちろんそんなところにはなかった。
「そんなどうでもいいことじゃなくて! なんで理恵がいるの?」
佳織が小声で光を問い詰める。
店内はそこそこ忙しい状況のようで、理恵は忙しそうにバタバタとしていて、まだ佳織が帰ってきたことに気がついていない。
「おまえのために来たんだよ」
「なん、で……」
光の言葉に、佳織の心がざわつく。
理恵が今更、何のために裏切り者の自分に会いに来たというのか。悪いイメージしか湧いてこず、佳織が無意識のうちに後ずさる。
「佳織、逃げるのか?」
「わ、わたしには、だって……理恵と話す資格なんてない……」
かつて自分の保身のために、佳織は理恵を貶めた。自分の拙い嘘を隠すため、理恵が嘘をついているのだと藍子に言ってしまった結果が、この現状だ。
そもそも、自分が嘘をつかなければ、きっと三人の関係はこんな風にはなっていなかったと、佳織はあれ以来ずっと後悔し続けてきた。
「逃げるのもいいさ。時には必要なことだ」
光は穏やかに笑い、佳織の頭を優しく撫でる。それから、少しだけ厳しい表情をしてから光は言った。
「だがな、佳織。おまえが今ここで逃げ出したら、今度こそ理恵や藍子との関係はそこで終わると思え」
その言葉に、佳織の足が固まり、その場から動けなくなってしまう。
そんなのは嫌だった。
二人は大好きな親友だった。
でも、許されるはずがない。
あの頃に戻れるはずがない。
「……っ、はっ、ぁっ」
極度のストレスにより、佳織はうまく呼吸ができなくなり、苦しそうに胸を押さえた。
「佳織、聴け。おまえが子供のころ好きだった歌だ」
光はギターを構えると、何故か唐突に森のくまさんを弾き語りで歌い出した。今日一日ずっとこれを弾けるようにと練習していたらしい。
何が始まったのかと店内の客が光に注目する。
「あのバカ、この忙しいのに何やって――」
理恵がイラッとして歌が聴こえてくる方を振り返ると、そこに佳織がいることに気がついた。
「佳織、帰ってきたんだ……」
佳織は光の歌を聴いていると、不思議と心が落ち着いてくるのを感じる。そういえば幼い頃、自分が怖い夢を見て眠れなくなってしまったときなど、光がよく子守歌を歌ってくれたが、そのときの感覚によく似ていた。
気がつくと、気持ちも呼吸も少し落ち着いていた。
「落ち着いたか?」
歌い終えた光が、優しく微笑む。
「うん……」
「そうか。なら、あとはおまえ次第だ」
光はそれだけ言うと、カウンターの方へと戻っていく。
それと入れ替わりで、理恵が佳織の方へと駆け寄っていく。すれ違うとき、光が片手を挙げてきた。
「俺の役目はここまでだ。あとは頼んだぞ」
「まかせといてよ」
バトンタッチの合図に、理恵は光の手のひらを思いっきり叩いた。
佳織と正面から相対するのは何年振りだろうか。
もう昔のようには戻れないと、かつての理恵は諦めてしまっていた。佳織から拒絶されることを恐れて、声をかけることができなくなっていた。
それが今はこうして正面から佳織と向き合うことができている。天使の記憶が戻ったことにより、理恵の性格が前向きなものに変わったこともあるが、それ以上に大きいのは残された時間に限りがあることに気がついたためだ。
理恵はそのうち天界に還り、もう人間界にはいられなくなる。そうなる前に、どうしても三人の絆を取り戻しておきたいと思っていた。
これは誰のためでもない、理恵自身のためだ。
「佳織」
「り、理恵……」
お互いの名前を呼び合う。次の言葉は、二人とも決まっていた。
「ご、ごめん――」
「佳織、ごめんね! 今までずっと佳織から逃げてて、本当にごめん!」
佳織の言葉を遮って、理恵が深々と頭を下げる。
予想外の謝罪の言葉に、佳織がどう返事をしていいのかわからなくなり、混乱する。
「な、なんで謝るの……? 理恵は悪くなくて、だから、謝る必要なんてなくって……悪いのはわたし一人だけなのに……わたしが謝らなくちゃいけないのに……!」
