23 誰が為に

 理恵の体調が回復して、活動できるようになるまで三日かかった。体調が回復したといっても熱は三十七度を超えているし、体もだるいが、マリエルの力をもってしてもこれ以上は良くならなさそうだった。


 兄には心配をかけないようにともう完全に元通りになったと言っているが、正直いつまで隠し通せるかわからない。


「割れたコップか……」


 マリエルが比喩でそう言っていたのを思い出す。この体もいつまでもつのかわからない。何かの拍子で全く体が動かなくなってしまっても何ら不思議ではない。


 そう思うと、もう時間を無駄にすることはできなかった。兄には学校へ行くと言って家を出たが、今はそれよりもやるべきことがある。


 現在の時刻は八時。目的地が開店するまであと一時間はある。その間理恵は適当に時間を潰すために辺りを散策していた。


「懐かしいな、ここ」


 理恵の家からは少し離れたところにある、大きめの運動公園。広場にはたくさんの遊具があり、よく三人で遊んでいた。

 昼過ぎからは家族連れや子供たちで賑わうこの場所も今の時間は人が少なく、物寂しげな雰囲気を醸し出している。


「……取り戻すんだ、三人の絆を」


 理恵は思い出の場所を前に決意を新たにして、目的地の喫茶店オータム・ムーンへと足を向けた。


 ちょうど九時、開店時間に店の前に到着すると、そこには見覚えのある若い男がいて、大きなあくびをしていた。男は理恵に気がつくと、少しだけ驚いた顔をしたが、その後すぐにニヤリと笑った。


「理恵じゃないか。久しぶりだな。今日はどうした、サボりか?」


「久しぶり、ひかる。まあ、そんなとこ」


 男の名前は秋月光あきづきひかる。佳織の五つ上の兄だ。理恵が光と最後に会ったのは小学六年生のときで、当時の光はまだ高校生だった。


「光、高校は無事に卒業できたの?」


「ああ、なんとかな。理恵は小学校を無事に卒業できたのか?」


「小学校は誰でも卒業できるっての」


 理恵が呆れながらツッコミを入れるが、それに対して光は少し寂しそうな顔をした。あれ、今のツッコミは何か間違っていただろうか。


「卒業はできても、無事にとは言えない奴がうちにいたもんでな」


「あ……」


 きっと佳織のことだろう。佳織はあの事件以来卒業まで孤立し続け、中学に上がってからも誰かと親しそうにしているのは見たことがない。


「ま、なんにせよ、おまえが元気そうで安心したぞ」


 光は穏やかに微笑むと、昔と同じように理恵の頭をわしゃわしゃと撫でた。光は昔から理恵たち三人組の面倒をよく見ていて、よく遊び相手にもなっていた。


「ちょ、やめ、もう子供じゃないんだから」


 理恵が恥ずかしそうにその手を払う。


「そうか? 俺にはまだまだ子供に見えるけどな」


「あはは……」


 こう見えても、天使としての期間も加算すれば実年齢は三百を超えてるんだけどなと思い理恵は苦笑した。


「ここで立ち話も何だ、とりあえず店に入れよ。この時間にわざわざここに来たってことは、どうせ学校には行かないんだろ?」


 光自身、学生時代はサボりの常習犯だったこともあり、まったく咎める様子もなく理恵を招き入れる。


「うん、ありがとう。そうさせてもらおうかな」


 光の後ろについていき店内に入る。開店間もないということもあり店内に他の客の姿はない。理恵はカウンター席に座ると、カウンター内にマスターの姿がないことに気がつく。


「あれ、おじさんは?」


「親父は今日は休みだ。俺は自由だって叫びながら朝からどこかへ行った」


「えぇ……相変わらず自由だなぁ……。それで店開けて大丈夫なの?」


「店のことは俺も一通りできるようになったからな。そんな忙しい店でもないし、親父がいなくても問題ないさ」


「ふぅん。じゃあ、光はいずれここを継ぐんだ?」


「いや、俺はもっとビッグになって、いずれ世界を変えるような大きいことをやる」


「具体的には?」


「世界的なミュージシャンになって、世界を救うのさ」


 光はそう言うと、カウンター内からアコースティックギターを取り出し、弦を弾いた。


「へぇ、光が音楽やってたなんて知らなかったよ。何か弾いてみてよ」


「残念だが、それは無理だ」


「へ?」


「昨日買ったばかりでな。まだ練習中だ」


「ああ、そう……」


 そういえば昔からこういう男だった。すぐに何かに影響を受けて物事を始めるが、大抵は三日坊主に終わる。数年前にはサッカー漫画に影響を受けて、俺は必殺シュートを習得して海外リーグで大活躍するとか言っていた気がする。


「へい、お客さん、リクエストは?」


 光がギターを掻き鳴らしながら注文を聞いてくる。この店は本当に自由だなと理恵は呆れる。きっと光は相手が理恵ではなく、普通の客相手でも同じようにするのだろう。


「ダージリン。ストレートで」


「わかった、俺に任せろ」


 光がカウンターの奥に行って準備を始めようするが、すぐに戻ってくる。


「理恵、まずいことになった」


「え、どうしたの?」


 光が本当に深刻そうな顔で言うので、理恵は何があったのだろうと心配した。品切れだろうか。それとも、調理器具や設備に何か問題が発生したのだろうか。


「すまん、ギターを持ったままじゃ、紅茶を淹れられない……!」


「ギター置け」


 悲痛そうな面持ちの光に、理恵が冷たく返す。


「俺とこいつはもう一心同体なのさ。手放すことなんかできるわけがないだろう」


「さっきまで手放してたじゃん……」


「今、一心同体になったんだよ!」


 うわぁ面倒くさいなぁと理恵がツッコミを入れるべきか放置するべきか考えていると、背後から何者かの手が伸びてきて、理恵の両胸を鷲掴みにしてきた。


「ひゃぁ!?」


 流石に驚いて、理恵が悲鳴をあげる。


「だーれだ!」


 背後の何者かが両手で理恵の胸を揉みしだきながら言う。聞き覚えのある女の人の声だった。


「や、やめっ……あ、あや姉でしょ!」


「正解。理恵ちゃん、おっきくなったねぇ」


 理恵が背後を振り返ると、悪戯っぽく笑う女がそこにはいた。

 秋月綾香あきづきあやか。佳織と光の姉にあたり、歳は佳織の八つ上になる。


「……さっきの行動からその台詞は、なんか違う意味に聞こえるんだけど」


「え? そのまんまの意味で言ったよ? 昔よりおっぱい大きくなったでしょ?」


「ああ、そういやそうだな。まだまだ子供だと思っていたが、理恵も成長してるんだな」


 綾香の言葉に、光がまじまじと理恵の胸を見てくる。


「あ、当たり前でしょ!? おまえら二人ともバカなの!?」


 理恵が顔を赤くして、両腕で胸元を隠しながら二人を罵倒する。


「それより、今日はどうしたの? サボりなんて不良だねぇ、理恵ちゃん」


「えーと、ちょっと聞きたいことがあって来たんだけど……」


 佳織のことについて家族から話を聞きたかったのだが、とても真面目な話を切り出せる空気ではなかった。


「綾香、すまないが理恵にダージリンを淹れてやってくれないか? 俺は手が離せない」


「光、ギターを置けばいいのよ?」


 綾香がにこやかに笑いながら言う。


「俺とこいつは一心同体――」


「ギターぶっ壊すわよ?」


 綾香がにこやかな笑顔のまま、恐ろしいことを言う。


「――あばよ相棒。一時の別れだぜ」


 光は永遠の別れよりも一時の別れを選び、大人しく言う通りにすると、今度こそカウンターの奥に引っ込んで紅茶を淹れにいった。


「あや姉も光も変わってないね」


「……いいえ、わたしは変わったわよ、理恵ちゃん」


「……具体的には?」


 綾香はそう言って悲しそうな顔をしているが、どうせまた先ほどの光のようにロクでもない返しがくるのだろうと予測しつつ、理恵が聞く。


「高校のときから付き合ってた彼氏に、先月振られたのよ……」


 綾香がズーンと落ち込む。


「え、えぇー……」


 ロクでもないとは一蹴できない、意外にも重たい話が出て来てしまい、理恵が困惑する。


「理恵ちゃん、今から大事なことを言うから、よく聞くのよ」


「う、うん」


「おまえだけを一生愛するよ、なんて甘い言葉は決して信じてはいけないわ」


「は、はあ、そうなんだ?」


 綾香が遠い目をしてそんなことを言うが、恋愛経験のない理恵にはそんな返事しかできない。


「理恵ちゃん可愛いから、変な男が寄ってこないかお姉ちゃん心配よ」


「いや、わたしそんなモテたことないけど」


「隠れファンがいっぱいいるわよ、きっと」


「そんなことないと思うけどなぁ……」


「ふふ。そういえば聞きたいことがあって来たって言ってたよね。なになに?」


「え、えーと」


 この和やかなムードの中、佳織の話題を出していいものだろうかと理恵が躊躇する。おそらく光も綾香も理恵と佳織が疎遠になっていることは知っているはずで、少なからず空気を重くしてしまうだろう。


 本当はマスター、佳織の父親にだけこっそり話を聞ければそれが一番良かったのだがと理恵が考えていると、綾香が見透かしているように口を開いた。


「佳織のことでしょ」


「え?」


「あれ、佳織のことじゃないの?」


 そうだとしたら逆に意外だというように綾香が問いかけてくる。


「あ、いや、そう、佳織のことなんだけど……なんでわかったの?」


「やっぱり。理恵ちゃんなら、ああなった佳織を放っておけないで、いつか来てくれるって信じてた」


「……すごいね、あや姉は」


 理恵の要件を看破したこともそうだが、何年も来ていなかった自分を信じていてくれたことに、素直に理恵は感心した。普通はなかなかできることではない。


「知ってると思うけど、佳織はね……あのことがあって以来、塞ぎ込んじゃって……。家族に対しても壁を作っちゃってるの」


「……そっか」


「へい、ダージリン一丁! おまち!」


 二人のしんみりとした空気をぶち壊すように光が紅茶を差し出してくる。


「ここはラーメン屋か」


 律儀にツッコミを入れてから、理恵が紅茶を口にする。


「うん、美味しい。光が淹れるからどうなるかと思ってたけど」


「一言余計だ。で、佳織の話か?」


「ああ、うん。光は、佳織とは話せてるの?」


「嫌がってるところを無理矢理つきまとったりはしているんだが、やはり昔のようにはいかなくてな。難儀してるところだ」


「嫌がってるならやめてあげなよ……」


 気分が沈んでいる時にこのハイテンション男に絡まれたら地獄だろうと、理恵は佳織を気の毒に思う。


「正直、あの子とどう接していいか、わたしたちもわからなくなってるのよ。……家族なのに、情けないわよね」


 綾香が落ち込んだ様子で言う。


「佳織は、ここの手伝いしてるよね? あれはなんで?」


「ああ、光もわたしも店のことやってるからね。自分だけやらないわけにはいかないって、佳織が言い出したのよ」


「……そういうところ変わってないね、佳織は」


 優等生で、正義感と責任感が強い。藍子とは正反対の性格なのに、あの二人は不思議と馬が合っていた。正反対ゆえに時にはぶつかることもあったが、それを仲裁するのは理恵の役割だった。


「その……佳織は、わたしや藍子のこと何か言ってたことはある?」


「あいつからはないな。俺や親父が、おまえらの話を出してみたことはあるが」


「それに対して佳織は?」


「もう友達じゃないから、二人の話は出すなって言われたよ。随分と寂しそうな顔をしてたけどな」


「そっか……。光と、あや姉から見て、佳織は……わたしたちと友達に戻りたいと思ってるように見える?」


「当たり前でしょ。あの子、口ではもう友達じゃないとか言ってるけど、未だに理恵ちゃんと藍子ちゃんと三人で撮った写真を部屋に飾ってるんだから」


 綾香の言葉に光が首を振る。


「物事はそう単純じゃない。あいつは親友を裏切ったという十字架を背負っていて、おまえらに対して引け目を感じている。簡単に仲直りしましょう、はいそうしましょうとはならんぞ」


「光、せっかく理恵ちゃんが佳織のために来てくれたのに、水を差すようなことを言わないでよ」


「理恵はもうそこまで子供じゃない。心も体もな。そうだろ?」


 光が理恵を見てニヤリと笑う。


「体もって言われるとセクハラにしか聞こえないんだけど。あと、そのニヤッと笑うのも見ようによっては変態っぽい」


 理恵が先ほどと同じように、自分の体を抱くようにして両腕で胸を隠した。


「そういう意味で言ったんじゃねぇよ! 俺今いいこと言ったよな!?」


「光、今度また理恵ちゃんをいやらしい目で見たら、ちょん切るわよ」


 綾香が指をハサミの形にして、ちょきちょきと何かを切る動作をする。


「一度もそんな目で見たことねぇよ! くそ、やはり俺にはおまえしかいないようだ、相棒……」


 光は置いてあったギターを握りしめると、カウンター内にあった練習教本を開いてギターの練習を始めてしまった。そんな光を放置して、理恵が話を続ける。


「光の言うように簡単ではないとは思う。でも、わたしは佳織と藍子と一緒に三人でまた遊びたいんだ。だから絶対に諦めない。…………あれ?」


 自分の発言に理恵は違和感を覚えた。自分は天使の使命として誰かを救うことをいつも考えてきたはずだった。それが今は使命感ではなく、自分がそうしたいから、また三人で遊びたいからという理由で動いていることに気がつく。


「理恵ちゃん、どうしたの?」


「う、ううん、なんでもない。とにかく、わたしは諦めないから、あや姉にも力を貸してほしいの」


「もちろんよ」


「おい、俺を除け者にするんじゃねぇ」


「えぇ……光は、なんか邪魔しそうだし……」


 理恵はあからさまに迷惑そうにするが、光はまったく気にする素振りを見せずにギターを爪弾く。


「そんなわけあるか。音楽は世界を救うんだぜ」


「意味わかんないから……。世界よりも佳織を救ってよ」


 呆れる理恵に対して、光はもちろんだと頷く。


「これからそうする予定だったのさ。俺がギターを弾いて、あいつが歌う。そうするとどうだ、俺も佳織も幸せになるだろう?」


「幸せなのは光の頭だけよ」


 綾香が呆れたように言うが、光は褒められたと勘違いしたのか、照れ臭そうに鼻をかいた。


「褒めるなよ。照れるだろ」


「光は悩みとかなさそうだよね」


 きっとこの男は天使の救いなど微塵も必要としない人生を送るのだろうと理恵は思う。


「まあな。おっと、お客さんだ」


 光は店に入ってきた中年の主婦グループの接客に行ってしまい、場には理恵と綾香の二人きりになる。


「……光もね、本当はああ見えて、佳織やあなたたちのことで本気で悩んでるのよ。うちで一番あなたたちと仲良くしてたのは、光だったからね」


 たしかに、理恵たち三人はよく光に遊び相手になってもらっていた。光がいつも新しい遊びやおもちゃを持ち込んで三人に提供し、時には近所の子供たちを大勢巻き込んでの大運動会をしたこともあった。


「そうなんだ。……ちょっと悪いこと言ったかな」


「大丈夫よ。あいつバカだから、そんなこと気にしないから。ほら、見て」


 接客中の光を見ると、ギターをめちゃくちゃに弾きながらハイテンションで注文を取っていた。


「へい! 注文を繰り返すぜ! 皆様ケーキセットで飲み物はスペシャルブレンド二つ、キリマンジャロ一つ、マンデリン一つ、オーケー!」


「ああ、なるほど、バカだね、あれは」


 その様子を見て、一瞬でも光に悪いなどと思った自分もバカだったと理恵は反省した。

 主婦たちは常連のようで、光のそのテンションに引くこともなく、みんな笑っていた。


「光ちゃん、今度はギター始めたの?」


「ああ、いつかスターになるから見ててくれよな、おばちゃん」


「あらら、じゃあサインもらっておかないとねぇ」


「いいぜ、今度色紙を持ってきてくれよな」


 主婦たちとの談笑を終えると、光がカウンターに戻ってきて注文の品を用意し始めようと準備を始める。


「おまえたちも手伝ってくれないか。綾香はコーヒーを、理恵はケーキを盛り付けてくれ」


「はいはい、わかったわよ。理恵ちゃん、続きはあとでね」


 綾香は理恵にウインクをして、カウンターの奥へ行ってコーヒーを淹れる準備を進める。


「えぇ……わたしお客さんなんだけど?」


「いいじゃないか。昔はよく手伝ってくれただろ?」


 そう言われると、なんだか懐かしくなってくる。よく幼馴染の三人組で接客や調理の真似事をしてみたりしていた。


「別にいいけどさ……。じゃあ光は何をするの?」


 注文はコーヒーとケーキだけのはずだ。綾香が既にコーヒーを淹れる準備を進めているため、理恵がケーキの準備をすると光の仕事がなくなる。


「無論、俺は歌うのさ」


 光が誇らしげにギターを掲げる。


「働け」


 理恵は口ではそう言いつつも、久しぶりに喫茶店の仕事を手伝えると思うと昔を思い出してワクワクしてきたのも事実で、カウンター内に入っていった。


 いつかまた、藍子と佳織と三人でまたここに立てる日が来るといい。いや、そうなるように自分が頑張るのだと、理恵は決意を新たにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る