13 初恋

「……大切な人との約束を、守れなかったんです」


「約束?」


「小学校のとき、すごくお世話になった先生がいたんです」


 茜がこの話を他人にするのは初めてだった。どうしてこんなに素直に話すことができているのか、茜は自分でもわからず、困惑しながらも話を続ける。


「先生のおかげで、わたしが今ここにいると言っても過言じゃないです。その先生が転任するとき、約束したことがあって……わ、わたしは、その約束を、ま、守れてなくって……」


 茜の声が震え出し、今にも泣きそうな顔になる。


「そっか……どんな約束をしたの?」


「いくつか、あって……その中のひとつの……大切な友達を作ることっていうのを約束したのに……わたしには、ちゃんとした友達が、いなくって」


 そこまで言って、ついに茜の心が耐えきれなくなった。


「わ、わた、わたしは、い、今まで、約束を破ってたことにも気づかないで……き、気づかない、ふりをしていて、先生を、ずっと、う、裏切ってたんだ……」


 取り返しのつかないことをしてしまったという後悔と恐怖で、茜の体がガタガタと震える。胃液が逆流し、吐きそうになるが、必死に口を押さえてこらえる。


「……辛いことを口に出させて、すまなかった。そんなになるほど、その約束はキミにとって大切なものなんだね」


 兄がまた茜の頭を優しく撫でる。今度は無意識にではなく、少しでも茜が落ち着くようにと、意識的に。


「じゃあ、話を聞いた立場として、一つだけ言わせてほしい」


 何を言われるのかと茜は怯えて、いよいよ吐きそうになるが、兄が口にした言葉は全くの予想外のものだった。


「キミが泣く必要はない」


「え……?」


 どういうことかと、泣き腫らした目で茜が兄を見上げる。


「だって約束を破ってないんだから」


「で、でもっ、現に、わたしは――」


「その大切な友達を作るっていう約束にはさ、制限時間があったの?」


「あ……」


 言われてみて、はじめて気がつく。たしかに、先生はいつかとは言ったが、いつまでになんて言っていなかった。


「大切な友達……親友とでもいうのかな。そんなものは作ろうとして作れるものじゃないし、ましてや、いつできるかなんてわからない。俺にも親友って呼べるほどの友達はいないしね」


 茜はただ呆然とした様子で兄の言葉を聞いている。


「でもいつか、キミにも俺にも親友ができるかもしれない。ちょっと歳は離れてるけど、もしかしたら俺とキミがこれから親友になることだってあるかもしれない」


 そんな風に考えたことはなかった。常に目の前のことに全力を尽くしてきた茜には、今のことしか考えることができていなかったからだ。


「あなたが、わたしの友達に、なってくれるの……?」


 喉から絞り出すように、掠れた声で茜が言う。その瞳には期待と不安が入り混じっていた。


「 俺でよければ」


 兄が立ち上がり、茜に手を差し伸べる。茜はその手を掴むと、今度こそ立ち上がることができたのだった。


 兄は自分が言ったことは詭弁だと思う。自分はもう二十五歳で、相手はおそらく十四歳か十五歳だろう。この年齢差で本当に友達になることなんてまず不可能だろうし、そもそも自分自身が生きていく上で友達を必要だとは思っていない。

 それでも、同じ年頃の妹を持つ者として苦しんでいる茜のことを放ってはおけなかったし、それで彼女の心が少しでも楽になるならいいだろうと考える。


 兄は茜が立ち上がったことを確認し、手を離そうするが、茜がギュッと手を握ったまま離そうとしない。まだ不安が完全になくなったわけではない茜は、その手を離したくなかった。


「い、家まで、送ってくれるんですよね……?」


 茜が恐る恐るといった様子で聞く。


「もちろん」


「家まで、手を繋いでもらえると、嬉しい、ですっ……」


 頭から湯気が出そうになるほど恥ずかしかったが、意を決して言う。


「ああ、いいよ」


 きっとまだ心が落ち着かないのだろうと思い、兄はそれを承諾し、二人で歩きはじめる。

 道中、二人はまた話すことがなく無言になるが、茜はその手の温もりだけで十分すぎるくらい満ち足りた気持ちになっていた。


 見ず知らずの他人に救われるなんて思わなかった。

 こんな形で友達になってくれる人がいるなんて思わなかった。

 それに何よりも、恋をするなんて思わなかった。


 幸せな時間はあっという間に過ぎ、二人はやがて茜の家に到着する。二人は最後にお互いの連絡先を交換して別れたが、その後で大事なことを聞き忘れていたことに茜は気がつく。


