19 救済

「あのー、ラブラブなところ悪いんですけどー、わたくしたちのこと忘れてませんかー?」


 いつの間にか、マリエルと茜が理恵の部屋から居間に戻ってきていた。


 慌てて理恵が飛び退いて、ついでに兄に全力で蹴りを入れる。


「痛ぇ!? 俺なんで蹴られた!?」


「う、うっさい、馬鹿! キモい!」


「えー……」


 意味もわからずに蹴られたうえ、理不尽な罵詈雑言を浴びせられた兄が愕然とする。ついさっきまで昔の甘えん坊の理恵に戻っていたのに、なんだこの変わり様は。


「ど、どこから見てたの?」


 理恵が怒りと羞恥で顔を真っ赤にしてマリエルを睨む。するとマリエルはニッコリ微笑んで、茜を後ろから抱きしめた。


「ひゃ!? マ、マリーさん?」


 マリエルの突然の行動に、茜が驚いて短い悲鳴をあげる。


「セリーがこうやってお兄さんを後ろから抱きしめてー、お兄ちゃんのこと、大好きだよ……って言ったあたりからですー」


「イヤァァァアアア――――ー!」


 理恵が絶叫し、団子虫のようにその場で丸くなる。他人には絶対に見られたくないところを、よりにもよって一番嫌な奴に見られてしまった。


「やーん、セリーすっごく可愛かったですー。あんな風に誰かに甘えるセリーは初めて見ましたー」


「う、うう、うるさい! てか、あんた天界からわたしらのこと見てたことあるって言ってたじゃない! どうせもう見られてたんだから大丈夫! うん大丈夫!」


 必死に自分に言い聞かせる理恵に、マリエルが追い打ちをかける。


「えー? でも、それはですねぇ、あくまで人間としての記憶しかない芹沢理恵のときですよね? 今は違いますよねぇー? セリー?」


「イヤァァァアアア――――ー!」


 理恵は再び絶叫すると、今度はゴロゴロと床を転がりだした。


「可哀想だから、それ以上はやめてやれ」


 我が妹のあまりの不憫さにいたたまれなくなり、兄がマリエルにストップをかける。


「んふふぅ、セリーが可愛すぎるので、ついつい。それにしても、お兄さんはああいう場面を見られても、動じないんですね?」


「別に恥ずかしいことはしてないからな」


「兄妹でベタベタしてるところを他人に見られるのは、普通は恥ずかしいんですけどねぇ」


「そんなもんか? ああ、それより、もう大丈夫なの?」


 兄が置いてけぼりになっている茜を気遣い、声をかける。


「は、はい、お恥ずかしいところをお見せしてしまい、申し訳ありません……」


「そんな畏まらなくても大丈夫だよ。ご飯は食べれる?」


「た、食べられまひゅ」


 緊張のあまり噛んでしまい、茜がカーッと顔を赤くしてうつむく。


「お兄さんハーレムですねぇ。こんな美少女たちに囲まれて嬉しいんじゃないですか?」


「ああ、理恵に友達が増えたのは嬉しいな」


「もうっ、そういうことを言ってるんじゃありませんー。わたくしたちって、そんなに魅力がありませんか?」


 マリエルが兄の腕に抱きつき、胸を押し当ててくるので、慌てて兄が振り払おうとするが、マリエルはくっついたまま離れない。


「だ、だから、おまえはそういうのやめろ!」


「……鼻の下」


 団子虫になってる理恵が兄を上目で睨み、ボソッと呟く。


「伸ばしてない!」


「ほら茜さんも。もう片方の腕が空いてますよー」


「えぇ!? わ、わたしも、やるの?」


 いきなりの無茶振りに、茜が動揺する。


「え? やらないんですか?」


「え、え? じゃ、じゃあ、やります」


 マリエルがあまりにもやることが当たり前のように言うので、茜はついそう言ってしまった。


「し、失礼します」


 茜が恐る恐るといった様子で腕に抱きついてくるので、兄も流石にそれを邪険に振り払うことはできなかった。


「んふふ、これぞまさしく両手に花ってやつですねー、お兄さん?」


「はぅ…………」


 左腕には笑いながら茶化してくるマリエル。右腕には赤面したまま黙って腕に抱きついてくる茜。茜がくっついてきたことにより兄は振り払うこともできなくなり、その場でタジタジになる。


 そんな兄の様子を、まだ団子虫の姿のままの理恵が白けた目で見つめる。


「よかったねぇ兄さん。可愛い女の子に挟まれてさ」


「ち、違うぞ理恵! べ、別に俺はこんなことをされたって、嬉しくない!」


「い、嫌でしたか……?」


 茜が涙目で、しかも上目遣いで言う。そんな目で見つめられると嫌とは言えなかった。


「……そ、そういうわけではないけど」


「やっぱり嬉しいんじゃん、兄さんキモい」


「ああもう! 飯食うぞ飯! せっかく作ったのに冷めるだろ! 離れろマリエル! 茜ちゃんも、ほら! 理恵も起きろ!」


 兄が強引に話を打ち切ったため、マリエルは仕方なさそうに、茜は申し訳なさそうに、それぞれ兄から離れていく。


 理恵はのそのそと起き上がると、食器を用意して料理の盛り付けをはじめたので、茜もそれを手伝った。

 兄はこの一件でドッと疲れてしまったため、残りの支度を二人に任せて先にテーブルに着くことにする。


「はぁぁ……」


「んふふ、深いため息ですねぇ」


 ため息の元凶が兄の向かい側に座り、ニコニコ笑っている。


「おまえって悪魔だよな」


「あら、失礼ですね。こんなに愛らしい天使を捕まえて」


「俺は出会った初日以来、おまえのことを愛らしいとも天使とも思ったことはない」


「あーん、茜さんー、お兄さんがひどいこと言いますー、助けてくださいー」


 茜がテーブルに料理を並べていると、マリエルが泣きついてくる。


「わ、わたしに助けを求められても……せ、芹沢さんー」


 マリエルに助けを求められて困った茜が、更に理恵に助けを求める。


「先輩、マリーの言うことは全部無視していいですからね」


 料理をテーブルに並べ終えて、理恵と茜も食卓に着く。理恵は兄の隣に、茜はマリエルの隣に座り、二人ずつ対面する形になる。


「そ、それは流石にマリーさんが可哀想だよ」


「んふふ、茜さんは優しいですねー」


「おまえよりも遥かに天使っぽいな」


 兄の言葉に、マリエルがうるうると瞳を潤ませる。


「お兄さん、もしかしてわたくしのこと嫌いですか?」


「あーはいはい、もう茶番はいいからご飯食べようね。いただきます」


 理恵がマリエルを無視して食事を始めたことをきっかけに、四人での夕食が始まった。


「芹沢さん、ごめんなさい、作るの手伝うって言ったのに……」


「気にしないでください、先輩。また今度一緒に作りましょう?」


 落ち込む茜に、理恵が笑って応える。その様子を見て、茜の友達がいないという悩みを聞いていた兄が口を挟む。


「理恵と茜ちゃんはどういう関係なの?」


「あ、え、えーと……」


 そう言われると、どういう関係と言うのが正しいわからず、茜が言葉に詰まっていると、代わりに理恵が答える。


「学校の先輩だよ」


「う、うん、そう、そうです」


 やはりまだ友達というほどの関係ではないのかと茜が少しだけ落ち込んでいるところに、理恵が言葉を続ける。


「でも、一緒にお茶もしたし、こうして家にも来てくれたし、先輩っていうよりは、もう友達って言った方がしっくりくるかな?」


「せ、芹沢さん……ありがとう」


 その言葉に、茜は不覚にも泣きそうになったが、ここで泣いては周りに心配をかけてしまうと思いぐっとこらえた。


「それなら、お互いに先輩、芹沢さんって呼んでるのはちょっと他人行儀じゃないか?」


「そうですねぇ、ここはひとつニックネームでも考えてみましょうか? 真の友とは、お互いのことをニックネームで呼び合うものです! そう、わたくしとセリーのように!」


「あんたと真の友っていうところは全力で否定したいけど、そうね……このままじゃちょっと他人行儀かも」


「ニックネームかぁ……周りのみんなからは会長って呼ばれてるけど……」


「それだと先輩って呼ぶ以上に距離がある気がしますよ。うーん……」


「う、うん、そうだね……どうすればいいかな?」


「普通に名前呼びでいいんじゃないか?」


 悩む二人に兄がそう言うが、何故かまったく関係のないマリエルが不満そうにする。


「えー、それじゃつまらないですー」


