12 わたしの味方

 理恵の兄がいつものように上司に嫌味を言われ、いつものように残業を終え、いつものように疲れての帰り道、目の前にいつもと違った光景があった。

 理恵と同じ学校の制服を着た女子中学生が、道端にうずくまって泣いている。


 時刻はもう夜の十時前。こんな時間に中学生がいて、しかも泣いているなんて、ただ事ではない。


 声をかけるべきか。でも子供に声をかけただけで事案になるこのご時世、変質者と間違われないだろうか。

 夜の十時ごろ、男が女子中学生に声をかける事案が発生しました。男は二十代、中肉中背、黒のスーツを着用。そんな文言が兄の頭の中で再生される。

 いやいやいや、そんなことを恐れるよりも、今この状況でこの子を放置することの方が人間として問題がある。そう思い、意を決して声をかけることにした。


「大丈夫? 何かあったの?」


 うずくまっている彼女に合わせるようにしゃがみ、できるだけ優しく声をかける。


「…………」


 相手の少女――茜は、ただ泣いているだけで返事をしない。というよりは、頭の中がいっぱいになっていて、返事をする余裕がなかった。


 どうしたものか。というかこの絵面は、やはり非常にまずいのではないか。泣いている女子中学生。その横には大人の男。誰かに見られたら通報されるかも。


 この子のためにも、俺のためにも、早くこの状況をなんとかしなくてはと兄の思考が混乱する。


「だ、大丈夫だよ。俺は、その、アレだ、キミの味方だから!」


 味方って何だよ。自分でもよくわからない言葉をかけてしまったことを後悔した兄だったが、茜はその言葉に反応を示した。


「わたしの……味方……?」


 それは偶然にも、茜の心に刻み込まれた先生の言葉と同じものだったからだ。


 反応があったことに兄はひとまず安堵したが、それからどうすればいいのかわからなくなる。


「ええと、どうしたもんかな……そうだ、家まで送るよ! 立てるかい?」


「ごめんなさい、まだ立てないです……。それに、今は家には帰りたくありません……」


 こんな姿を家族に見せたら心配をかけてしまうと考えた茜は、兄のその提案を拒否した。

 一方、名案とばかりに思いついた提案を完全に拒否された兄は固まってしまっていた。家に帰りたくないって、もしかして家出か? じゃあどうすればいいのか。常識的に考えれば警察だろうが、そうすると家に強制送還されるだろうし、それはそれで彼女の気持ちを踏みにじることになるのではないだろうか。


 兄が頭を悩ませてると、泣き止んだ茜が、スーツの袖を引っ張ってきた。


「わたしの味方……」


 茜は憔悴した顔で、うわ言のように先程の言葉を繰り返す。


「あ、ああ、そうだよ。味方だ」


「じゃあ、あなたの家まで連れてってくれますか……?」


 このままこの場所にいても、いつか警察に補導されてしまう。でも家には今の状態では帰れない。茜としては、最善の行動は味方だと言う彼の家で休むことだろうとの判断だったが、初対面の男の家に行こうとしているあたり、思考に冷静さを欠いているのは間違いない。


「とりあえず落ち着こう。な?」


 兄は内心、何言ってんだこの子と動揺しまくりだったが、それを表に出さないように努めて、茜をなだめる。昔、泣いている理恵をなだめていたときの癖で自然と頭を撫でてしまう。


