17 天使の忠告
夕方六時を過ぎたころ、理恵と茜が二人で夕食の準備を始める。
「今日の夕食は何でしょうか?」
「…………」
マリエルがそんな二人を眺めながら質問するが、まだ先ほどの件を根に持っている理恵は答えない。
「あ、あの、ハンバーグを作ります。芹沢さんのお兄さんが好きらしいので」
代わりに茜が答える。
「あー、いいですねぇ、美味しいですよねぇ、ハンバーグ」
「ていうかさ、マリー」
理恵が不機嫌そうに口を開いた。
「はい?」
「あんたここに住むとき、食事はいらないって言ったよね? それが今は三食きっちり食べてるのはどういうわけ?」
「えー、セリーも知ってるじゃないですかー。優しい優しいお兄さんが、わたくしだけ食べられないのは可哀想だし、ご飯はみんなで食べた方が美味しいって言ってくれたからですよー」
「それでもちょっとは遠慮するでしょ、普通」
「あーん、茜さん助けてくださいー。わたくしは真面目に仕事をしただけなのに、セリーが怒りますー」
「え、えぇ!? わ、わたし!?」
急にマリエルに泣きつかれ、茜が動揺する。
「い、いやー、そのー、えーと……」
隣には不機嫌そうに玉ねぎを刻む理恵。正面には涙目のマリエル。どうすればいいのかと茜がオロオロする。
「先輩! 先輩もさっきのはひどいと思いますよね!?」
「え、えー、う、うん、そうだね、ちょっとひどかったかなぁ、あれは」
ほら見ろと言わんばかりに、理恵がマリエルに対してドヤ顔をする。
「茜さん。真面目な茜さんなら、仕事で嘘の報告をしたらダメだってわかりますよねー?」
「え!? う、うん、それはもちろんダメ、ダメだよ」
その茜の返答に、マリエルが理恵を見てニヤッと笑う。
「先輩はわたしよりも、マリーの肩を持つんですか⁉︎」
「ええぇぇ!? そ、そ、そういうんじゃないよー!?」
「はぁ……残念です。まさか茜さんが、仕事で嘘の報告をしてもいいだなんて言う人だったなんて……」
「そ、それも違うー!?」
二人の板挟みになり、茜の目がぐるぐると回る。誰か助けて! と心の中で救いを求めたとき、玄関のドアが開いた。
「ただいま」
理恵の兄が珍しく早く帰ってきた。あなたが神様ですかと茜がその姿を見た瞬間、茜の中の時間が止まった。
――なんで、ここに、あの人が?
「ありゃ、今日は早いね兄さん」
「奇跡的に定時退社できた」
「んふふ、それって割と社畜発言ですよ、お兄さん」
「うるさい、どうせ俺は社畜だよ。あれ? お客さんか? って、キミはたしかこの間の……理恵と友達だったんだ?」
兄が台所に立つ茜に気がつき声をかけるが、茜はもう何が何だか理解が追いつかず、返事ができずにいた。
「え? 兄さん先輩のこと知ってるの?」
「この前ちょっとな」
理恵が茜と兄を交互に見て、茜の異変に気がついてギョッとする。この人死ぬんじゃないかってくらい赤面していた。
「え? 先輩? え? まさか?」
茜が好きになった相手が自分の兄だと理恵が確信したのと同時、極度の緊張からか茜がその場に倒れこんでしまう。
「せ、先輩しっかりしてー!」
理恵のその言葉を最後に、茜の意識は途絶えた。
◇◆◇
次に茜が目を覚ましたとき、最初に目に入ってきたのは知らない部屋の天井だった。
気絶した茜は理恵の部屋まで運ばれ、ベッドに寝かされていた。まだ頭がぼーっとしている茜は、横になったまま順を追って状況を整理する。
「わたし芹沢さんの家に来て、夕食を作っていて、それから……どうしたんだっけ」
そこから先が思い出せない。何かとんでもないことが起こった気がするが、ビデオの録画に失敗したように記憶の再生がうまくいかない。
部屋のドアは閉まっているが、その向こうからは肉の焼けるいい匂いがした。そうだ、夕食の準備を手伝わなければと思い、ベッドから抜け出そうとしたとき、ドアが開いた。
「あら、お目覚めですか?」
やってきたのはマリエルだった。
「あ、マリーさん……ごめんなさい、わたし倒れちゃったのかな……」
ここのところ、あの人のことばかり考えて寝不足だったからだろうかと考えたところで、記憶が繋がる。
「あ……」