「違うよ。ずっと問題を解決しようとしていなかったわたしも悪かった。佳織も、わたしたちに隠し事をして嘘ついたのは悪かった」
「で、でも、だって、わたしは……」
「お互いが悪かったんならさ、お互いにごめんなさいして、それでもういいんじゃないかなって思うんだ」
「理恵……でも……わたしはもう自分を許すことなんて……」
相手を許すことができても、自分を許すことができない。真面目な佳織らしいなと理恵は思った。
「佳織。昔三人で決めた友情の合言葉、覚えてる?」
「…………」
佳織が無言で頷く。
「じゃあ、佳織の"か"は?」
「寛容……。三人の間に何かあっても、 寛容な気持ちで許してあげよう……」
それは昔、三人で辞書と睨めっこしながら作った、三人だけの友情の合言葉だ。
寛容。なんか佳織っぽいねと藍子が笑っていたのを覚えている。少し照れ臭かったけど、嬉しかったその時の気持ちも、すぐに思い出せる。
合言葉を口にしながら、佳織は懐かしさと、理恵が何を伝えたいのかを悟り、涙を流した。
「わたしは佳織を許してる。佳織も、わたしのこと許してくれる?」
「……うん」
「じゃあね、あとは、佳織が佳織を許してあげれば、それでいいんだよ」
「わたしが、わたしを……?」
あの日から、そんなことは考えたことがなかった。
自分は裏切った。罰せられなければならない。そう思いながら、ずっと生きてきた。
それを、目の前の親友は、全部許すし、佳織自身のことも許せと言っている。
佳織はその言葉が嬉しかったし、すぐにでもすがりつきたかったが、先日の藍子の言葉を思い出す。
――あたしは、おまえが理恵に近づくのだけは絶対に許さない。
「無理だよ、理恵……やっぱり、わたしはわたしを許せない」
「佳織……」
「藍子だって、許してくれないよ……きっと、わたしが勝手に理恵と仲直りなんかしたら、すごく怒る……理恵だって藍子に嫌われちゃうかもしれない……」
「……そっか、わかった」
もともと自分たちは三人組だ。やっぱり仲直りをするのにも、三人揃った状況が必要なんだと理恵は思う。
「佳織、今度ここに藍子を連れてくる。三人でちゃんと話そう」
「無理だよ、理恵……。藍子は絶対にわたしのこと許したりしない……」
「そんなことないって。なんたって、藍子はわたしたちの親友なんだから」
そう言って笑う理恵を見て、しばらく話さないうちに理恵は随分と明るくなったんだなと佳織は感じた。
それとは正反対に、自分はこの数年で随分と暗く、後ろ向きになったと思う。
「佳織、また今度ゆっくり話そうね。ちょっとお店忙しそうだから、手伝ってくる」
理恵が手を振り、カウンターの中へと入っていく。
佳織はそれを見送ると、空いている席に座って理恵が働いている姿を眺めていた。
その光景をずっと見ていると、店内を走り回っていたまだ幼かった日々の理恵と藍子、そして自分の姿の影が見えるような気がした。
「頑張ったわね、佳織」
今度は綾香がやってきて、佳織の好きなミルクティーをテーブルに置くと、佳織の正面に座った。
「お姉ちゃん……」
「佳織、ほんのちょっとだけど、前より表情が柔らかくなったわね」
「そうかな……」
たしかに、理恵に許されたと知って少しだけ心は軽くなった気がする。
でも、理恵は知らないのだ。自分が理恵のことを嘘つき呼ばわりたことを。
そして、藍子がそのことにどれだけ怒っているのかを。
理恵はこれから藍子のことを説得しようとするだろう。それはきっと困難を極めるはずだ。あの様子では、佳織が止めても理恵は聞かないだろう。
――せめて、わたしのせいで理恵と藍子の仲が壊れることがありませんように。
佳織はただそれだけを願った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます