友情の合言葉

20 天使になるということ

 天使の力が戻った翌日、理恵は高熱を出して学校を休んだ。


 兄が心配して会社を休むとまで言い出したが、マリエルもいるし大丈夫だからと理恵が言い続けて、兄は渋々と出勤した。


 時刻は昼下がり、理恵は自室のベッドで横になっている。ベッドの横にはマリエルがいて、付きっきりで看病していた。


「セリー、お腹が空いたら言ってくださいね。わたくしの愛がたくさんこもったおかゆを作りますから」


「お腹壊しそうなものをこめないでよ……。ていうか、あんた料理なんかできるの?」


「ひどいですー。おかゆくらいは作れますよ。鍋にお米と水を入れて火にかけるだけじゃないですか」


「ああ、そうね……」


 米と水の分量とか味付けとか色々気にするべきところはあるのだが、今の理恵にはツッコミを入れる元気もないので適当に流すことにする。それよりも気になることがあった。


「この熱って、天力使った反動でこうなってるわけ?」


「……いいえ」


 マリエルが目を瞑り、ゆっくりと首を振る。


「じゃあ、なんなわけ? ただの風邪ってわけじゃないよね? ……なんとなく想像はつくけど」


「言ってもいいんですか?」


「自分の体のことは知っておきたいからね」


「おそらく、セリーの想像通りですよ。その高熱は、セリーの魂が天使の魂に変質したことによるものです。人間の体は天使の魂の容れ物としては不足してますから。例えるなら、そうですねぇ、ガラスのコップに熱湯を注いだことによってコップが割れてしまった、みたいな感じでしょうか?」


「ふーん……じゃあこの熱ってずっと下がらないの?」


「わたくしの力で時間をかけて癒せば、ある程度は回復します。……ただ、割れたコップはもう元通りにはなりません」


「万全の体調には戻らないってわけね……しんどー……」


「……セリー、今のあなたは、だいたい三分の一程度の力を取り戻して、その状態です。もう一人の人間を救って三分のニ、三人目を救ったとき、あなたの魂は完全に天使のものとなります。そのとき、あなたは――」


「その続きは言わないでいいよ。こうなったときに、多分そうだろうって、もうわかっちゃったから。……マリーさぁ、報告兼サポート係って言ってたけど、本当はもう一個仕事あるんでしょ?」


 魂が完全に天使のものとなったとき、その負荷に耐えられず人間としての芹沢理恵は死ぬ。そして、天使の魂は天界へと回収され、再び天使セリエルとして転生するのだろう。そうすると、その魂を回収をする係が必要になる。


「……そうですね。あなたの魂を天界へと連れて行くこと。それもわたくしの仕事の一つです」


「じゃあ、わたしがこうなるって知ってたわけだ」


「……はい、知って、いました」


 淡々とした理恵の言葉に対して、マリエルの声が震える。理恵が見上げると、マリエルの頰を一筋の涙が伝っていた。いつもの嘘泣きとは違う、本物の涙だった。


「……申し訳ありません。天使長様から、このことは口止めされていました。このことを知ったら、あなたは人を救うことを躊躇するだろうと」


「わたしの上からの評価って本当に低いんだな……今の状況よりもそっちに泣けてくるわ。腐っても天使なんだから、そんなことで使命を投げ出さないっつーの」


「わたくしもそう思ってましたよ。セリーは昔から怠けているように見えても、根は真面目でしたから」


 マリエルが泣きながらも、笑ってそう言う。


「……ごめんね、マリー。黙ってたことを責める気は全くないんだ。むしろ、知ってても言えないのは、辛かったでしょ?」


「もう、どうしてセリーが謝るんですか。悪いのは、わたくしの方です。……本当にあなたを信じるのなら、口止めされてることなど無視して言うべきだったのに。……本当にごめんなさい」


「いいって、もう謝らないでよ。一番悪いのは天使長のクソ野郎なんだからさ。天界戻ったら絶対に一回は殴る」


 理恵が握り拳を作り、天井に掲げる。


「んふふ、そんなことしたら、罰としてキツい部署に回されちゃいますよ」


「……力と一緒に、曖昧だった記憶もかなり戻ったんだ。マリーはさ、わたしが人間に転生するって知ったとき、天使長にかなり抗議してくれてたよね」


「……はい。だって、セリーと離れたくありませんでしたもの。結局、もう決まったことだの一点張りで、何もできませんでしたが……。今回、あなたのところに派遣される天使も、もともとはわたくしの予定ではなかったんですよ? 無茶を言って変えてもらいましたけど」