「あ……」


 茜は頭を撫でられると、先生にそうされていたことを思い出し、心が安らぐのを感じた。いつ以来だろう、誰かに頭を撫でられるのは。


「うわっ、ごめん、何やってんだ俺っ」


 兄は無意識のうちに茜の頭を撫でてしまっていたことに気がつき、慌てて手を離す。見ず知らずの女子中学生の頭を撫でる男。これでは正真正銘の不審者だ。


「……こ、こちらこそ、も、申し訳ありません!」


 心が安らいだのと同時に平静を取り戻した茜が赤面する。知らない男の人に頭を撫でられたこともあるが、それ以上に先ほどの自分の発言の異常性の方が恥ずかしい。


「さ、先ほどのご発言は、お、お忘れてください!」


 茜の気が動転し、日本語もぐちゃぐちゃになる。


「うん、良かった、ちょっとは元気になったかな?」


 兄が優しく笑う。その笑顔を見て、茜はなんだか懐かしい気持ちになるのを感じる。この人は、なんだか先生に似ていると思った。


「もう家には帰れる? あんまり遅いと家の人が心配するだろ?」


「は、はい……もう、帰れます。大丈夫です」


「家はこの辺? こんな時間だし、送ってくよ」


「い、いえいえ! いつもこの時間なので、だ、大丈夫です!」


「それは大丈夫な理由にはならないよ。ほら、立てる?」


 兄が立ち上がり、茜に手を差し伸べる。茜はその手を握り、立ち上がろうとするが、まだ体に力が入らずうまく立ち上がることができなかった。


「っと、ごめん、まだ立てないか」


「ご、ごめんなさい……。もう少ししたら立てると思うので、もうわたしに構わず、行ってください」


 茜は恥ずかしさと申し訳なさでいたたまれなくなり、その場に座り込んだまま言う。


「動けない女の子を放置していけるわけないだろ」


 兄はそう言うと、茜に背を向けて屈む。


「え? え?」


 その行為が何を意味するのかすぐに理解できたが、それはあまりにも恥ずかしすぎると茜が困惑する。


「おんぶしてくよ。ほら、掴まって」


 この人は真顔でなんてことをしようとするのだろう。この歳で、しかも男の人におんぶされるなんて恥ずかしすぎて卒倒しそうになる。


「い、いやいやいや、流石にそれは、ダメですっ……」


 茜がうつむきながら頬を染めて、頭をブンブンと横に振る。


「あ、ああ、ごめん、嫌だったかな? キミが妹と同じくらいの歳だったから、つい妹と同じように接してしまって……ごめん」


「い、いえ、嫌ではないんですけど、その……は、恥ずかしいので……」


「そっか。配慮が足りなかった、申し訳ない。じゃあキミが立てるようになるまで待つよ」


 兄はそう言うと茜の隣に座り、空を見上げる。


「あ、あの、これ以上ご迷惑をおかけするわけには……」


「迷惑だなんて思ってないよ。あ……そ、それとも、キミの方が迷惑だったかな」


 良かれと思ってやっていたことだったが、しつこかったのかもしれないと心配する兄に対して、茜が首を横に振る。


「そんなことないです。……その、色々嬉しかったです」


「それならよかったよ」


 もともと接点がない二人にはこれ以上話題がなく、それからしばらくの間、無言の時間が続いた。

 兄はぼーっと空を見上げたまま、家に帰ったら何を食べようかなどと他愛もないことを考えていたが、一方の茜はずっと下の方を向いていた。さっきからずっと顔が熱いし、胸の鼓動も激しい。きっと耳まで真っ赤になってる。顔をあげたらそれがバレそうで、恥ずかしい。


 これまで脇目も振らずに努力を続けていた茜は、異性を気にしたことが一度もなかった。そんな余裕なんかなかったし、そもそも同年代の男子たちは子供にしか見えなかったため、興味が湧いたこともなかった。


 そんな茜がはじめて異性を意識した。これまでにない自分の状況に、どうすればいいのかわからなくなる。

 なんていう名前なんだろう。歳はいくつだろうか。どんな趣味をもってるんだろう。どうして、わたしの味方だと言ってくれたのだろう。


 茜には聞きたいことが山のようにあったが、どれも口に出せないでいた。


「嫌だったら答えなくてもいいんだけど」


 時間にしては数分だったが、それ以上に長く感じられた沈黙を兄が破る。


「どうして泣いてたの?」


 茜は答えるのを躊躇したが、この人になら話してもきっと大丈夫だろうと考え、話しはじめた。

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