「あ……名前、聞いてなかった……」


 電話番号を教えてもらったのはいいものの、お互いに自己紹介もしていなかった。名前がわからないと登録ができない。できなくはないが、なんて名前で登録をすればいいのか。


「……うーん」


 頭を悩ませる。


「誰に見られるわけでもないし……こうしとこう」


 大切な人。

 今日一日色々なことがあったが、最後には茜の電話帳にそんな名前の電話番号が登録された忘れられない日になった。




◇◆◇




 茜を無事に送り届け、兄も自宅に帰宅する。気がつけば時刻はもう十一時を過ぎていた。


「おかえりなさい。ご飯にします? お風呂にします? それとも――」


「理恵は? もう寝た?」


 パジャマ姿のマリエルが新妻さながらの出迎えをするが、兄がその言葉を遮って聞く。


「お兄さん、ノリが悪いですよぅ。セリーはもう寝ちゃいましたねぇ」


「そっか。俺も今日は疲れたから、もう寝るかなぁ」


 泣いている女子中学生を慰めるという慣れないことをして疲れたせいか、既に眠たくなってきて、兄は大きなあくびをした。


「あらら、お仕事大変なんですねぇ。じゃあ一緒に寝ましょうか」


「何がじゃあ、なのかまったくわかんないんだけど」


「んふふ、天使の体からは目には見えない神聖なオーラが出ていて、そのオーラを浴びると人間は元気になるそうです。なので、わたくしと一緒に寝ると元気になれますよ、お兄さん」


「そこの天使、平然と嘘をつかないように」


 この数日間でマリエルの性格を把握した兄にはすぐに見抜くことができた。


「んふふ、オーラは嘘ですけど、お兄さんが元気になるのは本当ですよ?」


「そうなのか? 天使の能力で癒してくれるとか?」


「いえ、そういうわけではなくってですね、下半身が元気になるんじゃないかなーって」


 いつも通りのニコニコとした笑顔で下ネタをブッ込んできたマリエルを見て、兄は頭が痛くなってきた。


「理恵の前でそういうこと言ったら追い出すからな」


「もちろん、セリーの前ではこんなことは言いません。ああ、それともう一つ、セリーがいない今だから言えるんですけど」


 また下ネタだろうかとため息を漏らしながらスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩めようと結び目に手をかける。



「お兄さんって、魂の形が随分と歪んでいますねぇ」



 マリエルのその言葉に、ネクタイにかけた兄の手が止まる。


「どういう意味だ?」


「そのままの意味ですよ。あなたにも救いがあらんことを。んふふ、それでは、おやすみなさい」


 意味深な言葉を残して、マリエルは理恵の部屋へと去っていった。


「意味がわからん……」


 一人残された兄は一人でそう呟くが、マリエルの言葉をいちいち真に受けるのも馬鹿らしいと考え、自分ももう寝ようと寝巻きに着替えてベッドに潜り込んだ。




◇◆◇




 兄がものの数分で眠りについたころ、茜はベッドの上で眠れずにいた。横になって眠ろうとはしてみるものの、目が冴えてしまっている。


 あの人の笑顔が、声が頭から離れない。握った手にはまだ温もりが残っている気がする。


「はぁ……」


 携帯の画面に表示されている電話番号を眺め、先程から何度目になるかわからないため息をつく。困ったことに、このままではまったく眠れそうにない。


「好き……になっちゃったってことなのかな、やっばり……」


 口に出した瞬間、猛烈に恥ずかしくなり、布団を抱きしめながらベッドの上で悶絶する。


「なんで今日はじめて会った人のことを……」


 わたしって実はチョロいんだろうか。将来悪い男に騙されるタイプなのではと余計な心配まで湧いて出てくる。

 こんなことを相談できる相手もいないし、そもそも相手は十歳は年上に見えた。これがもし本当に恋だとしても、それが叶う確率は限りなくゼロに近い。


「初恋は実らないって言うからなぁ……はぁ……」


 結局この日、茜は一睡もできずに、延々と悶々とし続けることになった。

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