「へぇ……よくあの頑固な天使長に意見を通せたね。どうやったの?」


「んふふ、この件を断ったら、わたくし堕天して悪魔になりますって言っただけですよ。最初はあしらわれましたけど、試しに本気で堕天しかけてみたら、わかってもらえました」


「あんた恐ろしいことするね……」


 悪魔のような天使だと思ってはいたが、まさか本気で悪魔になりかけていたとは思っておらず、理恵が戦々恐々とする。


「だって、どうしてもセリーに会いたかったんですもの」


「そんなに愛されて幸せ者だよ、わたしは」


 嬉しさ半分、呆れ半分で理恵が笑う。


「ああ、わたくしの愛がようやくセリーに通じたんですね。すごく嬉しいですー」


「はいはい、ちゃんと伝わってきたよ。……夜までには、熱下がるかなぁ」


 兄にこれ以上心配をかけると、今度は兄の方が心労で倒れてしまいかねない。


「大丈夫ですよ。わたくしがどうにかします。お兄さんの昨日のあの顔からして、どうにかしないと殺されてしまいそうですしー」


「死ぬほどシスコンだからなぁ、兄さん……。家がこういう状況だから、仕方ないけど」


 芹沢家は両親がともに不在で、兄と妹の二人暮らしだ。父親はアルコール中毒かつギャンブル中毒で、家族に暴力を振るうことも珍しくなかった。理恵が生まれて間もないころ、それに耐えられなくなった母親は家を出て失踪したので、理恵は母親の顔を知らないし、今生きてるのか死んでるのかもわからない。


 兄がよく父親に殴られていたのは覚えている。当時幼かった理恵はそれを見て泣き出すことが多々あり、その泣き声が余計に父親の癇に障ったらしく、理恵まで殴られそうになったところを、兄が文字通り身を呈して守ってくれていた。


 そんな父親も八年前に死んだ。詳しいことは知らないが、自殺だったらしい。きっと自分のろくでもない人生が嫌になったんだろうと理恵は考えている。


 それ以来、兄は親戚の助けを借りつつも、働いて理恵を養ってきた。当時高校生だった兄は、より長い時間を働くために通信制の高校に転入までした。

 今も、理恵を育てるために、そして親戚への借金を返済するためにあんなに夜遅くまで働いている。


「……家庭の事情は、わたくしも何度かセリーの様子を見にきているので多少は知っています。だとしても、お兄さんは歪みすぎてます。きっとセリーのためなら、本当に人だって殺すでしょう」