「つまるつまらないの話じゃないだろ、こういうのは」


「んー……茜さんって呼べばいいかな?」


「じゃ、じゃあ、わたしは理恵さん、かな?」


「まだちょっと距離があるような気がするが……。呼び捨てはダメなのか?」


 ぎこちない二人に、兄がそう提案をする。


「えぇ……仮にも年上の人を呼び捨ては失礼だと思うけど」


「あ、わ、わたしは気にしないよ? 理恵さん……理恵がいいなら、そう呼んでくれた方が嬉しい。言葉遣いも、お兄さんやマリーさんに喋ってるみたいに、普通にしてほしいな」


「え、そ、そうですか? えーと、じゃあ……あ、茜って呼ぶね、いい?」


「うん、理恵」


 二人がお互いの名前を呼び、少し恥ずかしそうに笑い合う。


 このとき、茜は長年抱えていた苦悩から本当の意味で解放された。表層の悩みは兄が解消し、マリエルの目にも既に悩みはなくなっているように見えていたが、天使の目を持ってしても見えない心の奥底に残っていたしこり、それがなくなった瞬間だった。


 無意識のうちに、茜の目から涙が零れおちる。


「あれ……なんで……」


 拭っても拭っても、次から次へと溢れ出て止まらない。


「嬉しいのに、なんでわたし、泣いてっ……ご、ごめんなさい……」


「茜。今は泣いてもいいよ。その分これから、わたしと、ううん、わたしたちと一緒に、たくさん笑える日が来るんだから」


 理恵のその言葉で、様々な感情が爆発した茜はついに声をあげてわんわん泣いた。

 そんな茜を隣にいたマリエルが抱きしめて、頭を撫でる。


「よしよし。茜さんは今までよく頑張りましたからね」


 その最中、理恵の体が微かな光に包まれた。


「お? おおお? な、なになに?」


「セリー、一人救ったということで、天使の力が少し戻ったんですよ」


 慌てる理恵にマリエルが解説する。


「そういうことか。もう天力使えるかな」


「簡単なものなら使えるでしょうね。あ、でも――」


 マリエルが最後まで言い終える前に、理恵が試しにと天力を使い、兄の食べかけのハンバーグを宙に浮かせてみる。


「おおお、よっしゃ、どうだ見たか兄さん!」


 記憶が戻った初日に天力を使うことができず、恥をかいたことを未だに根に持っていた理恵は、兄に対してドヤ顔をする。


「食べ物で遊ぶな」


 兄は特段驚くこともなく、ただそう注意するだけだったので、理恵はつまらなそうにハンバーグを元に戻す。


「ちぇー、もうちょっと驚いてくれてもいい……じゃん……?」


 そう言いながら、理恵が倒れそうになるのを兄が慌てて支える。


「理恵!? おい、どうした!?」


「あれ……なんだろ、体に力が入らない……」


「天使の力は人間の体には負担が大きすぎるから、使わない方がいいですよって言おうとしましたのに……」


「えぇ……あんたポンポン使ってるじゃん……」


「わたくしの肉体は特別製ですから、人間のそれとは別物です」


「これじゃ力戻っても意味ないじゃん……」


「おいマリエル、理恵は大丈夫なのか!?」


「前例がないので何とも言えませんが、おそらく大丈夫かと……」


「おそらく?」


 兄の今まで見せたことのない鬼の形相に、茜がギョッとする。


「お兄さん、落ち着いてください。わたくしの力でセリーを癒しますから、ご安心ください」


 兄が居間のソファに理恵を運び、そこに理恵を横たわらせる。


「兄さん、心配しすぎだって……」


 理恵が力なく笑うが、その様子を見て兄はますます心配になった。


「セリー、じっとしていて」


 マリエルが横になっている理恵に手をかざすと、理恵の体が淡い光に包まれる。


「あーあ、マリーばっかり天力使えて、ずるいなぁ……」


「もう喋るな、バカ!」


 兄のその声と、今にも泣きそうになっている心配そうな顔を見たのを最後に、理恵は意識を失った。


 わたしは大丈夫だから、心配しないで。意識を失う前にそう伝えたかったが、もう口を動かすこともできなかった。

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