そうだ、さっき突然あの人が現れて、わたしはそれで気を失ってしまったんだと思い出す。
「お体の具合はいかがですか? まだ少し顔が赤いですね」
マリエルが心配そうに茜の顔を覗き込んでくる。
「だ、大丈夫……ちょっと疲れてたんだと思う……」
この天使には人の心を見透かす力がある。これ以上見られると、わたしがあの人のことを好きなことがバレてしまうと思い、茜は布団を被って顔を隠した。
「そうですか。大丈夫ならいいんですけど」
ひとまずバレはしなかったかと茜がほっと一息ついたところに、マリエルが追い打ちをかける。
「恋の悩みはお辛いでしょう? 無理しないでくださいね」
めちゃくちゃバレていた。茜がガバッと起き上がる。
「な、な、な、なんで!? あ、天使の力!?」
「んふふ、そんなもの使わなくても、あの様子を見ればすぐわかりますよー」
醜態を晒してしまったことを恥じ、茜がガクッとうなだれる。
「……バレちゃったかなぁ、本人にも」
「多分あの様子だとわかってないですね、んふふ」
マリエルのその言葉に、茜がほっと胸を撫で下ろす。
「……茜さん。茜さんはとても純粋で、綺麗な心の持ち主です」
マリエルが神妙な面持ちで、茜をまっすぐと見つめて言う。
「は、はい? あ、ありがとう?」
いきなり褒められ、何のことかと茜がキョトンとする。
「なので、わたくしは茜さんには幸せになってほしいです」
「う、うん」
「だからこそ言わせていただきます。あの人はやめておいた方がいいです。仮に結ばれたとしても、茜さんが不幸になります」
突然の天使からの忠告に、茜は状況を飲み込めずに呆然とする。
「……え? それって、どういう……」
「あの人は、人として壊れてます。他人のことを幸せにできる人間ではありません。……自分自身のこともですが」
マリエルの険しい表情に、いつもの嘘や冗談で言っているわけではないことを茜は理解した。でも、だからこそ言葉の意味がわからない。
「だって、そんな、だって……あんなにあったかくて、優しくて、いい人だよ? そ、そんなわけないよ、誰も幸せにできないだなんて……」
「たしかに、そうです。彼は優しい。表面上は」
「それに、わたしのこと、助けてくれた、し……」
「……人間に他の人間のことをここまで話すのは、天界の掟に反しますが、それでも言います。あなたには不幸になってほしくありませんから。あの人は――」
やだ。何を言おうとしてるの、この天使は。もう聞きたくないと茜が耳を塞ぎこもうとしたとき。
「先輩、大丈夫ですか?」
理恵がドアの向こうから顔を出し、部屋の中を覗き込んでくる。
「せ、芹沢さん……うん、大丈夫……」
「嘘。全然大丈夫そうに見えないですよ。さっきはあんなに赤い顔してたのに、今度は真っ青になってるじゃないですか。まだ休んでてください」
茜は自分では気がつかなかったが、マリエルの話を聞いているうちにどんどん血の気が引いていってしまったらしい。
「だ、大丈夫だよ……もう立ち上がれるし」
よろめきながら立ち上がる茜の体をマリエルが支えて、耳元で囁く。
「今の話はセリーには内緒でお願いします。この幸せな家庭を壊すことになりかねませんので」
「……うん」
「マリー、先輩に変なことしたら晩ご飯抜きだから」
理恵はそれだけ言うと、また台所に戻っていってしまう。理恵の言葉に、マリエルが苦笑する。
「あらら、わたくし、今日は晩ご飯抜きにされそうですね」
「マリーさん。天使には人間のことが全部わかるの?」
「……性質は見抜けますが、全部ではありませんね」
「そうなんだ。……じゃあ、わたし、あの続きは聞きたくないです」
「ですが…………いえ、そうですね。わたくしも干渉が過ぎました。申し訳ありません……」
「わたしが、わたしの気持ちとどう決着をつけるのかは、わたしが決めます。あの人がどういう人なのかも、わたしの目でちゃんと見て判断したい」
「……これも人の性ですか。願わくば、あなたに幸あらんことを」
マリエルは静かに目を瞑ると両手を組み、目の前の純粋な少女が幸せになれますようにと心から祈った。
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