「……兄さんのことを悪く言わないで」


 理恵が怒気を込めて言うが、マリエルはそのまま続ける。


「あの歪な魂を見たら、セリーだってそう思いますよ?」


「マリー、本当にやめて」


「……申し訳ありません、少々口が過ぎました」


 理恵が本気で怒っていることを感じ取り、マリエルは口をつぐんだ。


「兄さんはいつだって必死にわたしを守ってくれて、育ててくれたの。自分の人生さえも投げ打って。……そりゃ、マリーの言うように多少は魂も歪むよ」


「…………ええ」


 それが多少どころではないから問題なのだが、今それを言ったところで何にもならないだろうと、マリエルはただ頷くことにした。


「変なことを言ってしまいましたね、忘れてください。さあ、それより治療の続きをしましょうか」


 昨晩からマリエルがずっと治療を続けているおかげで、理恵の体調は随分楽になった。それでもまだ三十八度近い熱はあるが。


「ありがとう。マリー、疲れない? 少しは休んだら?」


「大丈夫ですよ。自分も苦しいでしょうに、セリーは優しいですね」


「おかげでだいぶ楽にはなってるよ」


「良かったです。ああ、そうそう、わかってると思いますけど、天力はもう使っちゃダメですよ。体への負担が大きいので」


「わかってるよ。ハンバーグを浮かせる程度の力を使って倒れるんじゃ、どっちみち使い物にならないし……」


 念動力で触れていないものを動かすことは、天力の初歩の初歩だ。それすらも満足に扱うことができないなら、むしろ力なんて戻らなくても良かったのにと理恵は思う。


「万が一、あれより大きい力を使った場合、命の保証はできませんからね? 楽したいからって移動に瞬間移動使ったりしたらダメですよ? 死にますからね?」


「命懸けで楽しようとは思わないよ……」


 そんなやりとりをしている最中、理恵の携帯から通知音が鳴り、メールの受信を伝える。藍子からだ。お見舞いに行くけど欲しいものはないかという内容だった。


「うーん……」


「どうかしました?」


「藍子がお見舞いくるから、なんか欲しいものないかって」


「藍子さん……ああ、あの子ですね。セリーの幼馴染の」


「あれ、会ったことあるっけ?」


「いえ、ないですよ? 天界からセリーを見守っていたときに、よく一緒に遊んでいるところを拝見していましたので」


「ああ、そういうこと……」


 人間に転生してから、きっと自分は常に天界に監視されていてプライバシーというものがなかったんだろうと理恵が溜め息を吐く。


「それと、もう一人いましたよね? セリーと仲の良かった子が」


「佳織ね。……そうね、仲良かったよ。いつも三人で遊んでた」


 三人で毎日佳織の家の喫茶店に行き、時には調理を手伝ってみたり、接客をしてみたり、ただただ遊んだりと色々やっていた。


「あんまりセリーが楽しそうなので、わたくし見守りながらも、嫉妬に狂って堕天するところでしたよー」


「あんた、堕天ネタ気に入ったのね……。あんまり使いすぎるとすぐに飽きられるから、ほどほどにしといた方がいいよ」


 それよりも、藍子に持ってきてほしいもの。食べ物や飲み物は足りているし、それ以外だと、何かあるだろうか。

 佳織は理恵と喫茶店で会った日、泣いたという。違う、今は藍子に持ってきて欲しいものを考えていたんだ。頭がまだ熱でボーッとしていて、理恵の思考がまとまらない。


「いや……そうか」


 佳織は泣いていた。きっと救いが必要なはず。佳織にとっての救いとは、おそらく理恵と藍子の二人とまた友達の関係に戻ることだろう。そう考えて、無理なことだろうと思いつつも藍子のメールに返事をする。


 佳織を連れてきて欲しい。


 そのメールに返事はなく、その日に藍子がお見舞いに来ることもなかった。




◇◆◇




 理恵からのメールの返信の内容に、藍子は戸惑っていた。何故今になって理恵が佳織のことを言い出したのかがわからない。

 理恵本人に直接聞くべきかとも思ったが、佳織との件は藍子にとっても苦い記憶となっているため躊躇してしまう。


 帰りのホームルームが終わり、廊下を歩いていると、当の佳織とすれ違う。いつもはお互いに目を合わせることもないのだが、ちょうど佳織の話題が出ていたため藍子がその顔をチラッと見たとき、偶然にも佳織と目が合ってしまう。佳織が目を逸らし、そのまま通り過ぎようしたところを藍子が呼び止める。


「佳織」


「……な、なに?」


 まさかもう何年も話をしていない藍子から声をかけられるとは思っておらず、佳織が驚きとも怯えともとれる顔をする。


「最近、理恵と何かあった?」


「……昨日、会長とうちの店に来てたけど、別に何も話したりしてないよ。理恵もわたしとは話したくないだろうし」


「そっか。わかった、教えてくれてあんがとねー」


 藍子は佳織に背を向けて、ひらひらと手を振りながらその場を去ろうとしたとき、今度は佳織が藍子を呼び止める。


「藍子……なんで、わたしに話しかけたりしたの?」


「理恵が今日病欠しててね。お見舞いに何持ってきてほしいかって聞いたら、あの子、あんたを連れてきてほしいって言ったのよ。だからかな」


 藍子が言うことに、佳織が信じられないといった風に目を見開く。だが、藍子がそんな無駄な嘘をつく人間ではないこともよく知っている。


「そう、なんだ……理恵はどうして……」


「知らんよ。熱で頭がどうにかなったんじゃない? ああ、言っておくけど理恵に直接聞こうとか考えないでね? あたしは、おまえが理恵に近づくのだけは絶対に許さない」


 藍子は佳織を睨みつけてそれだけ言うと、今度こそ佳織の前から立ち去っていった。


「わかってるよ……でも、じゃあ、もうわたしの視界に入ってこないでよ、二人とも……!」


 苦虫を噛み潰したような顔で、一人残された佳織はそう呟いた。

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